2026年2月22日日曜日

今回の冬季オリンピックを観てスキーの時代の終焉を感じた。Watching this year's Winter Olympics, I felt like an era of skiing was ended.

  日本代表が惜しくも4位で終わったスキークロス、あともうちょっとでメダルだったのに残念!

 しかしこの競技は元々スノーボードのスノーボードクロス(=1998年長野オリンピックの頃は種目には無かったが、当時はボーダークロスと呼ばれていた)

 岩手の雫石で行われたFISスノーボードワールドカップ(ネットでどこを探しても記録がない)で初めてスノーボードクロスが採用され、自分でもアルペンの板で滑ってみて転びはしなかったが、さすがに最後のゴール前のジャンプは飛べなかった。

 当時はまだアルペンの板でハードブーツの選手の方が多かったように記憶している。たしか一人だけソフトブーツで参戦した選手がいて、結構順位が良かったので続々とソフトブーツでアルペンの板を履く者が出たように思う。初期のレースなればこその試行錯誤の時代だったような気がする。

FISの年間ブローシャー。まだ21世紀の前は正式ロゴは左上のモノだった。

 要はスキークロスもこのスノーボードクロスをスキーでやるって事。筆者が長野オリンピックの競技役員としてお手伝いをしている頃、初めてボードのハーフパイプにスキーヤーが入って真似事をしていた。しかしカーブの強いパイプの中でビンディングが外れまくっているのを何度も眼にした。20世紀末はまだそういう状態だったのだ。


 筆者がスキーの板を履いたのは1964年の12月高校のスキー教室。まだ16歳の高校一年生だった。JR中野駅前の丸井でセットを月賦(=クレジット分割払い)で買った頃。三浦雄一郎氏が富士山直滑降した頃だ。

 池袋西武の三浦さんの展示会に列をなして行ったほど。トニーザイラーの「黒い稲妻」という映画の大ヒットでスキーというウインタースポーツが高度成長下の日本で「憧れのウインタースポーツ=冬の過ごしかた」のトップに躍り出た頃。

https://www.google.com/search?q=DER+SCHWARZE+BLITZ&rlz=1C1CHZN_jaJP1075JP1076&oq=DER+SCHWARZE+BLITZ&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOdIBCTMxMTZqMGoxNagCCLACAQ&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&sv=CAMSaxoyKhBlLVd0Mk9mR0ZkOUdoQWxNMg5XdDJPZkdGZDlHaEFsTToObHBHVENaOGZacFg5RU0gBCoxChtfVmZDYWFmV2JJNm01MnJvUGthN1g2UUVfNjMSEGUtV3QyT2ZHRmQ5R2hBbE0YADABGAcgx-Cs1gcwAkoIEAIYAiACKAI&vld=cid:1aa5ff7e,vid:DQWWw3tRUlI,st:0

 当時東レの黒い原糸が沢山余ったので、来日した際黒のタートルネックセーターをザイラーに着せた結果、黒いセーターが流行ったなどという都市伝説迄生まれた。

 しかし1958年はスキー人口がそれほど多くなかっため、タウンウエアで流行ったという。残念ながら筆者まだ小学校4年生だからその影響も記憶もない。

 1998年長野オリンピックの際、レガシィ・ツーリングワゴンで有名なスバル(当時富士重工)が冠スポンサーで、白馬八方尾根で歴代のオリンピックメダリスト(レガシィ=レジェンド)を招待、「’98HAKUBA LEGACY RACE」を行った。

 これはオリンピックに参加している各国の代表選手たちがその国の誇りである自国のメダリストを応援に来るんじゃないかと目論んでの一大イベントだった。発想の発端は筆者と丸山仁也さん(スキーアルペン全日本選手権唯一の三冠王)との茶飲み話から生まれたのだった。
 これは開催してみたら予想以上の大騒ぎとなり、現場白馬八方尾根は恐ろしい程の観客で埋まり、生のトニー・ザイラー氏が音頭取りでレースを仕切ったためイベント自体がレガシイになったほど。

 筆者の広告代理店時代のベスト3に入る仕事。ユニークなスポーツイベントだ。いろいろ広告界・スポーツ界で賞も頂いたが、記録画像と自分の脳裏に残る記憶だけで充分だ。

 今考えると、この頃が日本における競技スキーのピークだったのではないだろうか?「私をスキーに連れて行って」で爆発したレジャー的、遊び領域としてのスキーは文化的にも人口的にもこれを境に下降し、スノーボードが取って代わったのではないだろうかと推察する。
1982年頃、銀座の広告代理店に勤めていた頃の同僚との戸隠スキー行。エレッセ、ピューミニ、ボグナー、フザルプ、デサント、ゴールドウイン、フェニックスなどスキーウエア・ブランドが目白押しだった。ニチレイ・スポーツの社員バーゲンなど、入場券はプラチナチケットで勤めを休んで行ったりした。

 一方、自分がスキーを始めた初期は加山雄三の「アルプスの若大将」の苗場スキー場ロケに平凡パンチの読者プレゼントに当選して行った頃でもある。季刊誌のスキーガイドなどに白馬東急ホテルの暖炉の前でノルディックセーターを着てくつろぐ写真が掲載され、誰しもが憧れた頃だ。

 この頃の話はこのブログ2014年7月の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」に詳しい。ご参考

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #48.」  ● 実録高校・学校生活 その4.スキー教室編

https://yamasemiweb.blogspot.com/2014/07/blog-post.html

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #49.」  ● 実録高校・学校生活 その5.スキーに関するあれやこれや。 

https://yamasemiweb.blogspot.com/2014/07/blog-post_6.html

 こういった団塊世代とスキーとの関係は他の年代の人より遥かに密接だと言って良い。此処で少し団塊世代ど真ん中でスキーを散々楽しんで来た筆者とのかかわりを含めながら「スキー」というモノの変遷を振り返ってみたい。

 筆者とスキーとのかかわりは1964年12月高校のスキー教室に始まると既に述べた。翌年の暮れ頃には、あとで判った事なのだが加山雄三の「アルプスの若大将」のロケ・エキストラとして西武のバスに乗せられて苗場スキー場のスキーヤーズベッドで1泊ツアーに行ったのだった。平凡パンチの読者プレゼントの形を取ったのだろう。

 撮影の合間にコースの途中で加山さんがスキーを椅子にして日光浴をしているのに遭遇したのもスキーを始めて2年目の高校生の脳裏にはしっかりと刻まれている。

 これで本格的にスキーにハマった筆者は、ありとあらゆるスキー関係の書物を神田の古本屋で手に入れたのだった。

1965年古本屋で見つけて手に入れたのだが本の装丁が本格的な布で立派なものだった。週刊誌が30円とか50円の時代、元値が500円もしたので今考えると相当高価な書籍だったはず。

初期のスキー教則は山側の腰を前に・・だった。

いわゆるオーストリースキーのバイブル!メガホンで大声で怒鳴る写真で有名だったクルッケンハウザー氏の教則本で、日本スキー界のレジェンド福岡孝行氏の翻訳。この30年後1995年のインタースキー野沢温泉大会時、SIA(日本スキー教師協会)名誉総裁の故・寛仁親王殿下にスキーの話を教わった際、福岡孝行さんのお名前を知っていると申し上げたら大変驚かれ、同時に喜ばれたことが有った。
筆者のスキーはこのオーストリースキーで出来上がってしまったため、ずーっとこんな感じの滑り、要は教則本そのままなのだ。故・寛仁親王殿下には数度褒められたことが有る。とても嬉しかった。

 全日本スキー連盟の教則本も手に入れて学んだが、ベーレンテクニックというコブを乗り越える際の超後傾スタイルが採用された際、前年の教程で伸び上がれと言いながら、翌年の教程で沈み込め!などといういい加減さに腹を立てて、SAJの教程はそれっきり信用しなくなった。もちろん1級2級などバッジテストだの、指導員、準指導員などという試験へチャレンジなどもしなかった。

 後に1995年インタースキー野沢温泉大会で散々お世話になった杉山進さんの影響を相当強く受けたのが筆者のスキーへのピーク時だったのではないだろうか?SIA専務理事として日本におけるスキー教師、プロの世界の基礎を作られた方。

 この方のお陰で毎年部厚いスキーの季刊誌などで良く見知った著名な方々、白馬の丸山庄司さん、黒岩達介さん、馬淵雄一さん、小滝頼介さんなどと身近にお話が出来た。

 現在、SIAの名誉総裁は故・寛仁親王殿下の後、彬子女王殿下がなさっている。彬子女王殿下は夫君の故・寛仁親王殿下と共に日本で一番最初にスノーボードをされた皇族様。

 


杉山さんから贈られた著書。宝物。


団塊世代の筆者がスキーというウインタースポーツを楽しんだピークの時期にお逢いできた杉山進さんは色々な意味で大きな影響を受けた恩人の一人。オリンピック毎に想い出す。

 この続きは、少ししてまとめる予定。