2021年11月21日日曜日

学生が貧困で食うに困っているって報道は本当なのか? Is it true that students are in poverty and have trouble living?

  テレビの報道で、色々な大学の学食で学生に弁当を100円で配布したり、無償で食料などを配布している姿をさかんに報道しているが、どこかおかしくないか?

 列に並んでいる学生たちはブランド物のファッションに身を包み、スマホをガンガン使用していて「食費が無い」「食べない日もある・・・。」ってどこかおかしくないか?

 生理用品が買えないって?スマホで友達とガンガンラインでコミュニケーションして、SNS使って、ゲームして、通信費に莫大なお金使って、それで生理用品買えないって?お金の使い方の優先順位間違えているだけじゃないの?

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060200140&g=soc

 このサイトではスマホの所有意味を必須だと述べている歴史学者とかいう御仁のコメントを載せているが、どう考えても優先順位は逆だろう?スマホが無いと就職活動や勉強が出来ないと言っているが、言い訳がましい。

 じゃあ、この歴史学者はガラケーやスマホを持たない人でも勉強出来ている人々の説明をどうするのだ?

 ワクチン接種でも、接種証明でもスマホが無くても問題なくチェックをクリヤーできている世の中をどう見るのだ?

 スマホはあくまで便利な道具だが、生理用品は「便利」を越えた必需品だろう?現在生きていく上でマスクと同じで何はさておき必要なモノではないのか?

 この歴史学者自身、機械(=スマホ)に操られていて自分を見失っている最近の人間達と同様だと思う。いつの間にかスマホが無ければ生きていけない世の中に成ってしまったのは、こういう浅はかな学者たちのお陰だ。

 こういう人々は単身で25%、複数者世帯で10%のスマホ非普及人口比率をどう考えているのだ?スマホを持たない人間は人では無いのか?更には携帯電話を持たない人々はどうなのだ?

 この問題はデジタル・デバイド以上にスマホを持たない人間差別に繋がっている。ワクチン打たない人差別と同じだ、許されるべきことではない。

 話を戻そう。

 一歩譲って、生理用品買えないビンボー人が何で高額で時代の先端の5Gのスマホ持ってんの?理解できない。格安スマホじゃ何故いけない?

 https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0020/topic021.html

 こうしてメディアがアピールすると背景や全体的にその内容をきちんと分析せずに、情報を鵜呑みにして「大変だ!」と騒ぐのが日本人の悪い癖ではないだろうか?

 随分前、日比谷公園で年末年越し村ってのがあって、貧困者たちに物を施す運動があり、政府関係者もサポートする「事件」があったのを覚えておられよう?

 筆者は新春箱根駅伝の読売新聞社前から歩いてこの村へ行ったことがあった。緑色のプラフェンスに囲まれた一角には一般人の我々は入れなかった。

 外から見ていたら黒塗りのワンボックスカーがスーッと2台来て、中からレポーターとホームレス風のオジサンが出て来てインタビューシーンを撮ってた。レポーター女史「年越し村の方にお訊きします、年越しのお金はありますか?ちょっとサイスの中身を見せて頂けますか?」するとホームレス風のオジサン財布の中を見せる・・。

 レポータ女史「今、見せて頂いたところ千円札が2枚とあと小銭しかありません、これではとても年は越せませんね?今こういう方が沢山日比谷公園の年越し村に来られています。」・・・って、今財布に入っているお金が全財産って勝手に決めつけているけれど、自宅に戻れば札束や銀行貯金があるかもしれないだろ?メディアの「騙しインタビュー」はこの手が余りにも多すぎる。

 テレ朝の玉川徹ではないが、そもそも日本人は集団で「そうだそうだ!」と付和雷同型の集団行動をする傾向が非常に強い。

 戦争直後のクリスマス乱痴気騒ぎ、バレンタインデーのチョコ騒ぎ、異教徒の子供の祭りハロウィン騒ぎ、そのほとんどが「口実」にしての集団で騒ぐきっかけ。これをメディアが煽る。

 要は単純でバカなのだろう。大宅壮一がテレビの普及で「一億総白痴化」という名言を残したが、色々な面で現在も続いているような気がする。

 これ等の騒ぎによって、日本古来の伝統、五節句(=人日・正月、上巳・桃の節句、端午の節句、七夕・たなばた、重陽・菊の節句)が廃れてしまった。メディアの責任は大きいと思う。

 生理用品が買えない大学生女子・・の話もこれに近いのではないだろうか?それに、何でそんなに生活苦の状態の東京へ無理して出て来るのだろう?地方一般在住者、地方の大学に行っている女子大生でこういう声が果たして上がっているのだろうか?

 大学は東京以外、自分の出身地にもあるだろう?大学は義務教育じゃないんだから、生活基盤や授業料の手当など計画性をもって自己責任で行うべきでは無いのか?

 繰り返すが、そもそも日本の産業構造上、第一次産業、第二次産業、第三次産業が存在するが、東京に集中するのは第三次産業が殆どだ。IT・コンピュータの台頭で、その傾向は確かに強くなっている。

 しかし生涯賃金を考えた時、今や第一次産業従事者の方が高収入ケースが続出している。生涯非正規雇用で物価の高い東京でギリギリの生活をするより、地元で第一次産業、二次産業に就き高額収入を取る方が、随分良い一生を送れるという事を何故教育者たちは教えない?

 高度成長期の40年前と違って、今や東京に出て生きるという事は「苦労する、貧乏する」のがアタリマエ・・という新しい常識をメディアは「警鐘」として流すべきではないのか?

 自民党の現政調会長・高市早苗がかって総務大臣の時に「東京一極集中はどうしようもない!」と嘆いたが、地方の高校教育で「東京へ出て大学に行き就職する事の難しさ、成功率の低さ」を教えないからだと筆者は思っている。

 例えば、同じ高校から東京へ出た先輩が今どこでどうしているか、勝ち組も、負け組も包み隠さず後輩に公開するのが良いと思っている。で、その勝ち組と負け組の高校時代の成績も合わせて・・・。そうでもしなきゃ、現実の厳しさが判らないだろう?

 視聴率を稼がねばならないのか、TVでバラエティ番組、おしゃれな街案内、おしゃれなお店案内で圧倒的に視聴者の多い東京ばかり流すから、全国津々浦々から若者が東京目指して上京してしまうのではないのか?高市早苗自身だって奈良から上京したので良く判っているだろう?

 東京に出てカツカツで生活し大学を出て、そのまま居座って、これまたカツカツの収入で生きても、相当な苦労と努力とを覚悟すべきだと、何故地元高校の教師は教えないのだろう?

 世の中が悪いだの、不公平だの愚痴をこぼしながら、国や人々の施しを受けつつ生きていく現実例を。幾つも紹介しながら「現実教育面」をもっとしっかりすべきではないだろうか?

 生理用品が買えない、食事がまともに摂れない、これが終わったら次は何が出来ないと言い出すのやら。