2016年5月15日日曜日

団塊世代の「伊藤若冲展」・狂騒症候群、私感。 This is one of Baby-Boomer's opinion about boom of famous Jakuchu Ito ! 

 先月後半から始まった上野の東京都美術館で開催中の「生誕300年記念・伊藤若冲展」が予想を越えた信じられない様な混雑・混乱を呈している。下手をすればもうすぐ死人が出るのではないかと思うほどだ。元々混むとは思っていたが、その現象自体にも、黙々と並ぶ人達にも只々呆れるしかない。
 
 公式ホームページを見ると、一昨日の朝開館時の入場待ち時間は遂に240分という表示になった。240分、つまり朝、開館時に行って並んでも4時間後にしか入れないという事だろう?開館が朝9時半だから、午後1時半に成らないと中へ入れないって訳だ。
体の弱い人や持病のある人は生きて帰れると思わない方が良い?

 今回は数週間前の雨の金曜日夕方行ったのだが、この人混みを視てさっさと諦め、図録だけ買おうと係員に許可を貰い逆走して館内のショップで購入したら、何故かそのまま館内を観る事が出来てしまった。しかしとてもではないが、再度行く気は起きない。


 十重二十重って生で見るとやはり凄い。20時まで開館の金曜日の午後6時で雨の日なのに入館待ち90分だという。「若冲行った?まだ?、私はもう行ったよ」この優越感だけの為に4時間並ぶのだろうか?1970年の大阪万博、もっと昔、西洋美術館に来たミロのビーナスの時から日本人は何も変わっていないのか?

本筋に戻ろう・・・。

 2000年京都国立博物館での没後200年若冲・特別展覧会で初めて若冲を観て以来、その色彩と観察力に圧倒され純粋に美術系出身としての筆者の血が騒いだのだった。2006年の東京国立博物館でのボストン美術館所蔵・日本美術展でも、まだその熱の中心は純粋美術系のモノだった。

 しかし、野鳥の写真撮影を始めた2006年以降、同じく上野の東京国立博物館での「特別展・対決―巨匠たちの日本美術」あたりから見方が変って来た。若冲の描く鳥の絵に特に興味が向き、普段人吉・球磨川界隈で向き合っている野鳥たちを「伊藤若冲」がどのように描いているか、詳しく視るようになったのだった。彼「若冲」は特に鶏を沢山飼って、その動きを観察し、独特の動きを色彩豊かに描いているが他の野鳥たちはどうだろう?・・・が一番の興味だった。

 彼の動植綵絵30幅を特に見始めたのがこの頃からだ。宮本武蔵が描いた百舌鳥が枯枝に留まった絵、あるいは翡翠が留まった絵を観て発想したのかどうか判らないが、「若冲」も枯れた葦に留まったような翡翠(かわせみ)を描いているのだ。若冲の方が100年ほど後だから、どこかで観る機会があったのだろうか?そうでなければ名人というものは何処かで同じような発想をするのだろう、これまた凄い事だ。

 しかし、何処をどう探しても山翡翠(やませみ)の絵だけは無い。他の画家の日本画の中にもヤマセミだけは無い様なのだ・・・。探したところ、手配書、人相書きの様な絵や、分解図・解体図のような日本画の絵はあるが、生態が判る様な絵は無い。つまりヤマセミはそれほど出遭い難い野鳥であることの証明になっていると思うのだ。

 色々な展覧会で「若冲」に逢う度、図録を購入して展示作品のどこかにヤマセミは描かれていないか、珍しい野鳥は描かれていないか探すのが習慣になってしまっている。従って図録の印刷がいい加減ではどうしようもない。あの人ごみの中ではじっくり見て回るのはまず無理!「あー、これがあの絵だな」と、確認する事しかできまい。

 その点今回の東京都美術館の図録はあまりにも情けなかった。表紙の酷さにも驚いたが、印刷が非常に甘いのだ。年々印刷技術は進歩していると思うので、精密描写に近い「若冲」の絵も図録でじっくり鑑賞できると期待したのだが・・・。

やはり、「若冲」の図録で一番しっかりとしているのは、2007年京都・相国寺承天閣美術館での「開基足利義満600年忌記念・若冲展」の図録だ。既に関係者の間ではその評価が高まり、2000年京都国立博物館の時の図録が希少価値により古書界で高値で取引されているのをこの先抜くだろうと言われている。

左が今回の図録、右が「若冲」としては一番印刷評価が高い2007年相国寺図録。相国寺の図録は急激に評価が高くなってネット上でも滅多にお目に掛かれなくなった。


若冲ブームの火付け役になった2000年京都国立博物館での図録。印刷のレベルはさすが2000年時代と今を比較しては可哀想。多少甘いが希少価値は高い様だ。ネット上でも結構な値段が付いている。


 いずれも左が2007年京都・相国寺の図録、右が今回都美術館の図録。色はともかく精密描写に近い日本画でシャープさに欠ける印刷では詳細部分の鑑賞においてどうしようも無い。現場でガラスの板越しに大勢の客に押されながらこれを視ろというのは酷だろう?

 嗚呼、しかしどうして東京で展覧会をやるとこうして作者の作品をバラバラにしたり勝手に拡大(図録の表紙の様に)して告知に使ったりするのだろう?非常に作者に失礼だろうと思うのだが。
 こんなにオリジナルの作品をバラバラにして新たな別のモノにしてしまって良いのだろうか?2020年東京オリンピックの最初のエンブレム事件の際の昨今のデザイナーの仲間内の常識・考え方への違和感を想い出してしまった。

 作品Aの部分と作品Bの部分をまんまコピペして組み合わせればオリジナルのCとして成り立つ・・・など詭弁以外の何物でも無かろう?逆に自分のオリジナル創造力の無さを証明しているだけではないか?呆れてしまう。鴨鍋と鶏鍋を真ん中を仕切った二色鍋にして「オリジナル合鴨鍋」と言って宣伝しているのに等しい、次元が低すぎる。今や自称他称含めて、何処にでも居るデザイナーなど憧れの職業でも何でも無くなってしまった。

 やはり、日本画の展覧会は京都に限る。入場料が高くても良い、もっとじっくり落ち着いて鑑賞できる方法は無いモノだろうか?図録の作り方もやはり京都にはかなわないと今回つくづく思った。