2015年1月10日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #90.」 最初の大仕事はVANMINIの七五三キャンペーンだった。 その5.

最初のVANMINIキャンペーンで、思いも寄らぬ大成功を収めた販促部(課から部に昇格していた)は、直ちに次のキャンペーンの構想に取り掛かった。VANMINIの成功を横目に、VANBOYSのチームも店頭キャンペーンの威力を目の当たりにしたのだろう、その次のシーズンへ向けて熱心なキャンペーン実施要請を販促部に行っていたらしい。隣のVANMINIの営業データがはっきりとキャンペーンの成果を示していたものと思われる。その効果は単に営業数値だけではなく、売り場の拡張にも現れていたらしい。Gケース(ガラスの陳列台)1台でも余計に取れて百貨店での販売面積が広がれば、それはもう営業として非常に喜ばしい事なのだ。売り場が広がれば店頭在庫を増やせる、在庫つまり出荷が増えればサイズ揃えも完璧に出来るようになるし、売れるチャンスも広がり営業数値が上がる、そうなれば担当営業は高い評価をもらえる・・・。こういう仕組みになっている。

 当時はまだ売れた実数ではなく、納品数値を売り上げとして評価する傾向が強かった。したがって出庫さえすれば売り上げ数値がつく為、未納返品などという訳の判らない事まで行われていたと聞く。つまり伝票上、売り上げるのだが、商品は倉庫から実際には動かず、売り上げが立ったら直ぐに伝票上返品にしてしまう・・・。成績を上げる為にこう云ったカラ売り上げ行為も時にはあったようだ。
 
 次のキャンペーンは、購入者に対し売り場でのプレミアムを「お楽しみ箱」から手づかみで持っていってもらうという、参加アクション付きの展開だった。このプレミアムに選んだのが「ブリキのおもちゃ」だった。戦争後一時代ヒットした日本製のブリキのおもちゃが千葉や茨城の倉庫に眠っているとの情報を、出入りのプロダクションの人から聞いてサンプルを取り寄せてみた。
 金魚のおもちゃ、キューピーさんなど3~40種類のブリキのおもちゃがデスクの上に乗った。まだ綺麗で保存状態が非常に良かった。で、これを一個一個透明のセロファン袋にいれVANMINIキャンペーンのタグを付けて用意をした。売り場では抽選箱を用意し中が見えないようにして、これら小さなブリキのおもちゃを入れて、一つプレゼントするという趣向だった。これは子供本人よりブリキのおもちゃで育った親のほうが夢中になってしまったようだった。まだ品のよい親御さんが多い頃で「あのブリキのほうがカッコ良いから替えてくれ!」などと無理強いするようなクレーマーは居ない時代だった。今はとても怖くて出来ないだろう。
お客様本人がラッキーBOXと称した箱の中のプレミアムを摘み取った。

プレミアムに使用した「ブリキのおもちゃ」

当時のVANMINIのプレミアム類はヴァンサイトをご参照ください。

 このキャンペーンが終わって、残ったブリキのおもちゃを上げたのが、ブリキのおもちゃコレクターでその後有名になり、テレビの「開運!なんでも鑑定団」で鑑定士になっている「北原輝久」さんだ。これがスタートでブリキのおもちゃコレクターになったのかどうかは定かではないが、彼はまだその頃は一般的な骨董品や中古レコードを集めていたような気がする。当時八重洲に在った北原スポーツにお邪魔した時、彼のコレクションを見せて頂いた事が在る。この北原スポーツからアイスホッケー・ヴァンガーズがスティックや防具、スケート靴などの用具を購入していたので良く訪れていたのだった。

 同時に北原スポーツは信州の南志賀高原にある山田高原スキー場にホテルを経営していて、ヴァン ヂャケットの社員、特にアイスホッケー・チーム部員はバスを仕立ててスキーに行ったものだ。偉く細い道を登っていくのだが、非常にこじんまりしていて当時でもリフト待ちなど殆ど無い良いスキー場だった。
後ろが南志賀に在った山田高原ホテル。当時のヴァン ヂャケット社員のスキーツアーはこういったスタイルが多かった。遊びには徹していた。

 世の中的には空前絶後のスキーブームで、ヴァン ヂャケットでもスポルディングの板をVan Sportsで、その後ヴィッター・ツアーなどというイタリアの陸軍が使用したとか云う無名のスキー板を売り出すことになったりして、それなりにブームの恩恵にあやかろうとはしていたようだ。
当時の自分のスキー用具。まっさらの板が3本あるが、いずれもヴァン ヂャケットが扱っていたスポルディングの板。スキー靴も赤白のストライプに塗った試作品。黒いラング・スーパーコンペは宣伝部の内坂君(現マガジンハウス)がプレゼントしてくれたもの。自分に非常に合った靴だったので8シーズンも履いた。

 やはりスキー関連ウエアや用具を販売するとなれば、それなりのレベルの経験者が必要だが、競技スキー上がりの宣伝部内坂君も読売新聞社の「スキーライフ」などというエポックメーキングな雑誌編集に借り出されて、あまりヴァン ヂャケット本社には居なかった。
読売新聞社が出したこのムック本は日本のスキー界のみならず、若者の関心を根底から変えた。

K2、プレシジョンなどというスキー板がこの本以降人気に。同時に若者文化の大方向転換の起爆剤にもなった。この後「Made in USA」や「Whole Earth Catalog」に続き新しいアウトドア系のUSA文化隆盛に繋がる。しいてはこの動きが、トラッド・アイビーから抜け切れないヴァン ヂャケット倒産の引き金を引くことになる。

競技こそしないが、当時スキー暦既に10年の筆者もスキーをする際はアイスホッケーの派手なユニフォーム・ジャージやラグビージャージを着て滑ったり、ウエスタンの皮製のフリンジジャケットにテンガロンハットで滑ったりしていたので、商業ベースに乗ったスキーウエアになど見向きもしなかった。
山田高原スキー場でポール練習後の記念撮影。立教大学のブラウネOBなども居て遊びの割にはレベルは高いメンバーだった。右端の筆者はキャンペーンに使ったTシャツを着ている。右から3人目はアイスホッケーのユニフォームジャージ。


「団塊世代のエネルギーの元は『優越感』にある!」という事を以前このブログでも書いたが、まさにその「優越感」を得るために、他人と違ったオリジナリティを出すには、お金さえ出せば買える高価な輸入品海外ブランドの市販のスキーウエアでも限界があるというより、理念的に許せなかったのだろう。当時既にナンバー1、よりオンリーワンを追求する気風が在ったような気がする。当時のヴァン ヂャケットの社員たちはこういうタイプの人間ばかりの集団だったような気がする。