私は小学校の1年生の1学期から6年生の3学期を終了し八代市立太田郷小学校で卒業証書を戴くまで4か所の小学校、3か所の都市で生活をした。この間広い日本の東京と九州と云う言語も一部異なるという全く異なる環境下でそれぞれ違う常識・価値観を経験した。そのお蔭で人の頭の中には色々な異なった考え方があると云う事を小学生の時から知る事に成った。要は真実や答えは決して一つではないと云う事を知った訳だ。
2010年の小倉北区中心部
特に約5年間を過ごした小倉と云う所は特に大きな影響を受けた場所だ。小倉市は昭和34年当時人口約28万人で北九州五市と云われた門司・小倉・戸畑・八幡・若松の中で八幡市に次いで第2位であり、文化・政治・ビジネス・情報の中心地だった。当時八幡製鉄、住友金属、三菱化学、安川電機、三菱重工(下関)など主要産業は筑豊の石炭を背景にした鉄鋼・機械・化学などの大企業とそれの関連企業で日本における4大工業地域の一つを形成していた。したがって其処で育った子供たちの、よく言われる「大きくなったら何になるの?」の質問への答えは「これら重工業企業の重役!あるいはそこに勤務する事!」がまず常識的な内容だったろうと思う。これら製造業以外では運輸の西鉄、マスコミのNHK、毎日新聞辺りが中心だったのでは? 特に西鉄は地元の人気一流企業体でプロ野球日本シリーズで巨人を大逆転で破った影響が相当大きいのも否めないだろう。
北九州重工業地帯・洞海湾をバックに下が1960年の遠足、上は同じ場所の現在
まだ当時はテレビの普及も創生期に在り、タレントや番組制作者を目指そうなどと云う選択肢は小学生の頭の中にはまるでなかった。そういう意味からすると我等が先輩の中尾ミエさんはある意味パイオニア的存在だったと言えよう。アートディレクター、デザイナー、プランナー、エコノミカル・アナリストなど横文字職業などは皆無に等しかった。コンビニもまだ無いしカラオケ屋も無かった。ファミレスも無ければマクドナルドや吉野家も当然無い。逆に考えるとこれだけの選択肢が無かった昔、団塊世代の我々は当時何を目指していたのだろう?不思議でしょうがない。
3年生から6年生途中まで通った福岡学芸大学(現福岡教育大学)の附属小学校クラスメートがその後どのような進路に進んだかに答えの一部が見え隠れする。特に当時成績の良かった秀才たちはたとえば住友金属、八幡製鉄、安川電機、NHKなどに就職あるいはそこの社員に嫁ぐなど重工業関連あるいは基幹メディア、国立大学の研究者などの進路を選んでいて、これらの事実を裏付けている。京都大学、九州大学、東京女子大、津田塾大学など名門を出た頭脳明晰なクラスメートたちは、見事なまでにそれぞれ小倉時代のステータスシンボル的な企業人として、あるいはその企業人に嫁いで共に人生を送る選択をしている。
親が医者、あるいは教師・教育者の様な聖職としての場合は、尊敬する親の後を継ぐなり進路は有る程度「お約束」でスムーズにいくが、商店、飲食店経営の場合は景気の上下や街の発展と共に人の流れが変化するなどの影響を受けやすく、浮き沈みが激しいのも確かだろう。その意味からすれば当時の小倉市に於いて小学生が将来製造業へ進路を考えるのはちょうど高度成長時代を迎えた日本では一番妥当な姿だったかもしれない。親達もそれが当たり前と云う感じで子供に話をしていたものと思われる。
これが鹿児島市、萩市、京都市など独特の歴史・文化・産業を背景とした日本各地で育った小学生であればそれなりに異なる進路を目指したに違いないと思う。たとえば京都であれば学校の先生、日本画家、京都織物師、宗教関係、茶道、生け花関連、宮大工など他には無い将来像を描いたのではないだろうか。
しかし、こればかりは自分で努力するにも限界があるし、羨んでもしょうがない事で、そういう星の元に生まれたのだからと諦めるしかないだろうと思う。
一方で食生活においては、小倉市など北九州界隈は海産物の種類の豊富さと新鮮さに関して国内でもトップクラスの恵まれた環境だと云って良い。大体、私自身大刀魚がクロームメッキの様なピカピカの状態で日本刀の様に一本長々と横たわっている姿を観られたのも小倉の旦過市場に近かったからに違いない。
東京の街中ではどんなに新鮮なモノが入荷する市場でも、太刀魚は殆ど白っぽく錆が回ったアルミ板のようなモノばかり。東京でそれに慣れて地方の市場で水揚げ直後のキンキラキンの太刀魚を観た人は感動すること請け合いだ。
右のクロームメッキの様な魚が太刀魚
その他食生活において、食材・料理方法に随分独特の世界・環境が有った事は良い経験だったと思う。焼うどん、ゴボウの天麩羅、丸天、おきゅうと、イワシの糠炊き(ジンダ煮)、鯨ベーコン、長葱は緑の部分しか使わない・・・などなど。
鯨肉専門店、これだけでやって行けるという食文化背景に驚かされる。
ごぼ天うどん、チョロチョロでは無くてドーンと入っている(資さん)
一番驚いたのが天麩羅には普通の天麩羅(海老天など)の他にさつま揚げの様な丸い練り物の天麩羅が有る事だった。実は大きくなるまでその事に気が付かなかったのだが、80年代の或る時出張でこの丸天うどんを頼んだ際、「丸天切りますか?」というので良く考えずに、丸天がどういうモノかも知りもしないまま「そのままで!」と言ってしまい、出て来たうどんを観て一瞬固まった。うどんに蓋が付いているのかと思った。葱はどうする?ほかにもっと凄い具が隠れていたりするのだろうか?などドギマギした。
丸天うどん、そのままバージョン(普通は丸天を食べやすく切る・・・らしい)
小学生時代クラスメートで40年振りに再会して以来親友とも言える存在の歯科医師が居る。その彼に連れて行ってもらったうどん屋のすべてで東京とは違うレベルの高さ、出汁(ダシ)の美味さが印象に残っている。もっとも私などより遥かに舌の肥えた彼ならではの店選びなので当たり前ではあるが・・・。
ちなみに彼の歯科医院は門司駅前の「藤井歯科医院」という。北九州界隈の歯医者人気ネットランキングで断トツの1位だ。頑固一徹の信念を持っている「赤ひげ」的医師だが、多分患者さんへの症状説明、治療説明が理に適っていてうまいのだと思う、親の後を継がずに歯医者をしていなければ、今頃絶対にラジオのジャズ番組の名ディスクジョッキーになったはず。
此処で余談だが、九州と云えば明太子、今や日本の和食の定番素材だ。江戸の佃煮に匹敵する御飯の友、我が家の冷蔵庫にも欠かす事はまずない。これって、いつ何処で出来たものだろうとネットで調べた。博多の「福や」が昭和24年に韓国で既に在ったスケトウダラの魚卵を塩と唐辛子に付けたものを日本に持ち込み商品化したと有る。しかし私は大相撲関係者の話として北海道・青森出身の力士たちが普段食べ慣れているタラコを九州場所や大阪場所に持ち歩く際、保存できるようにする為にタラコをキムチ製法で処理したという説もあると聞かされた。文化のルーツはいろいろな説が在って非常に面白いと思う。