2014年1月31日金曜日

タゲリという野鳥は日本画の色合い! Northern lapwing is colored looks like a Japanese style painting.

 人吉に行く度にお世話になっている古江さんにタゲリという野鳥をまだ観た事が無いと話をしたら、「えっ?じゃ行きますか?」と即答されて人吉市郊外の田園地域にご案内頂いた。まるで事前に電話して其処に居てくれと言わんばかりに的確にタゲリの傍に車を停車させた。その距離30mもない畑の横だった。

I have never seen before this color full wild bird my self. Mr.Yukito Furue who my teacher of wild birds guided me  to the place of Northern lapwing staying.  He knows the place where the wild bird is in Hitoyoshi precisely very well.Northern lapwing was much more bigger than I think. Also It was so color full and unique style.

 自分が想像していたよりはるかに大きな野鳥だった。いわばキジバトよりは大きめの野鳥だがやたら姿勢が良い。そのくせ柔らかい畑の土に穴をホガしながら首の根っこまで頭を突っ込んで採餌している。だから姿勢は良いのだが、顔に泥が付いたまま写っている画像もある。今回の観察では計8羽の小群だった。あまりそれぞれがくっついて採餌しないので、小群で5~6羽まとまっての画像はなかなか撮り難かった。

 同時に、この野鳥の色がまた厄介で、角度によってはモノクロのツートーンカラーに見えたりする。しかし順光で太陽の光が当たると光沢のあるパステルトーンで極めて日本画の世界の色に感ずる。容姿は冠羽というか後頭部てっぺんから角の様な飾り羽が出ているし、優雅というか野鳥の中でも極めて特異な容姿と言っていいだろう。

 非常に気に入ったので、いつまで居てくれるか判らないが今月後半人吉へ行った時にも出遭えれば嬉しいと思う。今年は冬の間の気温が低かった分、ここ数日の様に急に暖かくなると野鳥たちの行動も急速に繁殖行動に入ってしまうのではないかと心配している。


その品のある綺麗さは完全に日本画の世界の産物

優雅に降りてくるタゲリ、フワフワ飛ぶ感じだ。

ターンして降りる際も他の野鳥と同じで顔は垂直方向を保っている。

タゲリの群れは撮り難い

向きにより羽の色が微妙に変わる。

猫のような鳴き声で飛ぶことが在る。

遠くからも冠羽がアンテナの様に見え隠れする。



 

2014年1月30日木曜日

川辺川でハシビロガモと鹿児島でトモエガモ。 Commons shovelers at Kawabegawa river and Baikal teal at Kagoshima pref.

 今年の冬は冬鳥が少ないという話は昨日行った。ただ鴨類は今までの場所とは異なる思いがけない場所に多数で現れるケースが多いようだ。川辺川の中流域のオシドリ62羽もそうだが、翌日にはすべて何処かへ移動してしまうなど驚かされる場面にも遭遇。今日ご紹介のハシビロカモも2~3日の存在で何処かへ居なくなってしまった。

 冬期は水量が少なくなる川辺川だが、今年はいつもより一段と水位が低いようだ。水草の育ち方なども水深に大きくかかわるだろうと思われるので、自然界の色々な影響が冬鳥の移動場所に出てくるのだろう。

普段はこのような洲は現れないのだが、真冬の今の時期のみ出現する。

ハシビロガモのオスとメスが数羽づつくつろいでいた。

マガモやカルガモに比べて色が目立つので視認しやすい。

こちらは鹿児島のさつま市を流れる川内川の傍の溜池に居たトモエガモのつがい。

相当遠くだった為、記録画像程度だがご容赦願いたい。日本野鳥の会のWEBサイトでも九州での画像は掲載されていない。東日本の方が多いようだ。

2014年1月29日水曜日

繁殖期前のヤマセミつがいにいつもの球磨川で出遭う。 I met a pair of Crested kingfisher at regular point of Kumagawa river at Hitoyoshi.

 今月19日からの2014年最初の人吉ヤマセミ撮影行は6泊7日の中身の濃い成果を得られた非常に納得のいくツアーだった。最低気温がマイナス6度以下という朝が2日間も有り、寒さで身の引き締まる撮影日が多かったが、事情通の辻医院の辻正彦先生のアドバイスなどを頂きながら無駄のない撮影が出来た。感謝に堪えない。
 念願の初詣も勝手にヤマセミ神社と名付けている矢黒神社で行えたし、またそのご利益も非常に大きなモノが有ったので納得尽くめの撮影行となった。神社の境内に門松の飾り物が有るのも初めて拝めていい経験となった。

 最初人吉に着いて、野鳥の声、姿があまりに少ないので師匠の古江之人さんや漁師の島津さんに話を訊いたところ、間違いなく今年は野鳥が少ないという。特に藪系のアオジ、ウグイス、ホオジロ、カシラダカ系が圧倒的に少ない。これは球磨川流域に限った事なのだろうか?カワラヒワ、ジョウビタキ、ヒヨドリ、メジロ、ヤマガラ、エナガ、などはいつも通りに居る様な気がする。川辺川流域に入るとカモ類が多いような気がする。マガモはいつもの1.5倍ほどの数が常駐していた。コガモもいつもよりはるかに多く、ハシビロガモが6つがい、オシドリが62羽まとまって中流域に行く途中の大曲附近に居た。球磨川本流より支流部の方が多いのだろうか。 鹿児島県内に足を延ばした時にトモエガモのつがいも撮影できた。

 肝心のヤマセミは万江川が万江川附近の堰の工事であまり見かけなかったが、辻先生の話では日曜日など工事の無い日はいつも通り付近で採餌しているとの事。少し安心した。球磨川本流の3ポイントでは今が盛りと繁殖期前の体力づくりなのか採餌行動・頻度がいつもより多い。大型の魚はこの時期深場に入り込んでいるので、小魚を数多く採餌しているようだ。逆に撮影チャンスはいつもより多い。今日は一番安定して出遭える場所のつがいの画像をご紹介。このつがいはこちらの事を認識している個体で、架線上に居ても場所を非常に近い方へ移動してくれた。

矢黒神社、別名ヤマセミ神社。闘いの神様を祭ってある。神社に門松が在るのを初めて観た。人吉に来ると必ず撮影前に此処へお参りしている。ご利益は絶大だ。何故か此処へ参ってヤマセミに遭えなかった日は1日たりとも無い。

いつもとは違う右岸からの撮影だった。

まずメスがこちらを視て河川のこちら側に移ってきた。

空ヌケの画像でないため、いつもより見やすい。

今は羽根の欠損は無い模様だ。

直ぐにオスも後を追って傍まで来てくれた。少し場所を移動したがじーっとしていてくれた。
この後は北風が強い日が続き、此の架線へは来なかったので此処での撮影は無かった。


2014年1月28日火曜日

新発見!ヤマセミのメスはオスと違って争わないらしい。 The female of the Crested kingfisher does not seem to fight unlike a male.

 今回の人吉におけるヤマセミ生態観察・撮影でまた新たな興味深い事実が判明した。1月22日、23日付けのブログでヤマセミのオス同士の騒然綱争いの画像を当ブログ上でご紹介した。その同じ縄張りエリアでその2日後1月14日の早朝、今度はヤマセミ2羽の行動を撮影するチャンスが巡ってきた。1羽のオス(たぶん昨年夏誕生の若鳥)を2羽のメスがキャッキャツ鳴きながら(鳴いていたのは追われたオスの若鳥かも知れない)追いかけて行ったがその直後2羽のメスが揃って戻ってきた。

 しかし、この2羽はこちらの姿を見つけまっすぐ向かってきた飛翔方向を揃って変えて離散した。そのうち1羽は私の目の前を一周旋回した後、巣の方向に戻って行った。この附近の個体は何処を縄張りとして何処に巣が有って昨夏の繁殖がどうなったのかほぼ把握しているの。

 このメス2羽は争う事は全くなく、併走して飛んでいた。最初は2羽で1羽を追いかけていたためつがいがいつもの通り自分たちの子供に対して親達の採餌場所・縄張りを侵さない様に警告を与えに行ったとばかり思っていたのだが・・・・。

 2日前のオス同士の縄張り争いの画像と、2日後のメス同志の仲良く並んで飛ぶ姿を良く見比べて頂きたい。非常に興味深い比較になろう。今までどこの文献にもこのような記述は無い、人吉エリアだけの特異な生態・現象だろうか。
追われた若鳥オスはP8欠損の通常プラネート君で人吉の辻先生が毎朝観察を続けておられる個体だ、まだ伴侶が居ない模様。親(つがい)から毎朝きつく縄張りを守るよう攻撃されていて、割に縄張りから離れた場所で採餌を続けている。22日、23日掲載のオス2羽の壮絶な闘いの片方がこの若鳥と思われる。

追いたてたのがこのメス2羽だとすると、この2羽の関係は如何に?4羽に見えるのは水面に映った影。

争う様子が全くないこの2羽のメスは仲良く並んでこちらに向かって飛翔を続け・・・。

こちらが見下ろす下を飛び抜け散会した。2羽のメスの併走というこの様な画像は大変珍しいと思われる。

そのうちの1羽が撮影者の目の前を一周旋回して巣の方向へ飛び去って行った。




2014年1月27日月曜日

オシドリの求愛行動・ディスプレイを川辺川で観察。 I observe a courtship action, the display of the mandarin duck in the Kawabe River last week.

 人吉で1月の最低気温を記録した先週22日、川辺川の中流域でオシドリの群れ62羽を観察。翌日には全く見えなくなったので大変ラッキーだった様だ。球磨川本流の渡(わたり)の附近で昨年も一昨年もオシドリの群れを観察しているが意外にも神経質で、すぐに飛んで行ってしまう為、なかなかゆっくり観察できなかった。今回は一羽のメスを中心にオスが周りを取り囲み、首を伸ばして頭を何度も持ち上げながらヘルメットを脱ぐようなしぐさを繰り返すディスプレイを1時間ほど観察する機会に恵まれた。

 私の師匠、人吉橋の傍にお住いの古江之人さんの話だと結構珍しい事だしじっくり観察させてくれないので撮影出来れば幸運だという事だった。東京の新宿御苑の池にもオシドリは飛来するが、開園中はまず人目の在る所まではなかなか出てこない。数的には50羽以上来ているが撮影となると非常に難しいのが定説だ。

 その意味からすると今回の川辺川のオシドリたちには感謝したい。しかし翌日もっと撮影しようとしたら全く一羽も居なくなっていた。あっけにとられたが、渡り鳥というものはそう言うものなのだろう。それに比べると去年天狗橋近辺に長逗留していたアカツクシガモはきっと異例だったのだ。

最初は浅瀬で頭を持ち上げ合戦が始まっただけだった。

そのうち、一羽のメスを取り囲んで、それぞれが胸を張ってそっくり返り始め、間合いが詰まってきた。云わば押し合いへし合いの押しくら饅頭状態?だからオシドリかと思う程。

だんだん頭の持ち上げ合戦が激しくなっていく。

同時に2~3羽がディスプレイを繰り返すようになった。

そのうち立ち上がって羽ばたき合戦が始まった途端だった!

いきなり、2~3羽がメスに向かって近づこうと体当たりをし始め・・・。

そのあまりの凄さにオスたちを尻目にメスが左に逃げた瞬間。この後全員がメスを追いかけ別のエリアで同じ事を繰り返していた。いわばお祭りみたいなものだろうか?

この模様を動画でも記録した、下のURLをクリックでYOUTUBEにアップした動画をご覧頂ける。



コミミズクやノスリの舞う真冬の阿蘇高原  Eastern Buzzard and Short-eared Owl flying at Mt.Aso.

 阿蘇山へ行ったのは昨年に引き続きだが、野鳥観察と撮影に行ったのは初めてだった。2007年の全国育樹祭を「阿蘇みんなの森」でプロデュースして以来の野鳥観察だった。さすがにこれだけ寒い時期には道路凍結の怖さもあってなかなか行くチャンスが無かったが、今回はベテランの方の案内で地図でも観た事が無いような所で色々野鳥に遭遇できた。

 たまたま今回熊本空港へ飛行機が降りる前に阿蘇山の何処かの上空を飛んで地上を撮影をしていた。撮影した場所は何処だか判らないが、コミミズクやノスリの舞う場所に環境が近いと思われる。きっと野鳥も上空からこう云う感じで観ているのだろうか?

 いつものヤマセミとは違った環境下での撮影にいろいろ勉強させてもらった。またいつの日か挑戦してみたい。






ノスリ

ノスリ

ノスリ



2014年1月26日日曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝  #10.団塊世代の事実をどれだけ一般世間は知っているのだろう?(中) This is the real story of Japanese baby-boomers at '60s~'70s.

 八代二中の同級生はもちろん全員「団塊世代」だ。それぞれ様々な生き方をして今日を迎えている事だろう。その中で2001年に約40年ぶりで再会して以来14年間連絡を取りあっている111組のクラスメートが3名いる。一人は私が毎月人吉にヤマセミの生態観察・撮影に行く際に必ず八代に立ち寄って食事をする二中時代の級長多武利明君だ。同じ「団塊世代」の人間として彼ほど波乱万丈な生き方をした者は知っている限り居ない。中学2年生の時に一人で上京して世田谷の中学校に転校した時の同級生に小説のネタになりそうな生き方をしてきた女性が居るが、多武君の半生は彼女と双璧を成すだろう。

 多武君はやはり熊本市内の進学校を経て、神奈川県内の大学に進んだ。ちょうど私も専門学校を途中で放り投げて横浜の大学に在籍したので、1970年頃横浜の街中で何度もすれ違っていておかしくない奇妙な縁でもある。その後某実力政治家の秘書を務め、政治の世界の裏側で苦労に苦労を重ね、一般の人間とは比べものにならない地獄の辛さ、プレッシャーを視て味わいながら生きてきた、当然価値観も普通とは異なるものを持っている。今日の話の中心はこの「団塊世代の価値観」について少し述べてみようと思う。何故かというと「団塊世代」が他の世代と少し違うとすれば、まさにこの価値観という部分について一番異なっているだろうと確信するからだ。

 私は以前からこの「団塊世代」の価値観が他世代といささか違うという原因はその同期の数の多さに在るとみている。その数の多さが他の世代より遥かに激しい競争に揉まれ鍛えられるという環境を生み出した。その結果「団塊の世代」の価値観の根幹に生じたのが「優越感」という摩訶不思議な感情だと思うのだ。この「優越感」という感情は人間だれしも持ってはいる。人より出世をしたい、人よりゴルフのハンデを上げたい、パチンコで隣の人より玉を多く出したい、人より長生きしたい・・・いろいろ有るだろう。決して悪い事ではない。動物としての人類の向上心の要素の一つがこの「優越感」を得ようとする為に生ずるのも間違いなかろうと思う。チンパンジーだって他の仲間より大きなバナナを得ると喜ぶという事は知られているし、ヤマセミだって大きな餌をゲットした時はこちらに向かって得意げな姿を見せつける(気のせいかもしれないが画像を視る限りそうとしか思えない)。

 で、この優越感と得るという為の努力・競争に勝つ、勝ち抜くいというプロセスにおいて数が多い「団塊世代」は他世代とは比べものにならない激しい闘いをしなければならなかったのだ。マラソンだって1000人の中で一番を獲るより3000人の中で一番を獲る事の方が遥かに難しかろう、それと同じだ。しかも周りの競争相手がほぼ全員自分たちの置かれた環境を親や先生たちからすり込まれて理解し同じような気持ちで事に当たっているのだから始末に負えない。逆に言えばそういう環境下でしのぎを削った同じ釜の飯を食った仲間としての意識が「団塊世代」の団結力・仲間意識の強さになって表れているのだろう。還暦を過ぎてのクラス会や同期会における会場関係者たちの話として「団塊世代さんの会合は他世代とは一味違う」と言われる所以はこの辺に在るのだと思える。 
 
 実はこの「団塊世代」の優越感に対する執着心が世の中に貢献した事が随分ある事をご紹介したい。高度成長の頃中心に日本の消費経済を押し上げた要因の一つに「団塊世代」のブーム造りが在ったのは否めない。私が世の中に出て最初に勤めた青山のVANヂャケット、そうあの石津謙介社長が始めたアイビーのVANだ。そのVANの中心的消費者群が「団塊世代」であったことは紛れもない事実。私が入社した1973年の新入社員は何と数百名、しかもその年の大学生(文系)の選ぶ日本の人気企業NO.1になっている。前年まではトップ20位にすら入っていなかった青山のファッションメーカーがトップクラス常連だった東京海上や日本航空、SONYなどを押しのけての1位になった。この事実からも判るとおり1963年頃から流行り始めたIVYブームが大きく経済的なボリュームで経済に影響を与えたのは団塊世代が消費者の中心になった1970年頃だった。

VANの販促で使っていた通常ノベルティの残りをいまだ持っているというこの執念深さ。

VAN入社初年度の1973年は臨時ボーナスが3度ほど出たのを覚えている。臨時ボーナスと言えば米国のロックバンド・ヴェンチャーズが日本へもたらした空前の「エレキブーム」で売れに売れた国内のエレキギター・メーカー「テスコ」がボーナス23ヶ月分を出し騒がれたのもこの頃だった。つまり、アイビーファッションで衣料が売れる、エレキギターが売れる、ギターアンプが売れる、洋楽レコードが売れる、外タレ(今や死語だが)の公演コンサートが頻繁に始まる・・・これは皆団塊世代がキッカケを造り・マスで消費に繋げたのは間違いない。
Yahoo フリー画像より、ベンチャーズ。真ん中の二人ボブ・ボーグルとメル・テイラーは既に故人。広告代理店時代1997年の長野オリンピック・プレ大会男子滑降のテーマソングを彼らに頼んだのが思い出深い仕事。1990年石垣島での海開きマンタピアのライブでも一緒。

話はさかのぼるが、自分でも日本のグループサウンド・ブームが来る2年ほど前高校生時代にエレキバンドを結成、学校の文化祭でライブ演奏を行っている。これなどもある意味同期の仲間がやらない事を先にやろうという「優越感」を感じたいが為という気持ちがメンバー達に在ったのかもしれない。勿論当時はそんな事は自分達自身微塵も感じていなかっただろうが。アンプは自作の真空管アンプ、7189ppで出力32Wだった。スピーカーは横田の米軍放出品を中古で購入エレキギター以外は全て手造りだった。国鉄の電車の中を学校まで運んだのを今でも覚えている。
広尾高校文化祭でのステージ画像、2年F組のバンド。曲目はThis boy(インストルメンタル)、All my loving, Because(Dave clark five), And I love her,Twist & shout.

 カッコいい、目立とうとする向上心のその根幹に在るのが「優越感」である事はもうお判りだろう?団塊世代の若者がこぞって他人に負けずにトラッド・アイビーファッションで実を固め彼女を得よう、デートしよう、モテようと努力する。かっこいいエレキを買って練習してバンドをはじめよう、更に上手くなってコンテストに出て優勝しよう!これらの動きの頂点がフジテレビで始まった「勝ち抜きエレキ合戦」だ、この審査員にVANの石津謙介社長が一時出ていた事も、まさにこれらの事実を裏付けているではないか?この「勝ち抜きエレキ合戦」で優勝した英国のThe Shadowsのコピーバンドだったザ・サべージがプロになり「いつまでも、いつまでも」のヒットを出し、そのメンバーの一人がかの名優宇野重吉の息子寺尾聰である事は団塊世代であれば誰もが知っている事だ。勿論、寺尾聰も1947年生まれの団塊世代だ。
勝ち抜きエレキ合戦 フジテレビ Yahoo free画像

未だに持っている数少ない邦楽のシングル盤

エレキギターやアイビーファッションばかりではない。アイビーファッションで決めたら次は髪型だ、もう髪型の話には当の昔に縁が無くなってしまった御仁も居ようが当時を思い出しながら我慢して欲しい。V05で有名なヴァイタリス、MG5などのリキッド系整髪料がデビューし大ヒットしたのもこの団塊世代がターゲットだった。それまでは柳屋のポマード、丹頂ヘアーチックなどのグリース系・固形の整髪料しかなかった。
バイタリスと今だに使っているMG5

つまり、1964年東京オリンピック開催時に高校1~2年、中学3年生だった団塊世代が替えた世の中の動き、ブームと言われる社会現象の源に居たのは間違いない。平凡出版から「平凡パンチ」が出てこの団塊世代相手に女性のヌード折込を掲載したのが大ヒットになったのも団塊世代が色気づく高校生になる1964年頃の話。
大橋歩さんのイラストが人気で、この表紙をセロテープでコーティングした定期入れが流行った。

この「優越感」を追い求める向上心の動きが、その後のスキーブーム、サーフィンブーム、テニスブーム、オーディオブーム、ディスカバージャパン国内旅行ブームに繋がって行く。これらはすべて「他人より上手くなりたい、他人より良いブランド品の用具を持ちたい、他人よりより高級なマランツやマッキントッシュのステレオ装置を買いたい・あるいは自作の音質の良い真空管アンプを造りたい、知識を得たい・・・。」がエネルギーになっている。

たとえばスキーブーム。団塊世代の仲間が集まって「今度スキーに行こうぜ!」となると自慢話が始まる。「スキーなら俺は1級だぜ、準指(準指導者の事)を目指しているよ、俺の板はロッシ(三井物産スポーツが輸入元のフランス製ロシニョールの事)のSMコンペ(※決して厭らしい事を指す訳ではない、スラロームの意味)だもん」などと自慢話に花が咲いた。スキー板もストラーダだC4だとかプロ仕様の髙価なブランド板を自慢し合ったものだ。これが極限に達するとスキー場に行く夜行列車で網棚に板を吊るす際、スキー袋ケースに入れず、これ見よがしにブランド名が見えるように板を裸で吊るしたりした。しかもその板のテール部分に傷が少ない事でその持ち主のスキーの技量レベルを推し量ったりしたものだ。今思えば何と厭らしい争いかとも思えるがこれがまさに「優越感」というもののエネルギーの原点だったのだ。信じられないかもしれないが当時はこのスキー板の表面の張り替えサービスまで存在した。滑りに関係のある滑走面ではなく、単なるデザイン表面の張り替えと云うのだから何をか言わんや・・だ。  
苗場プリンススキーのブログに出ているらしい、1985年頃のスキーデザイン フリー画像

皆の前でバッジテスト1級だと嘘をついてまで自慢してしまった挙句 、一緒に行けば直ぐに嘘がバレてしまう。慌てて隠れ特訓をして実際に1級になった友人を知っている、断っておくが決して私ではない。滑れば滑ったで「今シーズンはまだ1度しか転倒していないぞ!」などと自慢したりする競争・競争の時代だった。
このスキースクールやテニススクールがまた一つの産業になりスポーツ界の発展と構造拡大に寄与している。仲間より上手くなりたい、上手くなったことを自慢したい、これらは人数が多いからこその競争心から生み出された優越感獲得の為のエネルギーだろう。スキースクール、テニススクール、ゴルフレッスン、ゴルフ練習場などはこれら「優越感」を得たいが為の人間の向上心あればこそ潤った産業だったと言って良い。

 当時、平凡出版だった今のマガジンハウス社から1977年に創刊された雑誌「ポパイ」にSURF BOY、SKY BOY,TENNIS BOYという別冊が有る。いずれもコレクターアイテムになって高値の古本になっているがこれらも団塊世代が生んだブームの一つの証だろう。SURF BOY、SKY BOY共に発行が1979年だから団塊世代は30~32歳、まさに東京ラブストーリーに代表されるトレンディドラマの出演者と同じ年齢時代だ。
 
2冊とも神田の古本屋街で格安で購入

仕事以外のアフターファイブに何をするかにおいても団塊世代は独自の世界を創り出したのだ。勿論自分で楽しむのが第一義的なものだが、それをやる事、やっている事で異性にモテようという目論見が有るのは当たり前の事だ。車の屋根にサーフボードを乗せて・・・というよりボルト付していたアホも居たらしいが、海に行かず原宿界隈を流してガールハント(これも死語か?)あるいはナンパする輩がいたのもこの頃の話だ。  
上村一夫の「同棲時代」という漫画(当時はアニメと言わない)に代表されるような男女の新しい関係も団塊世代が中心に成した大きなエポックメーキングだ。それまでタブーとされ、勿論存在はしていただろうが表には決して出さなかった結婚前の男女関係を、平気で表に出して市民権を得、むしろそれが新しい生き方として「当たり前・普通の事」までにしてしまった。

 メディア・マスコミの団塊世代以外の編集者が「団塊世代」を一つの定義づけをしたがるのは判らないでもないが、我々団塊世代はそんな一言で定義づけられるほど薄っぺらな生き方をしてきたつもりはない。一番人数の多い世代を一纏めにしようとなど思う事自体が無謀だと気が付かない今のマディア・マスコミの編集者たちの浅はかさ、不勉強が逆に際立ってしまい可哀相な気もするが如何だろう。   
            この項続く。

2014年1月25日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #9.団塊世代の事実をどれだけ一般世間は知っているのだろう?(上)

 メディアも団塊以外の世代の一般の人たちも「団塊世代」と一言でいうが、そのイメージはあくまで無責任なマスコミ・メディアの人間が作り上げたものだ。なおかつそのイメージを作り上げた人間達の中に実際の団塊世代など殆どいないのが実情だ。「~こうに違いない」との憶測・勝手な決めつけがその実態だと思う。
 メディアがいい加減に作り上げた団塊世代の人間に対する一般常識の一つに学生運動世代というのがある。ヘルメットを被り角材を持ってデモに参加し、大学に籠城し学生運動に身を投じ、碌に勉強しなかった世代というレッテルだ。しかし、よく考えてみれば誰にでも判りそうなことだ。70年安保の1970年つまり昭和45年頃の大学生総数は全国で約140万人いた。一体そのうち何人がヘルメットを被って角材を振り回していたというのか?団塊世代140万人全員が当時学生運動に身を投じ「あのころは燃えたよな?」と還暦を過ぎて酒を飲みながら語り合っているというのか?ふざけるにも程が有ろう。そのような学生運動・全共闘と称する過激派(逮捕される事も厭わない集団)は2万人もいなかった。いや実態はもっとはるかに少ない。
東大安田講堂の最終攻防戦・機動隊突入 Google画像

東大安田講堂の攻防戦で検挙された学生数は633名、その中で東大生は50名もいなかったのが実情だ。しかしメディア・マスコミは如何にも団塊世代は皆学生運動に加担したと言わんばかりの書き方をする。団塊世代の一般の皆にアンケートを取ってみるが良い。当時だって今だって学生運動をどうとらえているか、マスコミ・メディアのいう事とは大きく違う、あるいは真逆の結果が出るに違いない。せっかく苦労して入った大学がロックアウトと称する学校封鎖で2年も無駄に過ごさねばならなかった一般の大学生の大多数の声を無視したメディアには相当大きな責任が有ろう。
大学闘争ヘルメット識別デザイン図  Google画像

 断っておくが、もちろん私も政治には関心が有る。しかし身の程に応じた関わり方をしてきたつもりだし、今後もそのスタンスは変えない。自分の立ち位置と自分のレベル、そうして自分個人の力量をよく知っている。己に直接関わりのある問題が生じ、政治によりそれが解決することが確かと確信できれば何らかの形で参加もしよう。しかし、直接自分に何の関係もない、あるいは真実が判っていないのに「良くないことが起きそうらしいので、自分も参加しなきゃいけない」と思い込んで「参加しないのは悪だ、卑怯だ」とばかりに、すぐデモや集会に参加したりするつもりはない。

 学生運動から話を離し、団塊世代の就職苦労・努力話をしてみたい。バブル崩壊以降ここ十数年は就職氷河期時代の言葉に表されるような就職難と言われて久しいが、根本的に何か勘違いしていやしないだろうか?1970年頃の大学生総数は140万人だった。これが2013年は何人になったと思う?280万人を超えている、つまり倍以上だ。大学数はどうなった?1970年頃は4年生の大学数382校より短期大学479校の方が多かった。当時は女子で4年制大学へ進学する人はまれであった、ほとんど女子は短大というのが一般常識だった。その4年制大学は2013年になると782校と倍増し、短大は359校に減少している。


 これは何を意味するのか、もう判りだろう?就職先の口つまり4大卒求人が倍増していないにもかかわらず大学卒業者数が倍増している実態が万年就職難の原因であるという事は火を見るより明らかだ。なおかつ、1970年当時は大学の優劣が非常にはっきりとしていたし、入る学生の方も自分の能力をよく理解していて己の身の丈を判っていた。社会のヒエラルキー(階層構造または上下関係)の中での自分の脳力と立ち位置が良く判っていた。競争・競争、試験の連続で叩かれ鍛えられて頭の良い人はレベルの高い大学へ、そうでない人はそうでない大学へ、おのずから自分の狙える将来の社会レベル就職レベルを自覚できたものだ。その上で絶対的人口の多い事を知っていた団塊世代の若者は他の多くの人間とは違う道を進み独自の道を開拓しようとして大学へは行かず海外へ出たり専門学校へ進んだ人間も多数いた。私の友人にもそういうツワモノが沢山居る。そういう人間こそ実はユニークで自立した開拓者的人種でそれまでにはあまり数多くはいなかった団塊世代ならではの種族だろう。何を隠そうこの私も現役で入った早稲田大学の教育学部の当初の授業が広い講堂でマイクを通じて一度に数百人相手の講義だったのに嫌気がさして1か月で大学を辞め美術の3年制専門学校「阿佐ヶ谷美術学院」へ入ったのだった。この辺りの話はまだまだずっと後にしたい。

 話を大学生の就職難の話に戻そう。

昔からの著名なトップクラスの大学は別として、現在は自分が進める大学の社会的な立ち位置・レベルがとんと判らないのが実情ではないだろうか?いまどきの一見積極的に自分を売り込むことに長けている明るい学生たちが口にする「~をしたいんですよ、~に就職したいんですよ、頑張ります」の前に「したいという気持ちと、出来るという事実には大きな差が有る」という事を理解させることが重要じゃないだろうか?これは「とにかく何処でも良いから大学と名の付く所を出れば企業に就職する資格は出来たはずだ、何とかならないのは社会が悪いのだ、政治が悪いのだ」という親と高校の教育が完全に間違っている事に原因が有ると思う。

高度成長の頃の東京風景 Google画像

なおかつ1970年当時は1次産業、2次産業、3次産業の人口のバランスが取れていて、高度成長時代の日本を支えた第2次産業つまり製造業の就職口が非常に大きかった。しかし人件費削減、工業ロボットの進歩、効率の良い製造ライン開発などで製造業の就職者需要が減少したのも否めない。同時にテレビの普及と大都会で働く男女の恋物語・トレンディドラマのヒットの影響か、辛い農業や漁業その他地方都市での地味な社会人生活に自分の将来・夢を持てず、何処でも良いから大学と名のつくところに進み都会に出て綺麗なカッコいい仕事に就きたいと願う若者が増えてしまった。これらが大学生数の過剰状態を生みだし、挙句のはて就職難を生み出す原因の一つになっている事は少なくないと思っている。

懐かしのトレンディドラマ数十本のガイドブック Google画像

代表的な「東京ラブストーリー」紫門ふみ原作アニメのTVドラマ化 フジテレビ Google画像
 
団塊世代の若者が就職に進む前には、レベルの高い大学に入るという超難関・高い壁が在った。それが今は当時に比べ遥かに大学へ進む事が楽になり高い壁が無くなった分、今度は就職の段階で高い壁が出来ただけなのだろう。辛い事・難関を先送りしただけだ。

 むしろ今なら逆に人口が減ってしまった1次産業従事者の生涯賃金の方が、カッコ良く見える第3次産業(サービス業など)より遥かに高くなっている事実を何故高校の教師や親は子供たちに話さないのだろう?不思議でしょうがない。  この項続く。