2014年3月16日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #24.」 1962年.昭和37年3月の東京でカルチャーショック。

 黄色い山手線に乗って五反田と云う駅まで行った。そこで東急電鉄の池上線電車に乗り換え雪谷大塚と云う駅まで移動。五反田は東光ストアだか東急ストアだったかデパートの中を2階分ほど上がりすごく高くて吹きさらしのホームに停まっている3両連結でクリーム色・紺色のツートンカラーの電車が池上線だった。
昭和36年くらいまでは池上線電車は目蒲線などと同じ編成・カラーだった。

 五反田駅を出て直ぐに急に止まったので事故かと思ったらもう最初の駅だった。池上線は次の駅が先頭車両から見える程駅間の短い路線だった。未だに雪谷大塚から最終駅の蒲田までの区間は乗った事は無い。
 こうして叔母の家に到着したのだが、その日の午後には早速これから通う中学校まで案内してもらって歩いてみた。案内してくれたのは叔母の長男でちょうど私と入れ替わってこの3月に奥沢中学校を卒業した2歳年上の従兄だった。彼はこの4月から東京都立・都立大学付属高等学校(現首都大学附属)へ進学する事に成っていた。

 その奥沢中学校は住宅街のど真ん中に在り、周りが田や畑の八代二中とは環境が全然違っていた。校庭の広さは二中の半分ほど、大きな体育館が有って鉄筋コンクリートの3階建てだった。校庭に接した部分に木造の2階建てが在って田舎と同じだと思い少し安心した。
2011年の奥沢中学校 遠くに見える建物群が東京工大

 校舎の屋根越しの丘の上に立派な石造りの東京工業大学の象徴的な本館の塔が建っていた。3.11東日本大震災で「俺は理系だ・・」と醜態をさらしたあの管直人元総理が3年後に此処の住人になる訳だ。
東京工大はこの塔が目印、新幹線の中からも一瞬見える時代があったが今は不可能。

 2年間在学した間、この東京工大が2回ほど火事になった。実験中だったのか「ボン」とか「ドカン」とか爆発音がして黒い煙が上がってしばらくすると消防車が沢山来た。そうなると授業は中断でみな窓から東工大の方を見るのだった。中学生にとっては非常に興味深い生のイベントだった。奥中の同期にはこの東工大に進んだものが居たが未だに生存している所をみると致命的な実験失敗は無かったようだ。
 
 こうして東京の初日は暮れて行くのだが、既に初日にしてもの凄いカルチャーショックを幾つか体験している。

 まずは、テレビのチャンネルの多さに驚かされた。熊本ではやっていないテレビ番組、特に外国(米国)製のドラマが目白押しで、1か月くらいは勉強など一切しないで観まくりたい程だった。「アンタッチャブル」「ララミー牧場」「サンセット77/1960~」「サーフサイド6」「ハワイアン・アイ」「ベン・ケーシー」「ヒッチコック劇場」「アイラブ・ルーシー1961~」「アウター・リミッツ1963~」「ケーシー・ジョーンズ」「拳銃無宿1961~」「コンバット1962~」「3バカ大将1963~」「パパは何でも知っている1958~」「87分署」ちょうど1960年くらいから一気にアメリカのテレビ番組が大挙押し寄せ東京キー局の民放で放映を始めた頃だ。悪い時に東京に出てきてしまったのか?自分にとっては海賊が隠した宝物の洞窟に行き当たった感じだった。
アンタッチャブル、フランク・ニティだのアル・カポネなどのマフィアの名前、エリオット・ネスなどFBIの存在を覚えたのもこの番組だった。

アイビー・スタイルの流行る前にこのドラマでアメリカのカッコ良さを学んだ

右後ろがシェリー・フェブレー(メアリー役)

 「うちのママは世界一=原題The Donna Reed Show」では娘・メアリーが高校のパーティで歌う「ジョニー・エンジェル=196247日にビルボード誌でナンバー・ワンになる大ヒット曲」を番組の中で偶然一度きりの動画を観たという超貴重な経験もしている。大ヒットしたのと日本での放映がほぼ同時期だったという偶然に出遭えたわけだ。
 後に、ニューヨークでこのシェリー・フェブレーのLPを捜したらコレクターズアイテムの所に中古で売っていた。それぞれ32ドルだったが、今は最新版のコレクターズレコード価格表によると左が150ドル、右が100ドルする。ステレオ盤だとそれぞれその4倍の価格だ。
http://www.eigo21.com/03/pops/156.htm に詳細を掲載されている方が居る様だ。


米国で発行されているコレクターズレコード価格ガイドブックp690、3.8cmの厚み!

 これ以外にも数多くのテレビ番組が在って、それぞれ記憶があると云う事は逆に東京に出てから一体いつ勉強していたのだろうという自分なりの疑問が今でもある。
 これらテレビ番組の凄さと合わせてもう一つ、ラジオを聴きながら何かをするという「ながら族」のはしりの様な新しい「文化」だった。九州に居た頃テレビは観たがラジオを聴くような習慣は余り無かった。これが従兄は勉強する時も夜寝床に入ってもトランジスタラジオをイヤホンで聴きながら寝ていた。聴いていたラジオ局はラジオ関東とFEN(駐留軍放送)。このFENとはFar East Networkの略で関東近辺に駐留していた米軍属相手の生活情報の為の番組だった。横田基地や横須賀基地その他のキャンプ地の為の番組だった。後で知ったのだが岩国、佐世保、沖縄にも有るそうだ。沖縄にはテレビ番組もあった。「This is Far East Network 810 on your dial.」のフレーズは自分がその後30歳を超えるまで非常になじみ深いモノになった。エルビスプレスリーが死んだニュースも、ジョンレノンが撃たれて死んだニュースもこのFENのニュースで知った。情報は確実にNHKより早かった。
FENのカード Googleフリー画像

当時のラジオ番組欄、右端がラジオ関東

 70年代初頭は毎日の様にベトナムでの北爆やサイゴン陥落のニュースばかりで音楽番組に何度もニュース・ブレイクが飛び込んできた。或る意味ベトナムはこのFENのお蔭でいつもすぐ傍に有った様な気がする。奥沢中学時代はまだそれほどでもなく、田舎から出て来たばっかりで音楽中心そのものが珍しく、1時間ぶっ通しでThe Beatles の「I want to hold your hand」を掛け続けた局が在ったとか、ワシントンDCで熱狂的なコンサートが在ったとかアナウンサーの言葉の半分も理解できないなりに情報を得ていた。ビルボードだのキャッシュボックスだのの言葉が掲示板や現金用金庫ではなくヒット曲のランキング週刊雑誌である事を知ったのも驚きだった。

 当時聴いていたラジオ関東55周年記念の特番で当時の「昨日の続き」「ポートジョッキー」の一部をこちらで聴く事が出来る。 http://www.youtube.com/watch?v=bhY4irsvQtA
 
 東京に出て最初に受けたカルチャーショックがこのテレビチャンネル、番組の多さとラジオ番組を聴きながら何かをするという行動スタイルだった。
 少し遅れて届いた自転車に乗って方向感覚、自分のテリトリーの確認に向かったのがそれからの1か月だった。東玉川66番地を中心に東西南北あちこちを走った。子供の頃から自分の頭の中には磁石が在って方向感覚は人一倍優れていたので迷子になる事はまず無かった。
方向感覚と共にランドマークの記憶も良い方だったので、どんなに遠く離れてもきちんと東玉川66番地に戻ってこられた。しかし、東玉川も奥沢も起伏の激しい場所でなおかつ碁盤の目の様に区画整理がされていて、実の所最初は非常に戸惑った。八代や小倉にこういう場所はまず無かった。いずれも城下町だったから敵の目を欺く為鍵型に曲がった道や行き止まりが結構多く、街とはそういうものだと思っていたので碁盤の目の整然とした住宅街に慣れるのに少し時間が掛かった。

北は緑ヶ丘どまりだったが、西は多摩川まで、南は雪谷大塚、東は洗足池まで自由に走り回っていた。特に多摩川沿いは巨人軍の練習グランドまで田園調布。蓬莱公園を抜けて結構なエリアをテリトリーとした。