修学旅行専用列車「ひので号」が朝8時20分に品川駅のホームを出て、まず最初にすれ違った目ぼしい列車は自分にとって非常に大きな存在の「寝台特急はやぶさ」、客車のブルートレインと同じに塗装されたEF58型に牽引され大磯辺りですれ違った。次に印象に残ったのは上りの第一こだまだ。まだ新幹線開業1年前の1963年は「こだま」という特急は在来線で151系電車で有名だった。映画「続・三丁目の夕日」にも散々出てくるビジネス特急だ。在来線時代は上りにも下りにも「第1こだま、第2こだま」が存在し、「第1つばめ、第2つばめ」も在った。したがって東海道本線上は特急列車だらけだった訳だ。画像では特急つばめが撮影されている。
ブルーのEF58電気機関車に牽かれた寝台特急「はやぶさ」
上りのビジネス特急「つばめ1号」
撮影したカメラはこれだから、良く撮れたものだと感心する。カールツァイス・スーパーイコンタ
東海道線上をほぼ品川から静岡辺りまで先頭の窓ガラスから前を見ながら撮影までしたのはこの時が最初で最後だろう、この先も有り得ない話だ。夕方京都に着くまでの間、弁当はどうしたのだろう?まったく記憶が無い。当時の写真を視る限り座席に座っているのもあるから景色も観たのだろう。
「ひので号」の車内、どうやら海苔巻きの様なものを頬張っているから弁当支給だったのだろう。
一通りの修学旅行で悪戯は数限りない程やった。まずは宿での大騒ぎ。中庭の池を挟んでコの字になった2階建ての和風旅館だったが、池を挟んで向こう側の部屋とまくら投げが始まったのは夕方暗くなってからだった。不思議に池に落ちた枕は1個も無かったが、障子が1枚破損して使い物にならなかった。
次は各部屋に運ばれてきた一人一人に一膳ずつあてがわれた御膳だ。食事が終わって仲居さんというか配膳係が下げに来る前にこれを天井まで積み上げた。幾つ積み上がったか定かでは無いが最後の一個は一人が肩車をして背の低い者を乗せ、そいつが天井を少し上に押し上げ差し込んでしまったから大変だった。御膳の柱はビクともしない。その後は食後の自由時間で皆夜の京の街に出てしまったから後はどうなったか全然記憶にない。担任の佐藤清は相当宿から怒られたろう。その後Bクラスの皆に辛く当たったのはこの時の事が原因かもしれない。
これはGoogleフリー画像による別のものだが、こう云う感じの一人膳を天井まで積み上げた。
京都の夜での自由行動はその行動範囲を事前にきつく説明され、範囲が限られていた。新京極と六角通りに面した宿舎「松井別館」の間の往復だけだった。今でも賑やかな新京極にはその当時ストリップ劇場があった。もちろん生徒は立ち入り禁止だったが、何とかしてもぐりこんだのは当然の事だった。
真っ暗な中で半分破れかけたスピーカーからこれ以上歪んだ音は無いという酷い音声で流れる曲をバックに踊り子が前へ進んだり後ろへ下がったりするばかりで一体何が面白いのか・・・と思っていたら見廻りの先生に見つかってしまった。「こういう所では教師も生徒も関係ないですよ」とは言ってはみたが全く通じなかった。これからだという時につまみ出された恨みは未だに消えていない。
宿に帰ってからも悪戯は続いた。就寝・消灯時間になっても勿論中学生の夜話は尽きない。布団が空になった押入れの中に入って隣との仕切り板を外して隣の部屋に忍び込んで帰ってこない奴とか、コの字の対岸の他クラスまで遠征して帰ってこない奴とか居た。暗闇の中、時折り女子の部屋から「キャーッ!」という声がして誰かが何かをやらかした事が想像できる楽しい夜だった。午前零時を回ってもザワツイテいた所、先生が見廻って来て耳を引っ張られて廊下に座らせられて怒られた。これはシメタと思った、まだ寝なくてもいいと云う事だ。20分ほどして再び先生が見廻ってきた。そうして「もう反省したろう?解ったら良いから寝なさい!」と言う。もちろん全員で声をそろえて言った「まだ解りませーん!」
先生は先生同士で慰労会と称して呑んでいたらしいが、結局ほとんど寝ていなかったはずだ。翌日のバスの中で爆睡していたから多分間違いない。
もう一つ、清水寺に音羽の滝と云う3本の滝があった。元は1本の小川なのだが、途中から3本に筧で分岐されていた。皆と同じお決まりの道など行く我々仲間ではないので、脇道からこの裏山に登って遊んでいた。そこで小川があったので皆で立ち小便をした。後でその小川が音羽の滝の上流であった事を知って「エライ事をしてしまった」と思ったものだ。品が無いとかそう云う事ではなく、自分の小便をその当時好きだったあの娘が飲んでしまったのではないだろうかという心配からだった。飲んでしまったらしい事は後で皆から訊いた話で判ったが、立小便より前に飲んでくれている事を祈るばかりであった。もし飲んでしまっていたら御免なさい。
今でも申し訳ないと思う、清水寺の音羽の滝。現在は土砂崩れなどが有り裏山には行けない。
今も昔も奈良公園の鹿は健在だ。
当時の修学旅行手帳はその後現在に至るまで脇の机の中で50年間苦楽を共にして来た。多少紙は黄ばんでも書かれた中味は何一つ変わっていない。しかし時々見返す自分はどんどん年老いて行く。少しづつ遠くなっていく1963年の出来事が逆に頭の中でどんどん尾ひれを付けて大きく印象深くなっていくのは何故だろうか?
自分が釣った魚が実際には20cmしかないのに1年も経つと頭の中で記憶が熟成され30cmオーバーになっているのと一緒か?中学校当時、色々あった事が写真と言う画像で残っている事で、大きくなりすぎた印象を修正してくれる。そういう意味でも画像による記録と云うのは非常に重要だと思う。
奥沢中学校の修学旅行手帳
毎年祇園祭もしくは紅葉の時期に仕事にかこつけ京都に行っているが、2012年名古屋で開催した国際航空宇宙展を担当した際も幾度か訪れている。修学旅行時泊まった松井別館と云う宿は今もその場所に在るが、「松井別館・花かんざし」という名前で全面改築されていて昔の面影はない。六角通りを東へ進んで途中右側に公園があったが、其処だけは今もまだ寂しげな昔の面影のまま公園として存在する。しかしその公園の向こう側、つまり南側にあった学校は既に廃校になり京都教育委員会の管理する生涯学習施設になっている。古都京都においても時は確実に流れていた。
修学旅行の行程は基本的にバスに乗ってあちこちを連れまわされるのだが、移動中は最初の30分だけ元気で、あとはお喋りが生き甲斐の一部の女子を除いて殆ど皆寝てしまうのが普通だった。
バスの中では最初のうちは皆元気なのだ。
奥沢中学校の修学旅行手帳より
しかし当時の修学旅行手帳を視ると1日で朝の比叡山から始まって銀閣・金閣・嵐山・二条城・三十三間堂・清水寺と気が狂ったようなスケジュールで回っている。車の数が増え、観光客が増え渋滞が日常化している現在の京都ではまず不可能だろう。それでもなお「そうだ、京都に行こう!」とか言ってキャンペーンをやっている。「そうだ、渋滞だけど京都に行こう!」に書き改めるべきだろう・・・と書きながら、自分だって移動中のバスの中は絶対に寝ていたはず。少し後ろめたい気持ちになった。大体、昼御飯は何処で食べたのだろう?数百名が同時に食事できる場所など有るのか?自分が引率者だったらと思うと気が遠くなる。
かく云う筆者もちゃんと爆睡中の写真を撮られていた。