2014年10月31日金曜日

ヤマセミは二種類の影を残す? Crested kingfisher leave two shadow ?

 野鳥撮影をしていて、撮影中にはまったく気が付かなかったが、家のデスク上でパソコンで画像をじっくり精査していて気が付いた事があった。「影」がその主人公。日本語では「影」とは「影絵」に代表される明るい光によって造られる黒い影が一般的だが、映り込みの画像も影と称することがあある。陰影などという写真工学的な影も存在する。

 英語で言えば前者が「Shadow=影」であり後者が「Reflection=反射」だと思う。ヤマセミの画像をチェックしていて、この二つを同時に撮影できているシーンが希少数出てきた。条件は大変厳しい。水面に映り込んだ反射像が判る程度の水面状態である事と、強い影(Shadow)がはっきりと出るような太陽光が在る条件が整っている事が必須。

 空気が澄んでいる晩秋の夕方が今回画像の撮影時期だった。

鋭く強い夕陽の光は蛍光ホワイトのヤマセミを撮るカメラマン泣かせ。

白トビは我慢していただいて、影のほうに注目願いたい。

翼の形が2種類の影になる面白さ。

川底の様子も影の見え方に関係する。

浅瀬でこれだけ映れば、深場での鏡面のような所ではもっと綺麗な画像が期待できる。




2014年10月30日木曜日

真下から撮ったヤマセミとブッポウソウ! Crested kingfisher and the Broad-billed roller which I took from right under !

 このブログはヤマセミを中心に野鳥に関する生態を観察した結果の画像を掲載しているため、綺麗に撮れた画像や1枚の画像でその野鳥の特徴がほぼ全部判る様な野鳥図鑑的な画像は、掲載していない・・・と言うより撮れないので載せられない。その代わり多少のピンボケだろうが露出オーバー、あるいはアンダーだろうが面白い行動、生態などが撮れた際は恥も外聞も無く掲載している。

 それは、野鳥の一瞬の姿、美しさは肉眼ではなかなか判らないので、シャッタースピードの奇跡で記録し紹介する次第だ。デジスコでぐっと近づいた画像、ブラインドで身を隠し傍に寄った野鳥の動きをアップで撮影するような手法は採用していないので、思いもかけない一瞬を撮影できたりしている。

 今日の画像は真下から撮影した飛翔中のブッポウソウとヤマセミ。それぞれの羽根を広げた瞬間の全体バランスなどを視ることが出来よう。

ヤマセミの雌、初列風切羽の先端部分の構造などが下のブッポウソウと異なる。

無彩色の典型ヤマセミとカラフルなブッポウソウを比べるとこれだけ違う。面白い!
実際は二周りほどヤマセミのほうが大きいが、やはり全体のバランスは似ている。


2014年10月29日水曜日

日本画のような鳶の飛翔。The flight of the black kite such as the Japanese painting.

 きわめて普通に観られるトビだが、撮影するとなると上空でカラスと争っている時や、輪を描いて上空を旋回している時の姿が多い。8年前まで30年間湘南の葉山やハワイのマウイ島でウインドサーフィンを楽しんでいたのだが、風が吹いているか否かをこのトビの飛ぶ姿で遠くから判断したものだ。風が無ければサーマルに乗って相当上空で旋回するし、風が強ければ海岸線ギリギリまで降りて飛んでいる。

 内陸の川沿いでは朝夕の採餌タイムを狙うと、急降下から水面に浮かんできた魚を見事にキャッチする姿を撮影できる。背景の水面が夕方の黄金色の中に丁度降りてきたトビが日本画の金屏風の絵の様に撮れた画像が在った。伊藤若冲や巨匠東山魁夷にでも見せたいシーンだ。
まるで日本画のようなトビの急旋回・急降下

見事に中型の鮎らしき餌をキャッチ!

谷間から上空へ上がると夕日を浴びてハイコントラストに。

更に上空で全身に陽が当り、掴んだ獲物を見せびらかすように真上に飛来。




2014年10月28日火曜日

カワウの群れ! A large flock of great cormorants

 全国でカワウの漁業被害や営巣による汚染・植物破壊が問題に成り始めて随分経つ。人吉でヤマセミの観察を始めて足掛け5年になるが、毎年このカワウの群れに遭遇する。決まって早朝下流から人吉盆地に入ってきて大群で遡上する。

 観察をしていると、朝上流へ向かう時は一固まりになって団子状態で飛んでいくが、夕方川下に戻る際は雁の群れのようにVの字隊列を組んで、幾つものグループに分かれて飛んでいく。朝と夕方で何故こう違うのかは定かではない。腹いっぱい餌を食べて重たくて動きが取れにくいので、夕方帰る際には防衛の意味で隊列を組むのか?野鳥には不思議な生態が一杯ある。

 最近カワウが増えて漁業被害が増大しているが、専門家ではないのでこの傾向と対策に関してはプロの判断評価を待ちたい。単純に餌になる魚の量との関係ばかりではないと思うが・・・。

早朝のカワウの群れ、団子状態で高度20m~40mで川の上流に向かって移動していく。



朝、人吉市中心部を行くカワウの群れ。

夕方、川下に向かう際は朝よりはるかに高い高度7~80mをこのようなV字編隊で帰っていく。

行きと帰りで飛び方が違うようだ。





2014年10月27日月曜日

久しぶりにハヤブサの飛翔! This is the flight of the falcon after a long absence!

 ハヤブサは都会においては、なかなかそう簡単に出遭える野鳥ではない・・・と言うより、気が付きにくい存在と言ったほうが早い。よくテレビで高層のマンションのベランダなどで繁殖・巣立ちする姿がドキュメンタリーとして報道されているが、野鳥に詳しい、よく観察している方の情報で初めて気が付く事が多いようだ。

 大自然の中では、絶壁・岩場に営巣し、周りの環境が整った所での繁殖になるようだがその場所を探し出すのは容易な事ではない。今日の久しぶりの画像はヤマセミを観察していて突然目の前の崖・絶壁からいきなり飛び出てきたハヤブサの画像。逆光ながら背景の崖が迫っている面白い絵になった。



しかし、さすがに猛禽類、太い足をしている。




2014年10月26日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #79.」 配属が決まって、VAN宣伝部・販売促進課に初出勤の日。

 1973年度ヴァン・ヂャケット新入社員研修合宿も最後になって、それぞれが何処に配属になるのか発表される時が近づいた。予め新入社員全員は自己申告で希望する部署を第2希望まで合宿中に申告していた。自分としては宣伝部を希望し、第2希望は書かないで置いた。それぐらいの心意気で無いと、本気ではないと思われるのが嫌だったのだろうと思う。

 新人研修最後の重要セレモニー・期待渦巻く配属発表前の土壇場、大広間での夕食の時間になって人事課から質問が来た。実は宣伝部には宣伝部宣伝課と宣伝部販売促進課というのが在るが、どちらが希望なのか?という問いだった。そりゃー宣伝部宣伝課が目指すセクションだろうとは思ったが、聞き慣れない「販売促進課?」とは一体何だ?何をする所なのかを訊いてみた。

 販売促進課とはVANのファンにとってはシンボル的な、あのVANのロゴの入った紙袋を作ったり、ステッカーやノベルティ・プレミアムを創り出したり、店頭でのキャンペーンを行う部署だとの事。 あるいは新しいSHOPを提案して造ったり、デパートのメンズコーナーを造ったりするのが主な仕事だと言う。
現在もまだ保有している通常ノベルティと呼ばれていたモノの一部。通常ノベルティとは通年で各ショップへ有償で配布していた定番の宣伝物。詳細はVAN公式ポータルサイト=VAN SITEを参照されたい。         VAN SITE= http://vansite.net/vanpremium1.htm 

大切に保管してきたVANの紙袋。一世を風靡したみゆき族の必須アイテムだった。

 えーっ?そういう事をする部署が宣伝部だと思っていたのだが違うの? では一体宣伝課とは何をするところなのだ?と訊いてみると、雑誌メンズクラブに自社製品を貸し出したり、モデルに着せるコーディネートをしたりするのが主な仕事だと言う。ほとんど実際にオンエアーを観たことは無かったがテレビのコマーシャル、いわゆるCMだとかポスターだとかの制作もすると言う。さあ、困った。どちらも魅力的な仕事内容だし、VANらしさ、VANのイメージ造りに直結する領域なのだから、いずれも捨て難い部署で迷ってしまった。
 初期のメンズクラブ、正統派のトラディショナリストとして故三笠宮寛仁親王殿下も掲載されている、後に殿下に大変お世話になった自分にとって大変貴重な記念号。この頃は毎号VANのロゴだけの裏表紙だった。

 此処で我ながら未だに感心しているのだが、とっさに「では、それぞれの部署の年間予算は幾らでしょうか?」と訊いたのだった。それを聞いた時の人事・三間さんのニヤリとした顔は今でも忘れない。驚いた事に販売促進課の予算は宣伝課の予算の5倍ほども在ったのだ、桁も違っていた。理由は特に店舗デザイン・施工・デパートコーナー改装・拡張、内見会実施、店頭キャンペーン、販促物ノベルティ・プレミアムのデザイン・製作など多岐に渡る・・という事だった。もうこれで心は決まった。「迷わず販売促進課を希望します!」
当時の日本橋高島屋のVANコーナー。典型的なアイビー・トラッドコーナーだった。

  最終的に部署が発表されたのは百名以上がごった返すワイワイ状態の会場だった。営業関係から順次発表され、宣伝部販促課や宣伝課は最後のほうだった。先に横国同窓の藤代は人事、近藤はIDに配属が決まった。宣伝部の宣伝課に配属されたのは長髪で真っ黒な顔をした武蔵大学から来た内坂と名乗る人物だった。いかにも人とのコミュニケーションが第一の営業、あるいは人事・経理といったお堅い部署向きの人種でない事はその風体を見て一目で判った。その代わり何処となく普通の人種にはない「独特の何か」が在るような雰囲気をかもし出していた。この配属発表を終えて、すべての研修が終わり、最後に辞令が人事部長の滝川さんから各人に渡されその晩は仲間同士でのヨモヤマ話でなかなか寝付けなかった。翌日は東海道線に乗って各自バラバラに東京に戻った。
まずは世の習いで見習い採用からだった。これは硬い会社もそうでない会社も一緒だった。

 
 それから数日して、初めて販売促進部に出社する当日も青山近辺は快晴だった。青山三丁目の角に立つ白い本館ビルの3階の販売促進部へ早めに行くと部屋で少し待たされた。長方形の角が斜めに切り取られたような変形の部屋の一番青山通り側、つまり東側のコーナーに大きな机が在り、デスクの上に木の塊で出来た名前ブロックが置いてあった。真鍮だか金属のエッチングで出来たその名前板には、KIM QWARBEYと彫られてあった。
国道246・青山通りと外苑西通りの交差点北青山3丁目がVAN本社ビルだった。

 さすが、今をときめくヴァン・ヂャケット、販売促進課の親玉は外国人なのだ!と思った。と、同時にいきなり英語で話しかけられたらどうしようと、頭の中ですぐにQ&Aではないが、想定挨拶のシミュレーションを始めていた。暫くすると、オールバックに近い髪の毛の目付きの鋭い小柄の人が入って来た。部屋の皆が「ヘッドおはようございます!」と挨拶をしたので、てっきりこの人がKIMさんだと思った。しかし小柄ながら大股で部屋を横切っていく彼は、KIM QWARBEYと彫られた名盤の前をズンズン通り過ぎて、青山通りから左に曲がり国立競技場のほうへいく道沿いの窓を背にしたデスクにどっかりと座った。暫くこちらの様子には目もくれず、10分くらいデスク上の書類に目を通した後、すっと立ってこちらへ近づき手を差し伸べて「君が新庄君?課長の若林です」と握手した。
 思わず緊張して力いっぱい握り返したら「ウソだろう?握力試験じゃないんだから、参ったなー」と言われてしまった。背後で販売促進課の座っている課員の皆が肩をすくめる様が一発で判った。

 「本部長のところに挨拶に行こう!」と連れ立って部屋を出て、このとき同じ階だったのか、はたまた6階に在ったのか記憶があいまいなのだが宣伝取締役・本部長室に赴いた。部屋は凄く狭かった。宣伝課からは例の真っ黒な顔をしていた内坂庸夫がタータンチェックのブラックウォッチを穿いて入ってきた。本部長は鈴木玲三郎という、陽に焼けたまるでモデルのような端正な顔立ちの人で、その言葉遣い・イントネーションですぐに関西出身だと判った。ネイビーのサイドベンツの6つ釦Wジャケットを着て、クレリック・シャツに比較的幅広のネクタイを着用。共生地のポケットチーフをするなど相当な着こなしをされていた。IVY・トラディショナルというより、どちらかと言うとコンチネンタルっぽいスタイルだったような気もした。非常に難しいとは思ったが、自分もいつか同じレベルの着こなしをしてみたいと思った。とにかくカッコよかった。

当時を思い出した限りのイメージで描いてみた入社日の本社宣伝部のレイアウト。
 
雁首をそろえた新入社員二人に本部長は決して甘い言葉は掛けてくれなかったが、外から見る宣伝販促と実際は驚くほど違うから、頑張って早く一人前の戦力になるようにと言われた。隣に立っている内坂に対しては「本当は別の奴が宣伝課に決まっていたのだが、生意気な事を言うのでお前が何処まで出来るか試しに入れたのだからな・・。」と、それまでの間に相当な色々紆余曲折が在るような口ぶりだったので、少なくともお互い今日初めて出遭ったのではない事が察せられた。こちらはまったく初めてなので、販促課にしろ宣伝課にしろ、宣伝部に配属されるという事の大変さの一部を垣間見たような気がした。
 

 本部長挨拶が終わって、販促課の部屋に戻ったら例のKIMさんの席に立派なヒゲを生やした割に長髪っぽい人が座っていた。若林部長の席に戻るとそのKIM QWARBEYさんが立ち上がって寄ってきたが、何と天井に頭が着くのでは?と思うほど背が高い人だった。おまけに踵の高いウエスタンブーツを履いているので、傍まで来るとまさに真上を見上げるような大男だった。で、「おー君が新庄君か、いろいろ噂は聞いているよ。」といきなり言われてしまった。自己紹介をしたら「僕は軽部、か・る・べ・・・と言います、君の直接上司だからよろしくね。」 これが自分のその後の人生に、非常に大きな影響を与えた人物との出会いの瞬間だった。

2014年10月25日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #78.」 VAN入社までのプロセスは勿論すべて初めての経験だった.

 まさかのその日のうちの採用内定通知電報に驚かされ、あわてて本当か?と思うまもなく翌日電話が掛かって来た青山ヴァン・ヂャケットの人事課。大学受験に成功した時より、はるかに嬉しかったのを記憶している。とにかく事が進むのがスピーディだった。余計な事を考えたり、別の選択肢を考える余裕を与えない人事担当者からのアプローチの速さだった。これが石津謙介社長の指示なのか、人事担当の普通の業務スタイルだったのかは勿論判らないが、のんびりとした学生にとっては大変刺激的な事だった。

 改めて入社筆記試験を受けて頂く・・という事で、本来の筆記試験を受けたのだが、それが表参道の青山会館で大人数で受けたのか、はたまた再度ヴァン・ヂャケット本館で他の内定者10名程度と一緒に受けたのか、記憶が定かではないのは何故だろう?ただ、いくつかの選択肢があったと思われる設問の一つに、石津社長との面談時に話に出た「白という色について」というテーマがあったので驚いたのを覚えている。何故、このあたりの記憶が定かではないのか?それは既に本人がヴァン・ヂャケット以外への就職を、これっぽっちも考えていなかったからだろうと思う。
1972年当時のヴァン ヂャケット会社案内

  この入社試験を無事に終了して、いよいよ新入社員・全員による入社セレモニーだの泊りがけの研修合宿があった。残念ながら入社式の場所や内容は覚えていない。もともとセレモニーが大嫌いなのだ。研修合宿は割に海に近い近代的な施設だったと思う。部屋割りも覚えていなければ、食事の内容、風景などの記憶も無い。たぶんうわの空だったのだろうすべてが。そんな中で大広間に全員が集まり数名でグループを作らされ、何か共同で新しいビジネスの提案を行えと言う課題・発表の研修があった。たぶんその頃の日本の企業で普通に行われていた新入社員研修の定番カリキュラムの一つだったのだろう。
入社当時の研修合宿なのか定かではないが、こういう感じの雰囲気だった。

  グループはなんとなく新入社員通し番号で近かった者達で作られた。意図的ではなかったが結果として席が近かった国立大学出身者で固まったようだった。横浜国大からは後に人事部に配属された藤代幸至、九州大学から来た大路などが居たと思う。同じ大学の藤代は別としても、何故大路を覚えているかと言うと、日本人離れしたそのハーフのような容貌が、あの「アローン・アゲイン」の大ヒットで有名になったギルバート・オサリバンに非常に良く似ていたから。

 そこで、どういうテーマでまとめようか、ブレーンストーミングが始まった。当時の日本においてはメディアの注目を集め続けていた天下のヴァン・ヂャケットだもの、其処の関係者を感心させるには生半可な提案では「フン!お前らこんな程度か?」といわれる事必定・・・。集まった数名は、なんとかVANの人事課をはじめ関係者達をうならせてみたいと思っていた。

 話は少しさかのぼって、あの素早い電報という、超アナログ的伝達方法で内定通知を送ってよこしたヴァン・ヂャケットの事を色々調べてみた。ちなみに我が家にはそれ以降「電報」と言うものは今に至るまで一度も来た事が無い、あれが我が家にとって最後の電報だった。

入る事が決まったとなれば、自分が進む会社の事をきちんと詳しく知っておきたいと思ったのだろう、しかし普通は会社を受ける前にやる事だったろうか?帝国探偵社に居る先輩、会社四季報、これも知り合いが居た矢野経済研究所。ありとあらゆるルートで無償の調査データを調べた。勿論石津謙介社長に関する文献・記事なども調べてみた。何とあの国会図書館へ行ったのもこの事が理由で、生まれて最初だった。三角形で複雑な構造の日比谷図書館にも行った。

しかし驚いた事に、いくら調べてもなかなか企業としてのデータが、きちんと出てこなかった。オンワード樫山やレナウン、三陽商会、ワールドなどはあったがヴァン・ヂャケットと言う名に関するデータはあまり詳しいのが出ていなかった。一方で石津謙介というカテゴリーでは出展文献が雑誌中心に相当数あり、その考え方、提唱している事などを勉強するのはさほど難しい事ではなかった。
当時のVAN社内の様子 会社案内より

で、二日ほど通って調査して思ったのは、「石津謙介社長は前代未聞のユニークさを尊ぶ演出家」という事だった。その背景には常に受け手を意識し、「目論んだ効果を上げるには、どのような方法を採り、いつどのように展開すればよいか・・。」を心得た非常に計算高い演出家だと理解した。いわゆるファッション専門用語にもなったT・P・Oという服装に関する「お約束事=いつ、何処で、どういう状況かを考えて着る物を選ぶ・・」に通ずる事を根本のコンセプトに持っていたのだと思った。
1972年当時のヴァン ヂャケットの主要ブランド 

これらの事前知識を身に付けて研修合宿に臨んでいたので、テーマを絞り込む段階で皆の意見が出揃ったところで初めて自分の暖めていた内容を提案してみた・・・と言いつつも、あくまでその場で頭に浮かんだいい加減なデッチ上げだったのだが・・・。その提案の中味は、何か新しいモノを造って売り出す、何かを仕入れて販売する・・と言う企業っぽいモノではなく、まったく新しい都市型生活者のための「生き方提案」だった。

 自分は東京で生まれて、小学校1年生の1学期だけ東京の小学校に通い、1年生の2学期から北九州の小倉市(今の北九州市)の学校に転校した事はこのブログでも初期の頃に書いた。それ以来4ヶ所の小学校を転々としサーカスの子供のような状況ながら、田舎でしか得られない子供時代の色々な経験をつんで育った。コンクリートの校庭や横丁の路地で育った都会の子供達には無い大自然の教えを身に着けていた。

 そういった背景の中で大学の教育学部の教育実習の時に、中学校の子供達を教えながら、自分の子供にはこういう教育だけでは駄目だと思った事を思い出しながら、考えた新しい将来の生活スタイルの一つがこのアイディアだった。「子供を育てる家は山と川が傍にある田舎に持ち、金曜の夜から月曜の朝までは其処で過ごし、ウイークデイ、月曜の夜から木曜の夜までは会社に近い都心のワンルームマンションで過ごす・・・。」これが週末3晩の濃縮家庭生活の提案だった。

 月曜から木曜までは都心で仕事に専念し、週末3日間は田舎で家庭と子供に徹する・・。」われながら理想のバランスの取れた生き様だと思った。新入社員の同じグループの皆も口々に「なるほどそれは新しいし面白い!」と賛成してくれた。ちょうど世の中的にも愛知県のライオンズホテル名古屋がシングルルームをマンションとして販売を始めた頃で、メディアの間でもワンルームマンションに話題が集まりタイミングもよかった。

 お父さんは仕事に専念し、どんなに残業があろうが家のことを気にせず、ウイークデイはトコトン働いてお金を稼ぐ、自分自身もどんどん仕事をマスターし、人脈を広げる。無駄な満員電車の通勤往復はしないので、それに要する往復3時間はストレッチなどスポーツジムで体を鍛える・・・。もう、絵に描いたような理想の生活パターンだと思った。

 週末3日間に私生活を濃縮する、コンク(濃縮)ジュースのような考え方だったので「スリー・コンク・ライフスタイル」と銘打って提案をした。背の高いハンサムな大路がギルバート・オサリバンに似ていたので、企業名を「ギルバート商会」と名付け社長を大路に決めた。

 発表は皆でパートを決めて行い、会場内でもそれなりの高い評価を得たようだった。別にグループ発表に優劣の表彰は無かったと思うが、VANの関係者や他の新入社員に対して、充分印象付ける事は出来たように思う。
 その後研修合宿の打ち上げで最後に人事に指名された数名が、壇上に並び自己紹介をしたような気がする。その中で4大卒の女性の一人が「デートのお誘いなど個人的なご質問に関しては、後で個別に対応させていただきます・・・」と発言し、会場からピュ-ピュー口笛が鳴ったのを記憶している。数年後、本当にその女性にお誘いをして写真のモデルになってもらった事があった。

VAN AG(小物)のジーンズ生地の傘の撮影 1975年頃 モデルは同期入社の女性

 その後随分経って、我が家でこの「スリー・コンク・ライフスタイル」の話を食卓でした事があった。どう思うかカミさんに聞いたら「有り得ない!」の鋭い一言で終わりだった。


2014年10月24日金曜日

採餌ダイブの瞬間を撮る! I took several good photos a moment of crested kingfisher's diving for catch fish.

 ヤマセミが水中にダイブする写真は幾度か撮影しているが、獲物を捕らえた瞬間の撮影は出来なかった。何故なら獲物は必ず水中、特に川底に居るので、予め作為的に川底を掘っておきその窪みに集まる小魚を目視したヤマセミがダイブして捉える瞬間をハウジングに入れたカメラを固定して置いてリモート撮影しなければまず撮影は難しい。

 したがって、NHKの「ダーウィンが来た」などでも、その画像を再編集した自然特集の番組でも周到な準備の後作為的に撮影されたものでしか撮れていない。当然獲物は小魚ばかりで、球磨川や川辺川で普通に捉える25cm以上の大物を捕らえた瞬間の画像は、お目にかかったことが無い。

 今日の画像は、ヤマセミが採餌の瞬間を捕らえたものだが、4年間の観察の間に幸運に恵まれたからこその産物で、予め準備して撮影したものではない。
幼鳥が見守る目の前でダイブして餌を獲る親鳥。くちばしに餌が見える。水面に浮かんできた獲物を見逃さずダイブした瞬間。くちばしに水中・水面で餌が獲らえられている瞬間画像は後にも先にもこれ一枚しかない。100m以上離れた対岸の手持ち撮影画像なので画質に関しては良くない。

球磨川本流のよどみの部分での採餌の瞬間。非常に浅い角度で突っ込もうとしているのでたぶん水中の岩の上に居る甲殻類かヤゴ等の水中生物を狙ったのではないだろうか?くちばしを開いているので単なる水浴びではない。

やはり球磨川本流のよどみ部分での採餌ダイブの瞬間。やはりくちばしを開いているので水浴びではない。カワセミの同じ姿を撮りたいのだが、未だにチャンスに恵まれていない。



2014年10月23日木曜日

意外に長いゴイサギの主翼! Wing of the black-crowned night heron long unexpectedly !

 基本的には夕方から活動し、夜行性のゴイサギが朝霧の中を飛んで行った画像。一度長雨後の乳白色の川辺川を紹介した際に朝霧を中心に掲載したが。もう少しゴイサギに寄って欲しいとのリクエストを思いだしたので、改めて掲載したい。単なるトリミングでの拡大なので画像処理その他は行っていない。

 ゴイサギは八代の日奈久漁港などには夕方になると不気味なほどの数が集まって来る。昼間はあまり見かけない。しかし江津湖、球磨川支流などでは真昼間から良く見かける。不思議な鳥だ。




長雨後の川辺川の朝霧の中を飛び行くゴイサギ。

2014年10月22日水曜日

イソシギの飛翔! The Sandpiper flying !

 イソシギは海岸は勿論だが大きな川の場合は結構山奥流域まで生育しているようだ。武蔵野ではほとんど見かけない。クサシギと良く生活領域を同じにしているが、クサシギがほとんど川の水辺から離れないのに比べ、自分が見ている限りではイソシギは50m以上離れた駐車場などにポツンと居たりする。

 地上を歩いているイソシギは結構目撃して撮影しているのだが、飛翔中の姿はなかなか撮れそうで撮れていなかった。今日の画像はその飛翔中の画像。
 


球磨川土手からの撮影で、下の画像は赤い繊月大橋が写り込んでいるもの。



2014年10月21日火曜日

シジュウからが飛ぶ! The figure that a Japanese great tit flies.

 今日から暫くの間「ヤマセミと人間の共創」と言うテーマでの論文レポート編纂に入るため、ブログ更新が内容・頻度共に一時変化する事をお知らせしたい。毎日の面白い野鳥の生態、容姿、テーマに応じた画像は既に相当数撮り溜めてあるのだが、ブログにアップするための調査・精査の時間、画像の選出その他に掛かる時間が充分に取れないのだ。

 したがって、週末の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」の掲載は今まで通りとして暫くの間はフレキシブル展開になることをご容赦願いたい。

今日の一枚はシジュウカラの飛翔


 シジュウカラは武蔵野においては、スズメとその数において双璧をなす野鳥の代表格だ。特に野川公園、武蔵野公園、野川沿い、近郊の大学キャンパス、あるいはその周りの住宅街においては圧倒的な数が居ると思われる。

 三鷹市では毎年市民に巣箱を配布し、野鳥の保護・繁殖に努力している。これは日本野鳥の会のメンバーの長年の努力の賜物であろうと思う。ただ単に「野鳥の保護が大切!」と声を上げるだけ、集まるだけではなく、具体的に行動の伴った保護・繁殖活動は大変だが確実に成果を生み出している。我が家のクスノキでも今年3羽のシジュウカラが巣立っていった。

 ツーピー・ツーピー・ツーピー・ツーピー、ジェジェジェジェ・・と鳴いて民家の庭先を賑わすこのシジュウカラはスズメ以上に身近な武蔵野の野鳥だ。

2014年10月20日月曜日

ヒヨドリの渡り! Ferry of the brown-eared bulbu l!

 ヒヨドリの渡りを見かけるようになった。武蔵野では野川公園や武蔵野公園、あるいは近隣の大学キャンパスの森、国立天文台の森などで通年ヒヨドリを見かけるが、この時期まとまって移動してくる群れを見かける。時間的には何故か昼前が多い。ほとんどが西から北東方面へ移動する。

 大体多くても100羽、少ない場合は30羽程度と行ったところだろうか?北九州の門司・和布刈公園などで観られるという相当数の群れを一度観てみたいと思っている。2年前長崎の野母崎で4月に出遭ったヒヨドリの群れは50羽程度で早朝6時半に北西から南東へ飛び去った。それぞれ何処へどう移動しているのだろう?

最初の集団は西から真東方面へ飛んで行ったのでこれが限界。


最初は横方向への移動だったが、次のグループがこちらへ飛んできてくれた。




2014年10月19日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #77.」 青山ヴァン・ヂャケットの会社訪問、いきなり石津謙介社長が出てきた。

 会社訪問自体が4月初旬の何曜日だったかの記憶は無い、ただ会社訪問後、そのまま青山から横浜南太田の大学まで行ってサッカー部の練習に出たのは間違いない。会社訪問当日の様子は結構鮮明に覚えている。まず事前に予行演習で事前調査をしておいた青山3丁目の角の白いビルだったが、当日の会社訪問者はたったの5名だけで、全員横浜国大生だったと記憶している。自分以外は4人とも当時の就職スタイルの定番、黒い学生服を着て来ていたと思う。自分はカーキ色のKentのコットンスーツを着て、レンジメンタル・ストライプのネクタイをして行った。これは1年前の夏、西横浜の酒屋・徳島屋のヨッチャンに勧められて伊勢崎町の傍、吉田町にあったVANのお店「メンズショップ・イソベ」で買ったものだった。このイソベは徳島屋の配達先で懇意にしていたので、少し安く買えたかも知れない。勿論ステッカーやノベルティを沢山もらったのはしっかりと覚えている。実は生まれて初めて買ったスーツがこのKentのコットンスーツだったのだ。
横浜吉田町のメンズショップ・イソベも狭かったが、こういったイメージだった。

  で、部屋の中まで白く塗られた、非常にかっこ良くワクワクする様な部屋で5人はお互い自己紹介をしたが、同じ大学でありながら知っている顔は一人も居なかった。メインの大学構内から外れて荒地に建つプレハブ教室で4年間過ごした教育学部・美術出身では、本館中心に授業を行う他の学部や学科のメンバーとの交流も無く、お互いの存在を知らなかったのは仕方が無いことだった。
  暫く、雑談をしていると人事部の三間課長?というこざっぱりとして、プロゴルファーのように陽に焼けた人が来て色々会社の規模・ビジネスの内容や各部署・セクションの概要を説明してくれた。その判りやすく小気味良い喋り方は要点がまとめられていて、今まで自分が接してきた周りの大学生やアルバイト先の酒屋のヨッチャンなど、商店街のお店の店員たちとは全然違う次元だった。これがビジネス界の人々の会話レベルなのかと感心した。おぼろげながらの記憶によると、三間課長はちょうどこの頃昇進して課長になり立てだったような気がするが、間違っていたらごめんなさい。
まだ本館3階にあった1972年頃の人事部と思われる。’73年入社後は宣伝部販促課の部屋になって、偶然筆者が入る事になる。これもある種の運命か? (VAN SITEより拝借)

  一通りの説明が終わったので、そろそろ横浜の大学へ向かおうと思い始めていた時、三間課長が一旦部屋の外に出てすぐに戻ってきてこう述べた。「えーと、急遽、石津社長が見えます・・・。」 その言葉が終わらないうちにドアが勢い良く開いて、テレビやメンズクラブで見知ったあの石津謙介社長が目の前に現れた。石津社長はきちんとスーツを着てネクタイ姿で、勢い良く入って来られた。我々5名は反射的に起立してお辞儀をした、勿論相当緊張した。遠くから著名人・有名人を見ることはあっても、テレビや雑誌、新聞で見知っただけの著名人と直に話をするのは、少なくとも自分にとっては正直生まれて初めての事だった。

 その時は石津社長に対し順番で一人づつ自己紹介を求められた。そこで自分が何を話したのか詳しくは覚えてはいないが、大学ではサッカー部でフォワードだという事、英国短期留学から戻ったばかりだという事、ロンドンのリージェントストリートに在るタータンチェック専門店スコッチハウスに1時間以上入り浸った話、大学で美術を専攻していて、今書いている卒論は「生活環境の相違による色彩感覚の違い」というテーマである事、英国に行ってみて「白」という色に対する考え方、使い方が西洋と日本では相当に違うと思った・・などを話したのだと思う。他の4人が何を話したのかまるで全然記憶は無いが、それだけ自分も緊張していたのだろう。

 石津社長の話は目から鱗が落ちるような内容だった。残念ながらその時手帳に一生懸命書き取ったメモは残っていないが、一番印象に残っているのが「僕はね、流行のファッションを造ろうとしているんじゃないんだよ、着る物に限らず風俗というか文化を造ろうとしているんだよ。」 
 最後に「どうですか?少しはウチに興味を持って頂けましたか?」と問いかけられたので、他の4人を差し置いて思わずこう答えてしまった。「許されるなら、今日の午後からこのまま働きたいと思います。」 その時の石津社長の「ほうー!」という言葉と驚いたような眼はまだ覚えている。
当時の本館社内と石津社長のイメージはこのような感じだった。(筆者撮影の合成)

  とにかく、この日は簡単な会社訪問のつもりだったが、気が付けば結果的に社長面接のような事態になってしまっていた。勿論事前準備は場所の確認程度で何もしていないし、メンズクラブを読む程度の予備知識しか無く、ただVANに関しては高校時代からのファンであっただけなので、生まれて初めての会社訪問という場で、いきなり有名な社長と直に言葉を交わす事になろうとは夢にも思わなかった。 なおかつ、その年の大卒男子の人気企業ナンバー1にこの青山のヴァン・ヂャケットが躍り出ていたこともその時点では知る由も無かった。(マスコミの発表は年末だった)

 石津社長との話はどんどん進んだが、次の予定があるらしく、30分程でそそくさと立って出て行かれた。入れ替わりに入ってきた人事の三間課長が「あー、驚いた。いきなりなんだもの・・・でも非常に珍しいことですよ!」と話してくれた。それが演出だったのか本当かどうかは判らないが、少なくとも何処の馬の骨とも判らない大学生に、若者に一番憧れられている企業の社長がワザワザ時間を割いて逢うという事だけで、こちらは大変恐縮したのは間違いない。

 勿論会社訪問に来ようと思った段階から、何とかしてこの憧れの会社に入れないものかと策を考えていた所だったので、この出逢いが目一杯自分の背中を押したことだけは確かだった。石津社長との歓談後、インディアン砦のような建物のほうへ行って、昼食をご馳走になったような気もするが、それはもっと後の機会だったかもしれない。ただその昼食が非常に美味しいチキンのホワイトシチューだった事だけは確実に覚えている。この事はテレビでお笑いの「くりぃむしちゅー」という芸人の名前を聞くたびに思い出す。しかし「くりぃむしちゅー」と言う芸人がどんな顔をしているのかは未だに知らないし、芸も見たことが無い。ただこのブログを書くに当って調べたら二人組みで熊本県出身だと言う。これから応援しよう。

 昼食後、東横線経由で横浜・南太田の大学グランドに行ってサッカーをやり、真っ暗になってから三鷹の自宅に戻ったら電報が届いていた。「電報?誰か危篤とか?」と訊いたら、なんと!ヴァン・ヂャケットからの採用内定通知だった。
昭和40年代の電報 Google画像

注:VAN SITEは当時のヴァン・ヂャケットに勤務していた有志によるVANの実録データ・サイト。
このブログ「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」のVAN時代のデータソースに関しても、大変お世話になっている。
特にKent営業部のスターだった横田哲男氏の「青春VAN日記」は、筆者とは異なる営業・販売の現場でヴァン・ヂャケットを支え続けた観点からの実録談として是非読み比べていただきたい。  同時に貴重なVAN SITEを創り上げ主宰している横国大・VAN同期、藤代幸至氏に感謝。
■青春VAN日記 http://vansite.net/vandiaryentrance.htm
■VAN SITE http://vansite.net/ 


 

2014年10月18日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #76.」 1972年春休み、英国旅行から戻ると机の上に企業からの郵便物が山積み。

 英国ツアーから1箇月ぶりで自宅に戻ると、机の上に郵便物が二列山積みになっていた。一列は高さ20cmくらいになっていた。ツンと押すと雪崩のように荷崩れを起こしそうだった。雪崩のような荷崩れといえば、その昔銀座・数寄屋橋の西銀座ショッピングセンター2階とソニービルの地下に中古レコード屋の「ハンター」が在って、良く中古盤レコードを買った。
 此処のテレビコマーシャルで、レコードの山が崩れるというのがあった。まさにあのレコードの山のような感じで郵便物が積み上げられていた。
銀座に出ると必ず此処銀座ハンターとイエナ洋書店には立ち寄った。

  その一番上に乗っかっていたのが青山のヴァン・ヂャケットという会社からの郵便物だった。えっ?あのVANが新入社員を募集するってかい?で、大体どうやってVANが私の事を知ったのだ?この理由は未だに判らない。平凡パンチのスキーツアー・読者プレゼントに応募した名簿が流れたのか、VANが名簿会社から横国大卒業予定者の名簿を買ったのか?いずれにせよ会社訪問のお知らせが来たのだった。その後のやり取りは人事担当から電話が掛かってきたのか、葉書で行く旨を連絡したのか良く覚えていない。
 
 話は少しさかのぼるが、英国から帰ってきた頃まさに日本は高度成長の充実期で、大卒男子の青田買いがどんどん進んでいた時代だった。
 
 この1972年当時の若者(筆者も含めて)の「価値観・ステータス・生き様」は2014年・現在の同年代の若者とは相当異なっている。したがって当時の「価値観・ステータス・生き様」を知っていないと、このブログに書いてある事は半分も理解できないと思う。まず一番異なっているのが「着る物=ファッション」に対する価値観・ステータスだ。「団塊世代の優越感」が日本の消費構造を原点で支えた・・・と、このブログで何度も述べてきたように、当時23~4歳前後だった「団塊の世代」の若者たちの頭の中は「身に付けるモノ」に対する執着心で一杯だった。

 女の子にモテたい。→モテる為にはかっこいいファッションで身を包む必要が有る。→身の回りのモノもかっこよい必要が有る。 間違いなくこれが基本的価値観・ステータスの根本にあった。だからこそ舶来品の時計、スポーツカー、ヴァン・ヂャケットの服、高級ブランドの輸入スキー用品、高級輸入酒(ウイスキー、ブランデー、ワイン)に対する物欲・憧れが非常に強かった。この勢い・エネルギーは優越感をくすぐるために競争に勝たねばならなかった為、時と共に相乗効果でどんどん肥大していった。当時のメンズクラブや平凡パンチを見てみればこの辺りは良く判るだろう。この流れがスキーブーム、テニスブーム、サーフィンブームへと繋がっていく。これに乗じた雑誌が平凡出版の「ポパイ」だ。この話はもう少し後になる。

 こういった時代背景の中でのファッション・トップブランドとしてのVAN Kent などを有する青山・ヴァン・ヂャケットへの若者たちの憧れは、ピークに達していた頃と言って良いだろう。そのような状況下、自分の勤めたい企業は一体何処なのか?それまであまり深く考えた事は無かったが、この先の日本社会の常識が30年後どうなっているかだけは、おぼろげながら考えていた。

 これだけ戦後のベビーブームの人間が多ければ、今在る常識のいくつかは変わっているだろうと想像した。まず最初に、一生同じ会社に勤め続けるという常識は無くなるだろう。これはアメリカのTVドラマ「奥様は魔女」を観ていて、旦那のダーリンがいとも簡単に広告代理店を首になったり、昇給や格下げを何度も繰り返す様を見て、そう思ったのだろうと思う。
TVドラマ「奥様は魔女」は典型的なアメリカの広告代理店勤務サラリーマンの話だった。

 同時に退職金という制度は無くなるだろう、老後のために自分で貯蓄はしておかないと困るはずだ・・という事も考えた。もう一つは一生同じ相手と添い遂げるのではなく、生涯2度以上の結婚が当たり前になるのではないか・・・。という事だった。
 これらも海外のTVドラマを観ていて学んだ事だろうと思う。したがって、大学を出て就職した先に一生涯勤務すると言う事は想像しなかった。大きな有名な会社に入って、その会社の名声の傘の下で「完全サラリーマン」をやって行くつもりはまるで無かった。大学3年と4年の間の春休みの間、自分を取り巻く就職情報やお誘いは個人的に既に色々なものが在った。

まず、母方親戚の菊池稔という伯父が当時長いこと人気企業のトップを独走していた「東京海上火災」の社長をしていた。日本バスケットボール連盟の会長も勤めていたこの伯父に「是非ウチを受けなさい」と母を通じて言われていた。同時に我が父からも直接「よかったら十条製紙を受けないか?」とも言われていた。祖母からは次の大日坂幼稚園の園長に決まっている方の息子さんが、GKインダストリアル・デザイン研究所の首脳なのでどうだ?と勧められていた。又一方では横浜国大の山手にある附属中学校の美術の先生が自分はアニメ動画作家になりたいので、後を引き受けてくれないか?という有り難い話まで頂いていた。

東京海上火災も十条製紙も美術専攻で学んだ事が何の役にも立たない先なので、返答はしなかった。学校の先生は真っ平ごめんだった。理由ははっきりとしている。毎年教え子たちは卒業して世の中に出て行く・・・それなのに自分はいつまでも渡り廊下のスノコ板を、バンバン音を立てながら渡るような学校に居残っているのか?これが嫌だった。

 しかし、最終的にはこれらのどれも受けるつもりも、話を訊きに行くつもりもなかった。理由ははっきりしている。誰かの紹介で受けて入ったら、嫌になってやめる際に辞め難いというのが最大の理由だ。自分が勤める会社くらい自分の一存で決めて自分で進みたかった。
そういう意味からすると青山のヴァン・ヂャケットは何処の紹介も無く、自分自身にダイレクトに会社訪問の案内が来た企業だった。しかも英国から戻った時、自分のデスクの上に積まれた郵便物の一番上に乗っかっていたのが、VAN会社訪問への案内状だったのも、きっと何かの運命だろう。

 それから何をしたか?勿論、いきなり会社訪問の当日青山のヴァン・ヂャケットへ行くような事はしない。青山通りなどそれまで歩いた事もなかった。飲食・ショッピングの中心は横浜駅界隈・ダイヤモンド地下街・東口のスカイビル、横浜元町・伊勢崎町界隈が当然メインだった。後は銀座界隈、新宿東口エリアだった。したがって地の利が無いので原宿から表参道への並木道、そのまま青山通りを北上して青山三丁目までいろいろな店などを観ながら1往復したのだった。
既にベルコモンズが建っている1978年頃の青山3丁目

 案内状を見ながら青山三丁目の角の白いビルを確認し1階のテイジン・メンズショップ(だったと思う)を外から見て通り過ぎた。その後仕事で気楽に何度も入るこの重々しいメンズショップには当時はまだ客の身分で、非常に入りにくかった。後にベル・コモンズが建つ道路の反対側は空き地になっていた。そのベル・コモンズももうすぐ取り壊されるという、時代の流れを感ずる事だ。

 昔から、親から譲り受けた性格なのだろうか、約束の時間に遅れる事をものすごく嫌うし恥だと思っている。これは今も変わらない。他の人にそれを義務付けはしないが、時間にルーズな人間はどうしても完成度の低い奴・・・と一段下に見てしまう。だから余計自分に対しては、この点に関してだけ今でも非常に厳しい。

 こうやって、初めて青山通り界隈を歩いてみると、3丁目の角だけではなく色々なところにVANの看板が目立って付いていた。3丁目から国立競技場のほうへいくと丸太の砦のような一角があり、それだけでも十分人目を惹くのに、其処へVANの制服を着た女性が出入りしていて、一種異様な雰囲気だった。一方で表参道のほうへ進むと東急のスーパー、東光ストアだったかの上に横長のVANのロゴと何か横文字が並んでいたと思う。要は企業が急成長したため、一箇所にまとまって入れないのだろうと勝手に想像して、妙な期待を膨らませるのだった。

 こうして、過去のメンズクラブを読み返したり、事前の事前現場調査などを行って、いよいよ会社訪問の当日は快晴だった。やはり自分が関わるイベント日はきちんと晴れるのだった。