世田谷区立奥沢中学校は世田谷区内でも公立でありながら有数の進学校だった。世田谷区には他にも数多くの中学校が在ったのだが、学区どころか多摩川を越えて東京都以外から何人も越境入学してきていた。川崎の新丸子、生田から通う者、学区外の狛江や大田区から通う者、なにしろこの私こそが遠い熊本県からの超越境入学者だったのだ。
当時の日本では国公立大学に進むことが圧倒的なステータスで、これは東京も地方もあまり変わらなかった。時の総理大臣もその当時までは超短命だった石橋湛山(早稲田大)以外ほとんど国公立大を出ている。昨今とは時代が違っていた。(注:決して私学を疎んじる訳ではない、念の為)
同時にその当時はそれぞれの地域によってその個々の大学の評価ステータスは異なっていた。東京では東大、東京教育大学(=今の筑波大)、一ツ橋大、東京工大、女子では御茶ノ水女子大、東京女子大、津田塾大などがトップクラスの評価を得ていた。これが重工業地帯の福岡県小倉市になると多少異なって、東大、東京教育大、横浜国大、東京工大、京都大、九大、阪大、などのどちらかというと親の職業に影響されて理工系評価が高い大学がステータスだった。
また当時は入学試験日により国立大学は1期校、2期校に別れていて両方に併願受験する事が可能だった。1期校に落ちても2期校に入る者、あるいはその逆もあった。しかし圧倒的に1期校のステータスが高く、2期校は1期校を目指す秀才たちの滑り止め的存在と言われた事もあった。したがってこれらのトップ校には1人で両方に合格する者も多く、一番人数の多い全国の団塊世代にとっては実質とてつもない競争率・難関だった訳だ。
今どきの大学受験戦争など問題にならない程の競争率と言って良い。しかし世田谷の奥沢中学校には割に全国の進学ピラミッドの上位の部分が集まっていたためか、普段の会話でも皆の間でこれらトップクラスの大学はそう夢の様な目標ではなかった様な気がする。目の前の高校受験はあくまでこれらの大学への単なるステップと考えていたのだろうか?かく云う私はステータスなどあまり関係なく、家が裕福ではなかった一般サラリーマン家庭の子供であったため授業料や入学金が高い私学への進学は既にこの頃から考えていなかったような気がする。
全国的に進学高校で有名な灘、開成、ラ・サールなどの私立系は既に当時誰もが知ってはいたが、まだ圧倒的に都立高校の日比谷・戸山、教育大付属など国公立系が評価も高く絶対人数が多かった時代。戦後の受験戦争のまさにピーク時を控えての高校受験前夜がこの奥沢中学校へ転校した頃の時代背景だった。
当時の都立高校への入学試験は9科目(主要5教科+専門科目4教科)900点満点と云う凄く科目の多い関所だった。基本的に1問4点の問題が25問あって合計100点。翌日の各新聞朝刊に正解が出て、各自自分で採点して中学校へ自分が大体何点だったか自己採点報告をするように言われていた。 その日を目指して各学期の中間・期末試験での成績が志望高校決定に重要な要素となっていた。まだ学校群制度と云う受験目標・進路目標をぼかしてしまう訳の判らない制度は始まっておらず、本当に努力して実力のある者だけが生き残れる正統的な競争社会の真っただ中だった。中途半端な努力で、半分ラッキーを得て有名校に進める様なイージーな生き方が出来ない仕組みになっていた。そういう意味からするとその後の世代と団塊世代には明確な線引きが出来るような気がする。
この時点で自分の受験は2年後なので、受験話はもう少し後にする事にして、日常の中学生生活を思い返してみたい。とにかく都心に出る事があまりなかったので、雪谷大塚から池上線、あるいは奥沢から目蒲線、少し歩いて田園調布から東横線で渋谷、目黒、五反田と云った山の手線の沿線駅に出て、その後は時間を見つけてはこの山の手線で有楽町、新宿、池袋といった繁華街に出た。映画を観たりデパートに行く場合はこのパターンだろうが、中学生男子、つまり私自身は基本的にその両方とも全然興味は無かった。
八代二中時代から鉄道模型に夢中になっていた事は前出の通りだが、雑誌でしか見た事が無かった有名な鉄道模型店を片っ端から訪れたのは言うまでもない。鉄道模型社、カツミ模型、天賞堂、少し劣るがカワイモデルなどメーカー兼店舗などが神田や銀座エリアに固まっていたので結構歩いたのを覚えている。
今は9mmゲージ、Nゲージの模型が多いが、当時は16.5mmのHOゲージが主流だった。
八代時代から本屋で定期的に取っていた「鉄道模型趣味」ある意味この世界のバイブルだ。
当時からのあこがれ真鍮製の完成模型
模型そのものはHOゲージだがパワーパックと云う交流を直流に変換し、なおかつ模型そのものを動かすモーターの回転数を可変するモノが必要だった。これは完成品を買うとバカ高いので秋葉原電気街に行ってセレン整流器、減圧トランス、可変コンデンサーなどを買い集め自作した。
パワーパックの完成品は非常に高価だった為、自作するしかなかった。
実は初めて訪れた時、秋葉原駅で20分以上迷子になってしまった。代々木で山の手線から中央線鈍行、つまり総武線に乗り替えて秋葉原で降りたのだが、階段を降りたら別の路線のホームに出てしまう。別のホームだから出口ではないと思い込み元のホームに戻って出口を探すのだがどこにもない。さー困った、まるで半べそ状態に近かった。実は総武線は秋葉原駅では3階にホームが在る。そこから階段で降りると山の手線と京浜東北線のホーム、つまり2階のホームに一旦出る訳だ。でその2階から1階地上に降りればいいのだが、その階段が3階から2階に降りる階段の真裏に在るので降りている階段途中からは見えないのだ。田舎から出て来たばかりの人間には電車の駅・ホームが3階建てで2階の別のホーム経由で駅を出るという発想は全く無かった。
総武線の駅は秋葉原では今でも3階、周りのビルの高さで換算すると4階に存在する。
やっとの事で地上に降りた秋葉原の電気街。此処は今でもディズニーランドより余程好きだ。(浦安のディズニーランドには未だに行った事が無いし行く気もしない)部品小物販売のラジオセンター、ラジオデパートなど狭いお店の路地を歩くだけで何か都会の理工系人間になったような気分になった。その後高校時代にオーディオアンプ製作に凝り真空管アンプの部品やスピーカー、スピーカーボックスなどを買い漁った頃は週に2度も3度も訪れていた。ジャンク屋という中古備品や壊れたラジオを二束三文で売るお店がある事も此処へ来て知った。このオーディオに凝った理由は奥沢中学校時代にルーツがある。
当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より
当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より
中学校では休み時間の10分間や昼休みに同じ趣味を持つ仲間や仲の良い者同士で固まって雑談をしていたのだが、カメラに凝っているグループ、真空管ラジオ制作に凝っているグループは中学生にしては専門用語が判らないと仲間には入れない特殊な集団を形成していた。真空管で言えば整流管や出力管、それぞれ3極管・5極管、6X4、5MK9だとか6BM8、6BQ5とか固有名詞が在った。
真空管には色々な用途と形状があった。この画像は最小型の真空管群、紙の箱で売られた。
自作タイプの五球スーパーラジオ。当時はこの半分くらいの小さいスペースに如何にコンパクトにまとめるかも作者の技量を表す一つのポイントだった。
これらを得意そうに話すグループの会話はどちらかというと外国語をしゃべっている感じにしか聞こえず、全くその世界を知らないクラスメートを拒絶する排他的な空間を形成していた。更に相手を指す言葉として「君、おまえ」とは言わずに母親の使う言葉そのままに相手を「おタクは?」などと喋る者もいた。後に「オタク族」という妙な人種が現れた時に、まさにルーツはこれか?と思った程だが、違うかも知れない。
こういう環境下で、自分自身が勉強して成績を上げてレベルの髙い大学へ進学するだけではなく、将来に向けて広い色々なジャンルで意外な可能性があるのではないかと思ったのもこの頃だった。
中学校の体育大会、つまりは運動会だ。今まで小学校時代から足は速かったがコレと云ってキチンとした野球クラブやサッカークラブに入った事も無く、何かの大会に出た事も無かった。海や川の素潜り漁で魚を獲る事はさんざんやっているのだが、プールでの競泳経験は無かった。陸上競技関係では殆ど何の教育も受けずにいたし、野球も小倉の小学校時代に小学生としてのソフトボール(本人たちは野球のつもり)をやっただけだった。
そんな中、野球部に小林君と云うのが居てある日打ってごらんよと云うので、バットを持って生まれて初めて上から投げてくるピッチャーの玉を打った。最初に当たった玉は校庭の東の端から打って体育館の屋根の上まで飛んで大きくバウンドして住宅街に消えて行った。すぐに野球部に入れと言われたけれど今更と云う感じで入らなかった。なにせ、その後ヤクルトに入った西君と云うのが同じ学年に居たくらいだから進学校でありながら野球部のレベルは結構高かったのではないかと思う。
一方である日、陸上部が南端の砂場の所でハイジャンプ、つまり高跳びと幅跳びの練習をしている事が有った。高跳びはそれまで一度もやった事が無かったのだが、跳んでいいというので飛んでみた。とにかくバーの上を越えりゃ良いんだろうと云う事でそれまで飛んでいた陸上部のメンバーの飛び方を真似して正面跳びで飛んだ。結果130CMを跳べて陸上部のメンバーと同じくらいだったと思う。
それを見ていた同じクラスの仲間がこの秋の運動会、つまり陸上競技クラス対抗の走り高跳びに出ろと言う。思いもよらぬ事に成ったとは思ったが、それから碌に練習もせず本番の日にB組代表で出場した。結果145CMを跳べて学年で2位になった。これは皆も驚いたようだが自分が一番驚いた。1番になったのはハンドボール部の背の髙い相原君と云うスポーツ万能選手で、その差は5CMだった。その後都立広尾高校に進んでバレーボール部に入ったが、ハイジャンプだけ陸上の大会に駆り出されて出場し、最終的には172CMまで跳べたのだが、練習をしないのでそれ以上には進歩しなかった。
勉強と一般的な遊びしかしてこなかった中学生がきちんとしたスポーツ領域の己の身体能力に驚いて、妙な自覚を持ったのがこの奥中時代だった。アメリカンポップス、テレビの海外ドラマ、鉄道模型屋、自転車遠乗り、きちんとしたスポーツ、ラジオ放送、これら九州の八代では出遭えなかった新しい文化風俗に接しカルチャーショックを受け、更には己の新たな領域能力を知ったのが昭和37年、1962年の東京へ転校したての頃の話だ。
世田谷区立奥沢中学校は世田谷区内でも公立でありながら有数の進学校だった。世田谷区には他にも数多くの中学校が在ったのだが、学区どころか多摩川を越えて東京都以外から何人も越境入学してきていた。川崎の新丸子、生田から通う者、学区外の狛江や大田区から通う者、なにしろこの私こそが遠い熊本県からの超越境入学者だったのだ。
当時の日本では国公立大学に進むことが圧倒的なステータスで、これは東京も地方もあまり変わらなかった。時の総理大臣もその当時までは超短命だった石橋湛山(早稲田大)以外ほとんど国公立大を出ている。昨今とは時代が違っていた。(注:決して私学を疎んじる訳ではない、念の為)
同時にその当時はそれぞれの地域によってその個々の大学の評価ステータスは異なっていた。東京では東大、東京教育大学(=今の筑波大)、一ツ橋大、東京工大、女子では御茶ノ水女子大、東京女子大、津田塾大などがトップクラスの評価を得ていた。これが重工業地帯の福岡県小倉市になると多少異なって、東大、東京教育大、横浜国大、東京工大、京都大、九大、阪大、などのどちらかというと親の職業に影響されて理工系評価が高い大学がステータスだった。
また当時は入学試験日により国立大学は1期校、2期校に別れていて両方に併願受験する事が可能だった。1期校に落ちても2期校に入る者、あるいはその逆もあった。しかし圧倒的に1期校のステータスが高く、2期校は1期校を目指す秀才たちの滑り止め的存在と言われた事もあった。したがってこれらのトップ校には1人で両方に合格する者も多く、一番人数の多い全国の団塊世代にとっては実質とてつもない競争率・難関だった訳だ。
今どきの大学受験戦争など問題にならない程の競争率と言って良い。しかし世田谷の奥沢中学校には割に全国の進学ピラミッドの上位の部分が集まっていたためか、普段の会話でも皆の間でこれらトップクラスの大学はそう夢の様な目標ではなかった様な気がする。目の前の高校受験はあくまでこれらの大学への単なるステップと考えていたのだろうか?かく云う私はステータスなどあまり関係なく、家が裕福ではなかった一般サラリーマン家庭の子供であったため授業料や入学金が高い私学への進学は既にこの頃から考えていなかったような気がする。
全国的に進学高校で有名な灘、開成、ラ・サールなどの私立系は既に当時誰もが知ってはいたが、まだ圧倒的に都立高校の日比谷・戸山、教育大付属など国公立系が評価も高く絶対人数が多かった時代。戦後の受験戦争のまさにピーク時を控えての高校受験前夜がこの奥沢中学校へ転校した頃の時代背景だった。
当時の都立高校への入学試験は9科目(主要5教科+専門科目4教科)900点満点と云う凄く科目の多い関所だった。基本的に1問4点の問題が25問あって合計100点。翌日の各新聞朝刊に正解が出て、各自自分で採点して中学校へ自分が大体何点だったか自己採点報告をするように言われていた。 その日を目指して各学期の中間・期末試験での成績が志望高校決定に重要な要素となっていた。まだ学校群制度と云う受験目標・進路目標をぼかしてしまう訳の判らない制度は始まっておらず、本当に努力して実力のある者だけが生き残れる正統的な競争社会の真っただ中だった。中途半端な努力で、半分ラッキーを得て有名校に進める様なイージーな生き方が出来ない仕組みになっていた。そういう意味からするとその後の世代と団塊世代には明確な線引きが出来るような気がする。
この時点で自分の受験は2年後なので、受験話はもう少し後にする事にして、日常の中学生生活を思い返してみたい。とにかく都心に出る事があまりなかったので、雪谷大塚から池上線、あるいは奥沢から目蒲線、少し歩いて田園調布から東横線で渋谷、目黒、五反田と云った山の手線の沿線駅に出て、その後は時間を見つけてはこの山の手線で有楽町、新宿、池袋といった繁華街に出た。映画を観たりデパートに行く場合はこのパターンだろうが、中学生男子、つまり私自身は基本的にその両方とも全然興味は無かった。
八代二中時代から鉄道模型に夢中になっていた事は前出の通りだが、雑誌でしか見た事が無かった有名な鉄道模型店を片っ端から訪れたのは言うまでもない。鉄道模型社、カツミ模型、天賞堂、少し劣るがカワイモデルなどメーカー兼店舗などが神田や銀座エリアに固まっていたので結構歩いたのを覚えている。
今は9mmゲージ、Nゲージの模型が多いが、当時は16.5mmのHOゲージが主流だった。
八代時代から本屋で定期的に取っていた「鉄道模型趣味」ある意味この世界のバイブルだ。
当時からのあこがれ真鍮製の完成模型
模型そのものはHOゲージだがパワーパックと云う交流を直流に変換し、なおかつ模型そのものを動かすモーターの回転数を可変するモノが必要だった。これは完成品を買うとバカ高いので秋葉原電気街に行ってセレン整流器、減圧トランス、可変コンデンサーなどを買い集め自作した。
パワーパックの完成品は非常に高価だった為、自作するしかなかった。
実は初めて訪れた時、秋葉原駅で20分以上迷子になってしまった。代々木で山の手線から中央線鈍行、つまり総武線に乗り替えて秋葉原で降りたのだが、階段を降りたら別の路線のホームに出てしまう。別のホームだから出口ではないと思い込み元のホームに戻って出口を探すのだがどこにもない。さー困った、まるで半べそ状態に近かった。実は総武線は秋葉原駅では3階にホームが在る。そこから階段で降りると山の手線と京浜東北線のホーム、つまり2階のホームに一旦出る訳だ。でその2階から1階地上に降りればいいのだが、その階段が3階から2階に降りる階段の真裏に在るので降りている階段途中からは見えないのだ。田舎から出て来たばかりの人間には電車の駅・ホームが3階建てで2階の別のホーム経由で駅を出るという発想は全く無かった。
総武線の駅は秋葉原では今でも3階、周りのビルの高さで換算すると4階に存在する。
やっとの事で地上に降りた秋葉原の電気街。此処は今でもディズニーランドより余程好きだ。(浦安のディズニーランドには未だに行った事が無いし行く気もしない)部品小物販売のラジオセンター、ラジオデパートなど狭いお店の路地を歩くだけで何か都会の理工系人間になったような気分になった。その後高校時代にオーディオアンプ製作に凝り真空管アンプの部品やスピーカー、スピーカーボックスなどを買い漁った頃は週に2度も3度も訪れていた。ジャンク屋という中古備品や壊れたラジオを二束三文で売るお店がある事も此処へ来て知った。このオーディオに凝った理由は奥沢中学校時代にルーツがある。
当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より
当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より
中学校では休み時間の10分間や昼休みに同じ趣味を持つ仲間や仲の良い者同士で固まって雑談をしていたのだが、カメラに凝っているグループ、真空管ラジオ制作に凝っているグループは中学生にしては専門用語が判らないと仲間には入れない特殊な集団を形成していた。真空管で言えば整流管や出力管、それぞれ3極管・5極管、6X4、5MK9だとか6BM8、6BQ5とか固有名詞が在った。
真空管には色々な用途と形状があった。この画像は最小型の真空管群、紙の箱で売られた。
自作タイプの五球スーパーラジオ。当時はこの半分くらいの小さいスペースに如何にコンパクトにまとめるかも作者の技量を表す一つのポイントだった。
これらを得意そうに話すグループの会話はどちらかというと外国語をしゃべっている感じにしか聞こえず、全くその世界を知らないクラスメートを拒絶する排他的な空間を形成していた。更に相手を指す言葉として「君、おまえ」とは言わずに母親の使う言葉そのままに相手を「おタクは?」などと喋る者もいた。後に「オタク族」という妙な人種が現れた時に、まさにルーツはこれか?と思った程だが、違うかも知れない。
こういう環境下で、自分自身が勉強して成績を上げてレベルの髙い大学へ進学するだけではなく、将来に向けて広い色々なジャンルで意外な可能性があるのではないかと思ったのもこの頃だった。
中学校の体育大会、つまりは運動会だ。今まで小学校時代から足は速かったがコレと云ってキチンとした野球クラブやサッカークラブに入った事も無く、何かの大会に出た事も無かった。海や川の素潜り漁で魚を獲る事はさんざんやっているのだが、プールでの競泳経験は無かった。陸上競技関係では殆ど何の教育も受けずにいたし、野球も小倉の小学校時代に小学生としてのソフトボール(本人たちは野球のつもり)をやっただけだった。
そんな中、野球部に小林君と云うのが居てある日打ってごらんよと云うので、バットを持って生まれて初めて上から投げてくるピッチャーの玉を打った。最初に当たった玉は校庭の東の端から打って体育館の屋根の上まで飛んで大きくバウンドして住宅街に消えて行った。すぐに野球部に入れと言われたけれど今更と云う感じで入らなかった。なにせ、その後ヤクルトに入った西君と云うのが同じ学年に居たくらいだから進学校でありながら野球部のレベルは結構高かったのではないかと思う。
一方である日、陸上部が南端の砂場の所でハイジャンプ、つまり高跳びと幅跳びの練習をしている事が有った。高跳びはそれまで一度もやった事が無かったのだが、跳んでいいというので飛んでみた。とにかくバーの上を越えりゃ良いんだろうと云う事でそれまで飛んでいた陸上部のメンバーの飛び方を真似して正面跳びで飛んだ。結果130CMを跳べて陸上部のメンバーと同じくらいだったと思う。
それを見ていた同じクラスの仲間がこの秋の運動会、つまり陸上競技クラス対抗の走り高跳びに出ろと言う。思いもよらぬ事に成ったとは思ったが、それから碌に練習もせず本番の日にB組代表で出場した。結果145CMを跳べて学年で2位になった。これは皆も驚いたようだが自分が一番驚いた。1番になったのはハンドボール部の背の髙い相原君と云うスポーツ万能選手で、その差は5CMだった。その後都立広尾高校に進んでバレーボール部に入ったが、ハイジャンプだけ陸上の大会に駆り出されて出場し、最終的には172CMまで跳べたのだが、練習をしないのでそれ以上には進歩しなかった。
勉強と一般的な遊びしかしてこなかった中学生がきちんとしたスポーツ領域の己の身体能力に驚いて、妙な自覚を持ったのがこの奥中時代だった。アメリカンポップス、テレビの海外ドラマ、鉄道模型屋、自転車遠乗り、きちんとしたスポーツ、ラジオ放送、これら九州の八代では出遭えなかった新しい文化風俗に接しカルチャーショックを受け、更には己の新たな領域能力を知ったのが昭和37年、1962年の東京へ転校したての頃の話だ。
世田谷区立奥沢中学校は世田谷区内でも公立でありながら有数の進学校だった。世田谷区には他にも数多くの中学校が在ったのだが、学区どころか多摩川を越えて東京都以外から何人も越境入学してきていた。川崎の新丸子、生田から通う者、学区外の狛江や大田区から通う者、なにしろこの私こそが遠い熊本県からの超越境入学者だったのだ。
当時の日本では国公立大学に進むことが圧倒的なステータスで、これは東京も地方もあまり変わらなかった。時の総理大臣もその当時までは超短命だった石橋湛山(早稲田大)以外ほとんど国公立大を出ている。昨今とは時代が違っていた。(注:決して私学を疎んじる訳ではない、念の為)
同時にその当時はそれぞれの地域によってその個々の大学の評価ステータスは異なっていた。東京では東大、東京教育大学(=今の筑波大)、一ツ橋大、東京工大、女子では御茶ノ水女子大、東京女子大、津田塾大などがトップクラスの評価を得ていた。これが重工業地帯の福岡県小倉市になると多少異なって、東大、東京教育大、横浜国大、東京工大、京都大、九大、阪大、などのどちらかというと親の職業に影響されて理工系評価が高い大学がステータスだった。
また当時は入学試験日により国立大学は1期校、2期校に別れていて両方に併願受験する事が可能だった。1期校に落ちても2期校に入る者、あるいはその逆もあった。しかし圧倒的に1期校のステータスが高く、2期校は1期校を目指す秀才たちの滑り止め的存在と言われた事もあった。したがってこれらのトップ校には1人で両方に合格する者も多く、一番人数の多い全国の団塊世代にとっては実質とてつもない競争率・難関だった訳だ。
今どきの大学受験戦争など問題にならない程の競争率と言って良い。しかし世田谷の奥沢中学校には割に全国の進学ピラミッドの上位の部分が集まっていたためか、普段の会話でも皆の間でこれらトップクラスの大学はそう夢の様な目標ではなかった様な気がする。目の前の高校受験はあくまでこれらの大学への単なるステップと考えていたのだろうか?かく云う私はステータスなどあまり関係なく、家が裕福ではなかった一般サラリーマン家庭の子供であったため授業料や入学金が高い私学への進学は既にこの頃から考えていなかったような気がする。
全国的に進学高校で有名な灘、開成、ラ・サールなどの私立系は既に当時誰もが知ってはいたが、まだ圧倒的に都立高校の日比谷・戸山、教育大付属など国公立系が評価も高く絶対人数が多かった時代。戦後の受験戦争のまさにピーク時を控えての高校受験前夜がこの奥沢中学校へ転校した頃の時代背景だった。
当時の都立高校への入学試験は9科目(主要5教科+専門科目4教科)900点満点と云う凄く科目の多い関所だった。基本的に1問4点の問題が25問あって合計100点。翌日の各新聞朝刊に正解が出て、各自自分で採点して中学校へ自分が大体何点だったか自己採点報告をするように言われていた。 その日を目指して各学期の中間・期末試験での成績が志望高校決定に重要な要素となっていた。まだ学校群制度と云う受験目標・進路目標をぼかしてしまう訳の判らない制度は始まっておらず、本当に努力して実力のある者だけが生き残れる正統的な競争社会の真っただ中だった。中途半端な努力で、半分ラッキーを得て有名校に進める様なイージーな生き方が出来ない仕組みになっていた。そういう意味からするとその後の世代と団塊世代には明確な線引きが出来るような気がする。
この時点で自分の受験は2年後なので、受験話はもう少し後にする事にして、日常の中学生生活を思い返してみたい。とにかく都心に出る事があまりなかったので、雪谷大塚から池上線、あるいは奥沢から目蒲線、少し歩いて田園調布から東横線で渋谷、目黒、五反田と云った山の手線の沿線駅に出て、その後は時間を見つけてはこの山の手線で有楽町、新宿、池袋といった繁華街に出た。映画を観たりデパートに行く場合はこのパターンだろうが、中学生男子、つまり私自身は基本的にその両方とも全然興味は無かった。
八代二中時代から鉄道模型に夢中になっていた事は前出の通りだが、雑誌でしか見た事が無かった有名な鉄道模型店を片っ端から訪れたのは言うまでもない。鉄道模型社、カツミ模型、天賞堂、少し劣るがカワイモデルなどメーカー兼店舗などが神田や銀座エリアに固まっていたので結構歩いたのを覚えている。
今は9mmゲージ、Nゲージの模型が多いが、当時は16.5mmのHOゲージが主流だった。
八代時代から本屋で定期的に取っていた「鉄道模型趣味」ある意味この世界のバイブルだ。
当時からのあこがれ真鍮製の完成模型
模型そのものはHOゲージだがパワーパックと云う交流を直流に変換し、なおかつ模型そのものを動かすモーターの回転数を可変するモノが必要だった。これは完成品を買うとバカ高いので秋葉原電気街に行ってセレン整流器、減圧トランス、可変コンデンサーなどを買い集め自作した。
パワーパックの完成品は非常に高価だった為、自作するしかなかった。
実は初めて訪れた時、秋葉原駅で20分以上迷子になってしまった。代々木で山の手線から中央線鈍行、つまり総武線に乗り替えて秋葉原で降りたのだが、階段を降りたら別の路線のホームに出てしまう。別のホームだから出口ではないと思い込み元のホームに戻って出口を探すのだがどこにもない。さー困った、まるで半べそ状態に近かった。実は総武線は秋葉原駅では3階にホームが在る。そこから階段で降りると山の手線と京浜東北線のホーム、つまり2階のホームに一旦出る訳だ。でその2階から1階地上に降りればいいのだが、その階段が3階から2階に降りる階段の真裏に在るので降りている階段途中からは見えないのだ。田舎から出て来たばかりの人間には電車の駅・ホームが3階建てで2階の別のホーム経由で駅を出るという発想は全く無かった。
総武線の駅は秋葉原では今でも3階、周りのビルの高さで換算すると4階に存在する。
やっとの事で地上に降りた秋葉原の電気街。此処は今でもディズニーランドより余程好きだ。(浦安のディズニーランドには未だに行った事が無いし行く気もしない)部品小物販売のラジオセンター、ラジオデパートなど狭いお店の路地を歩くだけで何か都会の理工系人間になったような気分になった。その後高校時代にオーディオアンプ製作に凝り真空管アンプの部品やスピーカー、スピーカーボックスなどを買い漁った頃は週に2度も3度も訪れていた。ジャンク屋という中古備品や壊れたラジオを二束三文で売るお店がある事も此処へ来て知った。このオーディオに凝った理由は奥沢中学校時代にルーツがある。
当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より
当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より
中学校では休み時間の10分間や昼休みに同じ趣味を持つ仲間や仲の良い者同士で固まって雑談をしていたのだが、カメラに凝っているグループ、真空管ラジオ制作に凝っているグループは中学生にしては専門用語が判らないと仲間には入れない特殊な集団を形成していた。真空管で言えば整流管や出力管、それぞれ3極管・5極管、6X4、5MK9だとか6BM8、6BQ5とか固有名詞が在った。
真空管には色々な用途と形状があった。この画像は最小型の真空管群、紙の箱で売られた。
自作タイプの五球スーパーラジオ。当時はこの半分くらいの小さいスペースに如何にコンパクトにまとめるかも作者の技量を表す一つのポイントだった。
これらを得意そうに話すグループの会話はどちらかというと外国語をしゃべっている感じにしか聞こえず、全くその世界を知らないクラスメートを拒絶する排他的な空間を形成していた。更に相手を指す言葉として「君、おまえ」とは言わずに母親の使う言葉そのままに相手を「おタクは?」などと喋る者もいた。後に「オタク族」という妙な人種が現れた時に、まさにルーツはこれか?と思った程だが、違うかも知れない。
こういう環境下で、自分自身が勉強して成績を上げてレベルの髙い大学へ進学するだけではなく、将来に向けて広い色々なジャンルで意外な可能性があるのではないかと思ったのもこの頃だった。
中学校の体育大会、つまりは運動会だ。今まで小学校時代から足は速かったがコレと云ってキチンとした野球クラブやサッカークラブに入った事も無く、何かの大会に出た事も無かった。海や川の素潜り漁で魚を獲る事はさんざんやっているのだが、プールでの競泳経験は無かった。陸上競技関係では殆ど何の教育も受けずにいたし、野球も小倉の小学校時代に小学生としてのソフトボール(本人たちは野球のつもり)をやっただけだった。
そんな中、野球部に小林君と云うのが居てある日打ってごらんよと云うので、バットを持って生まれて初めて上から投げてくるピッチャーの玉を打った。最初に当たった玉は校庭の東の端から打って体育館の屋根の上まで飛んで大きくバウンドして住宅街に消えて行った。すぐに野球部に入れと言われたけれど今更と云う感じで入らなかった。なにせ、その後ヤクルトに入った西君と云うのが同じ学年に居たくらいだから進学校でありながら野球部のレベルは結構高かったのではないかと思う。
一方である日、陸上部が南端の砂場の所でハイジャンプ、つまり高跳びと幅跳びの練習をしている事が有った。高跳びはそれまで一度もやった事が無かったのだが、跳んでいいというので飛んでみた。とにかくバーの上を越えりゃ良いんだろうと云う事でそれまで飛んでいた陸上部のメンバーの飛び方を真似して正面跳びで飛んだ。結果130CMを跳べて陸上部のメンバーと同じくらいだったと思う。
それを見ていた同じクラスの仲間がこの秋の運動会、つまり陸上競技クラス対抗の走り高跳びに出ろと言う。思いもよらぬ事に成ったとは思ったが、それから碌に練習もせず本番の日にB組代表で出場した。結果145CMを跳べて学年で2位になった。これは皆も驚いたようだが自分が一番驚いた。1番になったのはハンドボール部の背の髙い相原君と云うスポーツ万能選手で、その差は5CMだった。その後都立広尾高校に進んでバレーボール部に入ったが、ハイジャンプだけ陸上の大会に駆り出されて出場し、最終的には172CMまで跳べたのだが、練習をしないのでそれ以上には進歩しなかった。
勉強と一般的な遊びしかしてこなかった中学生がきちんとしたスポーツ領域の己の身体能力に驚いて、妙な自覚を持ったのがこの奥中時代だった。アメリカンポップス、テレビの海外ドラマ、鉄道模型屋、自転車遠乗り、きちんとしたスポーツ、ラジオ放送、これら九州の八代では出遭えなかった新しい文化風俗に接しカルチャーショックを受け、更には己の新たな領域能力を知ったのが昭和37年、1962年の東京へ転校したての頃の話だ。