2014年3月9日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #22.」 小倉の小学校での色々な出来事. Various events of elementary school days of Kokura .

 附属小学校の教室には明かりが無かった。当時の国立系の学校には充分な予算が配分されなかったのか、鉄筋モルタル+コンクリート製2階建ての小倉市立中島小学校に比べると大正時代建立の木造平屋建て校舎は50年以上タイムトンネルで過去に戻された様な環境だった。洒落じゃないが、伝統は在ったが電灯が無かったって訳だ。
大体、小学校にプールというモノが無かった。図書室も蔵書は限られており、良く借りたが最後の頃はもう興味を示す本は無かった。古いこの校舎は廊下を歩くとカビ臭さを感ずるほどだった。   なおかつ学校敷地の下を小倉炭鉱の坑道が走っているとかで、その木造校舎が傾き、幾度か改修・矯正工事があった。その場合は講堂をつい立で半分に仕切って2クラスを入れ込み、並行で授業を行った。
当時の卒業写真の画面左の建物が講堂

今は記念館になっている講堂
 
 この講堂の通用出口(昔は向かって右サイドに在った)から一番南側の棟まで1本の渡り廊下が上下して走っていたが、これを端から見通すと、校舎の建物で高床になっている部分と簀子が敷かれた地面レベルのタタキの部分の明暗の差が極端で、如何に校舎の中が暗かったか非常に良く覚えている。
 一方でこの講堂というと校内放送がスピーカーから流れていて毎朝掃除の時間に音楽が流れていたのが頭にこびりついている。それは1958年封切の映画のテーマ曲で「ぼくの伯父さん」という名前だった。
 

 最近この映画を再び観てみたが、デザイン的にとても素晴らしいフレーミングだし、フランスと云う国の素晴らしさが理解できる。如何にもフランスらしい街並みと建物、今でも十分通用するインテリアデザイン、ファッション、ユーモア、「本当かよ!」と叫びたくなるようなアメ車キャデラックのカラーリングなど監督で伯父さん役をやったジャック・タチのセンスなのだろう。改めて気に入った。
ちょうど1971年に封切られヒットした英国映画「小さな恋のメロディ」の2人の様に、メインの小学生ジェラールや友達が出てくるが、外国の小学生とはこう云うものだったのかと我が身に照らして思い返し、同時に既に自分がその映画の「伯父さん=監督のジャック・タチ本人が出演」本人より年上というこの時代の流れに複雑な気持ちになった。

小学校へは前々回の記述通りバスで通学し、附属小学校前で下車する。それほど高くない灰色煉瓦の壁で囲まれた校舎には正門から入るのだが、学校の前の道路は舗装されていなかった。当時のこの辺りの道は時々馬車も通りボタッボタッと馬糞を落としていった。その当時繊維が見えた馬糞紙(ボール紙)を実際にこの馬糞から作っていると思い込んだ友達が居て大笑いした。しかし我が父が十条製紙(今の日本製紙)勤務だったのでそうでない事を知っていただけで、父が製紙会社勤務でなかったら絶対に自分もそう思ったに違いない。

この馬糞が乾燥したものをボンネットバスが轢き、空中に巻き上がった馬糞入りの埃を可愛い胸いっぱい吸い込んで毎日通学したため、いまだに花粉症になど全然ならないで済んでいる。クラスメートほぼ全員そうではないかと踏んでいる、小さい時から雑菌と共生して健康に生きて来たのだ、我々田舎育ちの団塊世代は。

冬になると講堂前の小さな池にブ厚い氷が張る事が有った。当時は今より随分冬が寒かったような気がする。で、良く教室にその一部を割って持って入って皆で廻して、もて遊んだが直ぐに解けてしまうので証拠は残らない、したがって先生には怒られなかった。池の周りの土には長くなりすぎて湾曲した霜柱が毎朝出来ていた。一通りそれを全部皆踏まないと教室に上がらなかった。

肝心の成績は一進一退だったが、5年生の3学期には算数の3以外の教科は何とか全て4と5にこぎつけた。基本的に勉強をしなかった割には徐々に色々な事を理解したのだと思う。そうしてその問題の算数が秀才土井君(修猷館高校から京都大学へ進学)が転校したため6年生の1学期に初めて4になり通信簿から3が消えたのだった。残念ながら2学期で転校したため6年生の通信簿は持っていない。
5年生の通信簿は実に細かいので見返すと驚きの連続だ。行動が殆んどBで根気強さがCと云うのはまさに今も全然変わっていない。この通信簿を観る限り気が短く移り気で無駄が大嫌いという部分、この先今からもう治る気配はない。

授業は殆ど担任の岩岡先生が行ったが、音楽、美術、家庭科だけは専任の先生が居て別の専用教室で行った。理科も池のある中庭に接した実験室が在ってそこで行った。図工室以外は、やはり電灯が無く相当暗かった。小倉と云う街はその地理的理由からか夕方時々変な雲が出現し偉く暗くなることが有る。時には真っ暗になるような日もあり、席を前の方までズラして黒板を視えるようにする事も幾度かあった。それがついに5年生のある日、黒板の上に1本だけ蛍光灯が付いた。先生がスイッチを入れた瞬間の明るさと黒板が良く見えた感動は今でも忘れていない。「おーっ!」というどよめきと共に後ろの方の誰かが言った「先生!もうこれで黒板が見えないから判りませんって言えなくなってしまったよ!」これは大爆笑だった。

黒板の上の蛍光灯一本、これが点いた時の感動は未だに覚えている。

4年生の頃隣の中学校が北方(きたがた)に移転し、富野には我々小学校だけが残った。中学校の校舎と先生の官舎などは廃墟に成り、中途半端に解体した状態で荒れ放題、野晒しの校内だった。勿論休み時間や放課後は小学生の格好の探検・遊び場になっていた。

クラスの誰かが捨て犬を拾って休み時間や昼休みに餌をやりにこの廃墟の奥まで世話をしに行っていたようだ。リーダー格大将は既に5年生頃体が大きくなっていた元気な女子で、その後を金魚の糞の様に男子数名がいつも付いて回っていた。極めて排他的な雰囲気を持っていたそのグループには近づかなかったが、子供心に女子の後をついて回る情けない男子達・・・と非常に不快感を持ったものだった。ちなみにこの頃一番体が発達し大きく見えたその女子はクラスでも一番早くに結婚したが数十年振りに逢ってみると同級生の中でも一番小さい方になってしまっている。子供の成長過程は本当に不思議だ。

林間学校と臨海学校を1回づつ経験した。林間学校は英彦山に行き、臨海学校は津屋崎だった。英彦山は国鉄彦山駅からけっこう長い道を上り旅館で雑魚寝。登山中心の日課だった。ビニール製の小旅行用バッグの内側の独特の匂いが頭にこびりついている。お土産屋で木刀のようなものを買った覚えがある。夕方夕陽の中でヒグラシと云う蝉の声を初めて聴いたのもこの林間学校だった。
津屋崎の臨海学校は6年生の真夏だった。西鉄の貝塚線電車で津屋崎まで行き、お寺のような所で昼寝をした覚えがある。電車の中でミッキーカーチスの「恋の片道切符」を唄っていたクラスメートが居た。後に中学校で東京に出た時にそれがニール・セダカのオリジナルと云う事を知ってレコードを買った。

こうして、1960年、つまり昭和35年の夏が過ぎ9月の二学期が始まった頃、突然我が父の八代工場転勤が決まった。せっかく小倉で附属中学校に進学するのだと受験勉強を始めていた矢先にまたまた転校しなければならない運命を呪った。人生いろいろ挫折は有るが、正直この時ばかりは先の展望が全く見えず皆と附属中学校へ進む事しか考えていなかったので、プランBが浮かばず頭の中が空っぽになってしまったのを良く覚えている。

のブログ、八代の太田郷小学校に転校してカルチャーショックを受ける項に繋がって行く。

次週からは時は1962年4月八代二中の1年生終了時点で特急はやぶさに乗って単身上京し、東京の叔母宅に預けられ世田谷区立奥沢中学校に転校編入する場面から始めたい。