2014年3月29日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #27.」 1963年.昭和38年の修学旅行前後。

 叔母の家に下宿同然で居候をさせてもらいながら、毎朝東玉川66番地から奥沢中学校まで徒歩で通った。この叔母の家は随分前からこの世田谷に大きな土地を持っていて家の裏には数年前まで畑があった。昭和38年頃はそこにアパートを建てて経営していた。この親戚の風呂は生まれてこの方初めて視る五右衛門風呂で丸い板を沈めてその上に乗って身を縮めていないと大火傷をする前時代的代物だった。

 トイレは勿論便壺・汲み取り型で落とし紙が置いて在った。便壺の中は真っ暗で別世界が広がっていた。いつも独特の古い便所用の芳香剤の匂いがした。

 庭にはひょうたん型の池が在って金魚が沢山泳いでいて、大きな梅の木が在り毎年大きな梅の実が獲れた。はずれの方に犬小屋が在って白いスピッツが飼われていた。ダレカレと人が来るとうるさく鳴く犬で、なかなか人になつかない番犬としては最高だったらしいが、この私には一発で慣れてしまった。理由は判らない、八代で飼っていた大型犬コリーの匂いが付いていたせいだろうか?叔母が驚いていた。


 2歳年上の従兄と一度モメた事が有った。3畳間に向かい合わせで勉強机を置いてそれぞれ中学校、高校の勉強をしていたのだが、当然こちらは今まで通りあまり勉強をしない。しかし机には一応座って世界七不思議だの宇宙・ロケットの話だの鉄道模型趣味は読んでいたので一見勉強しているようには見えたのかもしれない。それが在る時HOゲージのパワーパック制作の為ハンダゴテを熱して結線しながら造っていたら「お前も中間試験なんだから少しは勉強しろよ!」とその従兄から数回言われた事が有った。もう少しだからと言って続けていたらハンダがなかなか付かない。何故かと思ったら黙ってその従兄がハンダゴテをコンセントから抜いてしまったのだった。これには我慢できず「あんまりだ、表へ出ろ!」と啖呵を切って庭に出た。しかし、相手は兄弟が居ないので喧嘩をした事が無かったらしくビビッて出てこない。「卑怯者!喧嘩も出来ないのか?」と罵ったら叔母に偉く双方が怒られた。

 20年後、この従兄に逢った時に、その時の事を皆の前で話されマジ怖かったと言われてしまい大恥をかいた。田舎では柔道が正課だったし、グーで殴り合う喧嘩はしょっちゅうだった。東京へ出てきてあまりに男の子の喧嘩が無い事に驚いた。少なくとも喧嘩の最低限のルールは子供の時から教えるべきだと思う。そうでないといきなり手加減を知らない争いになって素人が刃物を振り回す喧嘩になり怪我人や死人が出てしまう。

 いじめに遭ったとか、複数で1人を囲んで痛めつける卑怯でヤワな人種は昔の田舎育ちの男子にはまず居なかったように思うが如何だろう?友達に殴られる前に父親に殴られて育ったモノだが、今それをやると一発でDVだの虐待だの周りの口が達者な女性陣や女性っぽい男が騒いでしまう。これでは良い方向には行かないと思う。英国の私学で懲罰に未だに鞭打ち刑が在る現実は、その意味をしっかりと教育者が理解しているからだろう。またまた登場するが英国映画「小さな恋のメロディ」の中で校長に呼ばれて鞭打ちの刑を受ける際に、厚い本をお尻に入れる場面は強く印象に残っている。
 
 奥沢中学校でも2度ほどクラスメートと喧嘩をしそうになったが、口は達者で早口で色々わめくのだが、黙って相手の目から目線を外さず体を寄せて行くと逃げ腰になってしまう。八代の太田郷小学校時代、体のデカい相手の前ベルト(相撲で言えば前みつ?)を掴んで相手を持ち上げながら突進して空いている窓から中庭の花壇に落ちた事が有った。相手は煉瓦の角で肩の骨を骨折してしまい両親に偉く怒られたが、喧嘩の間合いだとかタイミングはこの時に会得したような気がする。まだ子供とはいえ喧嘩には「適当」と云う言葉は存在しない、トコトン勝つか負けるまで戦った。八代ではそれが当たり前だったが東京の世田谷にはそういう常識や風習はまるでなかった。

 ずいぶん後に掲載するが、VANヂャケットの社員時代、科学技術館でのファミリーセールのお客に国士舘大学の学生が居て集団で万引きをした。万引き警備を担当していた自分が大柄な1人を取り押さえ本部に連行途中に思いっきり2発殴られて逃げられそうになった事が有った。構わず相手の股間に手を伸ばし急所を手で握り上げ、ひるんだ所を今度は膝を入れて蹴り上げて戦力を失なわせ、応援に駆け付けた同僚と警察に突き出した事が有った。こちらの顔は酷い青タンになったが無事役目は果たせた。これなどある程度実戦で喧嘩をしていないと務まらない。

 奥中には番長なども居なかったし、らしき者も居なかった。むしろ裏社会の極道の子分格・不良と呼ばれた連中が居たのは人づてに聴かされていた。奥中の3年生の冬に大雪(もちろん東京にしてはのレベルで)が降った時が在って校庭で雪合戦が出来る程だった。もちろん昼休みに皆が校庭に出てクラスメートと頭から雪掛け等をしてはしゃいでいると、足元にビシッと異音のする雪玉が飛んできた。固く固めた雪玉の中に石が入っているではないか!
 これはB組に居た学年で一番可愛いい人気の娘と無邪気に遊んでいるのをやっかまれてぶつけられたものだと後で知らされた。不良と言ってもせいぜいその程度の事しか出来ない幼稚なレベルだった。山の麓の神社にチェーンや木刀を持って集まる八代の中学生とは基本的にレベルが違った。
 
また話が横道にそれてしまった。

こういう地方とは幾分違うシステム、常識、価値観の中での中学校生活に慣れるのは、さほど時間を必要としなかった・・・というより転校4回目でベテランの域に達していたのだろうか?自分で自分をコントロールしながら、トラブルが起きても死にはしないという経験値が度胸と余裕を持たせてくれたからかも知れない。この経験値はその後社会人になってからの転職経験に間違いなく生きている。
 
 3年生の秋に修学旅行があった。行先は京都・奈良、当時としては勿論定番の修学旅行先だ。行きに乗るのは修学旅行専用列車「ひので08:20品川発15:55京都着」帰りは夜行列車の「ひので19:25京都発翌日05:00品川着」だった。
昭和39年発行の時刻表には修学旅行専用列車と云う事で一番最後に掲載されていた。

修学旅行の朝は8時20分品川駅発の修学旅行専用電車ひので号だったので非常に朝早い集合だった。狭いホームに一杯奥中の生徒があふれていた。隣のホームには準急東海1号が停まっていた。
さっそくホームの端まで行って自分たちが乗る「ひので号」の写真撮影をした。