2014年8月31日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #63.」 封鎖中の横浜国立大学で勝手に自主授業を始めた。

 せっかく大学に入ったものの封鎖中の大学には行けず自宅で悶々としていた新入生たちは「とりあえず何かしなきゃ」と思っていたらしく、自主授業の計画は電話連絡網で広まって、中学校過程の7名+小学校課程の23名計30名のうち、常時半数以上が登校してくる事になった。今のように携帯電話があればもっと集まったろう、ちょっと残念だ。
 基本的にはアウシュビッツ(=プレハブ教育棟)に午前中に集まって、皆で出来る自主授業や討論会を行い、午後は自由解散。スケッチをする人は大学敷地の裏の荒地や横浜の本牧の方向の丘を描いたりした。時には鎌倉まで行って町並みや寺を描いたり海を描いたりした。人生でこの時期ほど絵を描いたときは無いと思う。
絵画室では皆が交代でモデルになって素描・デッサンなどを行った。

やはり頭脳明晰な女子が多く、口ではまず適わなかった。
 
 教室はプレハブだし床は軋むし、とても大学=キャンパスといった学園の雰囲気は無く、移転までの仮住まいという感じだった。プレハブの周囲は背丈まで生えた雑草・ススキの野原でどちらかと言うと未開拓の原野と言ったほうが正しい風景だった。卒業後過激派が内ゲバの時代に入った時、仲間に撲殺された死体が1週間もこの敷地内で発見されなかった程のヤバイ場所らしかった。結局4年間このままで終了し卒業してしまった。

だから筆者は未だに慶応義塾や青山学院のような学園キャンパス然とした大学の前を通ると羨ましいと思う。その後21世紀になった現在、早稲田大学の招聘研究員として研究活動はしているものの、出入りしているのはあの蛍雪時代という雑誌の表紙に何度も登場した大隈講堂から相当離れた理工学部キャンパスだ。此処のキャンパスの研究室などは有害電波を遮断するためなのだろうか全体を銀色に塗装されていたりして、まるでどこかの工場と言った佇まいだ。
残念ながら雑誌に出てくるようなオシャレな学園の雰囲気は全然感じられない。数年前理工学部の敷地の真下に地下鉄副都心線・西早稲田の駅が出来、明治通り側にタリーズ・カフェが出来たため、多少「大学キャンパス」のようには成って来た。しかし自分はきっとそういう華やかなキャンパスには縁の無い人生なのだろうと諦めている。
今の早稲田大学・理工学部西大久保キャンパス、この真下に地下鉄副都心線の駅が! 
 
かれこれ45年近く自分のお宝箱(通称タイムカプセル)にずーっと入っていた当時の自主授業日誌を取り出して読んでみた。これは自主授業をしながら参加者が自由に書き込んだもので、開始直後の夢と希望にあふれていた時点の書き込みから、封鎖がいつまで続くのか不安が大きくなっていく様が良く見て取れる。当時の大学生たちのリアルタイムの本音が書かれていて、45年ぶりに陽の目を見た貴重な歴史的資料だ。中にはなんと、あの人気キャラクター「しかし」の描きかた等を自分で書いているではないか!
45年ぶりにじっくりと読んでみた自主授業日誌、実行力の賜物。
 
 当時の自主授業は担当責任者が割り振られていて、結構まじめにやっているようだ。自宅にあった祖母から譲り受けた本物の浮世絵(明治時代に販売されたもの)を持ちだして散々学んだ。東洲斎写楽や鈴木春信、喜多川歌麿などの歴史や雲母(きらら)摺りなどの技法を知った。ロートレックの絵やブラック、ユトリロの絵と浮世絵を並べて、どの部分に影響を感ずるかなどいっぱしの評論家気取りで討論したのを覚えている。これはその後大学でも学ぶ事は無く、未だに知識として脳に残っている。
我が家に50点ほど残っている本刷りの浮世絵、明治時代の定期配本物らしい。

雲母摺り(きらら摺り)は光を当てるとこのように光るが鈍い光だ。

 一方で当時は漫画の全盛期が始まる頃で、アニメと言う言葉では定着はしていなかったと思う。まだ池田理代子の「ベルサイユのばら」も週刊マーガレットに連載される前で、今の漫画家・アニメ作家がしのぎを削って勉強していた頃なのだろう。この自主日誌も漫画と言うか挿絵と言うか、さすが美術系のメンバーの記録は文字より絵の方が多い気がする。それでいいのだ。
日誌とはいえ、字よりも絵で表現・記録するものが多かった。落書き帳に近いかも。
 
60歳を超えて、最近の大学生たちが非常に幼く見えるのだが、この自主ノートで自分たちの同じ頃もまったく変わらない事を再発見した。只し、自分たちでゼロから物を作り出す、事を始めるバイタリティはまだ今よりは豊富に在った様な気もするがこれは贔屓目だろう。

1969年~1972年にかけてクラスメート数名で泊りがけのスケッチ旅行したのも、この自主授業に端を発している。紅葉時期の那須高原、伊豆石廊崎付近箕掛け大瀬のキャンプ場でキャンプ、北陸金沢⇒能登輪島⇒高山旅行 松本⇒信濃川上⇒清里 など。
紅葉まっさかりの那須高原へのスケッチ旅行、何故かカラー写真をモノクロで焼いたようだ。

数名グループでのスケッチ旅行が多かった。学校に戻って作品を並べて報告会を開いた。

まだ関東エリアでも古い客車のローカル鉄道が残っていて被写体には困らなかった。

ちょうどこの頃は国鉄のディスカバー・ジャパンが始まる頃で国内旅行への人気が高まっていた。急行の自由席が乗り放題の格安の国鉄の周遊券で、北陸・能登、東北地方など、ミニ周遊券で京阪神へ幾度も出かけた。スケッチ旅行が主眼だが筆者は撮影をも主眼においていた。当然学割は最大限有効活用した。
学割は年間に使える枚数が決まっていたような気もする。

周遊券、ミニ周遊券には散々お世話になった。

当時の交通費は今の感覚から言ってもそう高くは感じなかった。





 

2014年8月30日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #62.」 全共闘が封鎖中の横浜国立大学へ入学。

 大学への入学手続きは清水丘キャンパスの1号館で行うと合格通知の郵便物に書いてあった。この清水丘キャンパスは京急南太田駅から一旦東方向へ300mほど大きく迂回し、ドンドン商店街という変わった名前の商店街を抜けて長い坂を上って行く徒歩で800mの不便な場所にあった。
ドンドン和尚の漫画が流行っている時に、ドンドン商店街を通う、何かの縁だろうか?

 ちょうどその当時「少年マガジン」で連載していた話題の漫画ジョージ秋山の「ほらふきドンドン」の主人公ドンドン和尚と同じふざけた名前の商店街名で非常に印象が深い。ちなみにこの商店街は昭和28年頃できたようで、ドンドン和尚とは何の関係も無いそうだ。
ジョージ秋山と言う漫画家は鋭い世評で人気を博していた。

 この漫画のほうのドンドン和尚は非常に人気があり、時の政治にも厳しい注文を付けたり、自分の頭の皮を黒い顔ごとペロッと剥いてしまい、中から出た白い骸骨を自分で磨くなどドキッとする表現でちょっと異質だった。時々出てくる「しかし!」という読者の声を代弁するような存在の小さなキャラクターが大好きだった。
この「しかし」と言うキャラクターは手塚冶虫の「ひょうたんつぎ」に匹敵する脇役だ。

 商店街から漫画のキャラクターまで広がってしまったが、この長い清水丘への坂を上って横浜国大の黒い大きな建物正面の校門を入ると、そこにはマスコミ・メディアが群れを成していた。入学手続き中の大学正門の近所にも目立たないようにだが青い服を着た機動隊が大勢控えていた。その中を教務課に行き入学金1万5千円と1年分の授業料1万2千円を支払った。当時は国立と私立の大学の入学金・授業料は非常に差があった。授業料はなんと月額1,000円だった。最初に入った大学を1週間で辞めて勘当同然でそれ以降の学費は一切自分で稼いで来た事を考えると、この安さは非常に有り難かった。我が家は基本的に製紙会社に勤める父親のサラリーだけだったので、3人の子供を全員大学に進ませるのは大変だったろうと思う。今になって思えば、早稲田を1週間でさっさと辞めてしまったのは、長い目で見れば我が家にとって経済的に少しは貢献したのかも知れない。
4歳年下の弟も2浪して筆者と同じ横浜国大のまったく同じ教育学部の美術専攻に入っているので、経済的には両親にさほど負担を掛けないで済んだのかもしれない。

 しかし、教務課の窓口で入学手続きのおまけに「全共闘支援金3,500円」を払え、と言われてひと悶着あった。「全共闘を応援するつもりは無いので払わない」と言ったら、中からヘルメットを被った2~3人の男が出てきて、筆者を取り囲み「払え」という。そこで入り口を覗き込んでいるマスコミの数を頼りに「全共闘支援金」の趣旨を示した文書なり、寄付のお願いのチラシなどを出せと要求した。しかし徴収者が明確ではないガリ版刷りの簡単なものしか無かった。なおかつ、「全共闘支援金」を払わないと入学はどうなるのだ?と訊くと、大学とは直接関係無い学生自治会宛だから、別にどうにもならないと言う。要は横浜国大が全校封鎖中で、入学受付日のみ2日間大学関係者が教務課の部屋に入れてもらい業務をしていただけで、大学自体は事実上横浜国大・学生自治会を自称する過激派全共闘に占領されていたのだ。結局「じゃ、今は払わない、後日納得したら払う」と言って払わないで終わった。後で訊いたら文句を言って払わなかった人間は全体の5%程度は居たようだ。今からでも遅くない、趣旨を示した書付を持ってくれば支払わないでもないから、当時の関係者は連絡してくるように。

 一人で3人の白いヘルメットをかぶってタオルで顔を隠したつもりの全共闘に相対し、結局要求を呑まずに先送りして正面のソテツの植え込みに出てきたところ、マスコミに囲まれてしまった。どうやらもめていた様子を誰かが教えたらしい。口々に「何があったの?」「乱暴されなかった?」「君は何学部?」「これからどうするの?」みな口々に勝手に色々な事を訊くので、一人ひとりの顔をジーッと視て「新聞社名は?名前は?」と訊いた。そうするとたいていは身分を明かさないので答えなかった。マスコミ以外の人間が混じっていたような気もする。テレビ局らしくマイクを差し出す場合は、そのマイクにマスコミ名が書いてあるので多少は信用できた。
今は県立高校になっているが、正面ロータリーのソテツは当時のままだ。

 結局、扱いにくい相手だと思ったのだろう、マスコミの輪はしばらくすると解けたが、神奈川新聞社の記者だけ名刺をくれたので、色々答えた。しかし翌日出た新聞を見て驚いた。しゃべった事など全然出ていなくて、言ってもいない事ばかり書いてあった。この日から新聞記者、マスコミの人間は一切信用せず、何か訊かれたら用心するようになった。まさかそれから10年後にマスコミと深い関係にある広告代理店に勤める事になろうとは夢にも思わなかった1969年4月の事だ。
題字が縦組みの頃の神奈川新聞、中華料理屋でよく読んだ。

 手続きを終えて4~5日してから教育学部美術専攻科の新入生全員に國領 經郎教授から召集連絡が来た。集合場所は本牧の港の見える丘公園傍にある国家公務員共済会館(=ポートヒル横浜)だった。今は茶系の外装だが当時は白く輝く鉄筋コンクリートでいかにも横浜のみなと近くの建物だった。郵送されてきた案内地図を頼りに元町商店街から石畳の曲がった坂を上って、せっかちな性格が働いて1時間も早く到着してしまったことを覚えている。三鷹から横浜の山手と言えばちょっとした小旅行に思えたのだ・・・その時は。吹き上げる風が強い手すりから北側の横浜港を眺めたり、港の見える丘公園内にある大佛次郎記念館を覗いたりして時間をつぶした。
国家公務員共済会館 ヨコハマ・ポートヒル 当時は真っ白い建物だった。

 集合時間になって会場に入ってみると、ほとんどが既に到着していて入学試験の日とは違って皆にこやかだった。教授が4名程来ていて絵画の小関教授、國領經郎教授、デザインの真鍋教授、彫塑の安田正三郎教授が自己紹介した。そのままサロンのような感じで全共闘による封鎖中の大学の実情説明があった。しかし封鎖中の大学の授業再開の目処は、まったく立っていないという話だった。
 このとき初めて中学校教員養成課程の新入生7名が一堂に会したのだが、現役が一人も居なくて全員が1浪か2浪でなおかつ当初は東京教育大芸術学部を志望していたという。それが降って湧いたように入試中止ということになり、混乱しつつも慌てて横浜国大を受験した事が判って、全員で頷き合った。しかしその中で「ブルー・ライト・ヨコハマ」が引き金になったからとか、東京教育大でも唯一入試をした体育学部を受けたなどという半端な奴は、筆者以外ひとりも居なかった。

 この召集以降はしばらく音沙汰が無かった。せっかく大学に入ったのに過激派封鎖のおかげで何もしないと言う事があるか!と裏から出入り自由の大学の教育学部の校舎に直接行って、自主授業を始めてしまおうとクラスの皆を集めて計画を練った。好きな事をやれるのだから発想は自由。場合によっては教授を内緒で呼んでしまおうとまで計画した。

1970年頃の清水丘キャンパス左手の広いグランドまで敷地だった。

1980年頃県立高校になってからの航空写真。左手の三角形のエリアが教育学部棟の跡。

 結局それぞれ授業内容を発想・提案した本人が講師になって、毎回集まった同期のクラスメート相手に自主授業が始まった。この頃から自分で発想・提案などの努力もせず他人の行った事の批評・批判ばかりする輩は卑怯だと言う考え方が身に付いたらしい。
 科目は、日本美術史、西洋美術史、デザイン、絵画(スケッチ・クロッキー・油)、英語(ヒヤリングと筆記)
 場所は清水丘キャンパスのはずれにある教育学部分室・美術棟。この美術棟を含めた教育学部分室は、横浜国立大学が弘明寺と南太田の2箇所に分かれていたキャンパスを、統合して保土ヶ谷に移転する過程において仮校舎のため、平屋のプレハブで出来ていた。入り口から3棟建っていて一番奥が美術棟だった。敷地の周りを金網フェンスと有刺鉄線で囲まれていたので、教育棟全体が通称「アウシュビッツ」と呼ばれていた。
通称アウシュビッツでの記念撮影。学園ぽい雰囲気は在学中とうとう味わえなかった。

 ちょうどスティーブ・マックィーンの出ていた「大脱走」の捕虜収容所を思い出してもらえれば感じは掴めると思う。
 そういえば、あの「大脱走」で英国の少佐を演じていたリチャード・アッテンボローが亡くなった。独特の雰囲気を持った俳優だった。自分的には「大脱走」と「ジュラシックパーク」が印象に残っている。弟のディビット・アッテンボローの英国BBC関連の自然映像や「アッテンボローの鳥の世界」などと接した方は少なくないだろう。彼はまだ存命だ。

 

2014年8月29日金曜日

道東探鳥ツアー その4.野鳥に日本で一番近い都市・根室。

 根室市という街は今までNHKの天気予報でしか見ることのない、日本の東のはずれの年中霧に覆われた寒い街と言うイメージだった。もちろん北方領土に近い街、花咲ガニで有名な街という概念くらいはあった。しかしこれほど自然が豊かでしかも間近で、野鳥が多い街だとは夢にも思わなかった。今回の道東探鳥ツアーで完全な虜になった感が在る。
 落石ネイチャークルーズに限らず、このあたりはバードウォッチングが非常に盛んで基本的な哲学を併せ持った英国流の接し方が定着している。いわばデビッド・アッテンボロー氏の直伝に近いものかも知れない。

 自分の考えだけを、流派の同じ仲間と一緒に声高に叫び、意見の合わない者を徒党を組んで攻撃する排他的愛鳥家の集まりではなく、理にかなった具体的な考え・手法を広く取り入れ、野鳥に近づくスタイルを独自に進めている。ある意味日本にあっては一番進んでいる地域かもしれない。

 まだ今日は具体的な個人名は挙げないが、さすが!と思わせるだけの野鳥観察の実績と頻度を持つ幾人のリーダー・努力家が居て、野鳥観察に関する独自のアイディア、具体的な行動の輪を広げているのが根室を中心とした道東の野鳥観察界のようだ。決して上から目線ではなく、同じ土俵で野鳥に接する姿勢などを話す方ばかりで、北海道と言う地域性なのだろうか、他のエリアとの違いを大いに感じたツアーだった。

 人間の生活空間と完全な自然界がオーバーラップしている都市が根室と言っていい。同じ北海道でも札幌や函館、旭川と言った大都市とは全然違う環境にあるのが根室だろうか。
根室市内で泊まった民宿からは根室海峡が見える。

民宿の前の電線には逆光でよく判らないがコサメビタキか?驚かされる。

夕暮れの民宿の窓から知床半島が綺麗に見えた、国後島も重なっている。

市内方面、この奥行き止まりに明治公園がある。

車を借りずともバスで行ける明治公園入り口。ただの公園ではない!

野鳥観察用の小屋「ハイド」が完備している。

「ハイド」の窓から観たノゴマ。30分の間に7種ほど視認出来た。

明治公園の池ではオオセグロカモメが塩抜き?水浴びをして順番に列を成して離水。

実は片足で囀るこのノゴマも明治公園の周回路の脇5mで鳴いていたもの。


2014年8月28日木曜日

道東探鳥ツアー その3.地球自然環境と動植物・自然保護

 野付半島から一本道のフラワーロードを標津町分岐まで戻り、南へ向けて車を走らせる。野付国道244号線をひたすら南下。周りは森林地帯と牧草地帯が交互に見えてくる。対向車はほんの時々2~3台まとまって通過する。途中の牧場でタンチョウが2羽、牛が牧草を食べて居る所に寄って行き、牛に追い払われているという場面に出くわした。あの正月のカレンダーにもなっているタンチョウの高貴なイメージが崩れ去るような現場だった。
 話に聞くと、一時は絶滅の危機に瀕し、根釧原野での必死な保護活動のおかげで昨年1,000羽の数に達するまで80年掛かったタンチョウが、どうやら今年は1,400羽に急増し、農作物被害が急増しているという。下手をすると、近い将来方法は別にしても間引かねばならない状況にならないとも限らないという。動物の保護は非常に難しい。一途に保護しなければ!保護する事は正しい!だからそれを妨げるものはすべて悪だ・・、ばかりでは上手くいかないところが自然保護活動の難しさだろう。あのタンチョウを間引かなければいけない時期が迫っている?これは衝撃の情報だった。
国道243号線、別名パイロット国道に合流してしばらく南下した右側の牧場でタンチョウ2羽。

親子なのか、つがいなのか不明だがゆっくり牛の餌場へ・・・。

時々、地上の餌を探しながら干草の山に接近。

土中の昆虫などをあさっている様子。

牛のすぐ後ろで何かを待っている様子、牛は気になって見つめたまま。その後更に一歩近づいた時に、牛が尻尾を大きく回し、実を反転させた瞬間、タンチョウは足早に去っていった。牧草の草の実でも狙っていたのだろうか?増えすぎつつあるタンチョウを今後どうするのだろう?

 自然保護、動物保護にはいろいろな考え方がある中で、2005年愛・地球博つまり愛知万博の地球市民村ブロックのコスモ石油ブースを企画プロデュース・運営を担当した時、その当時一番新しい考え方を知った。このコスモ石油ブースは早稲田大学理工学部の三輪研究室とのコラボレーションで、植物によるリアルタイム二酸化炭素吸収実験装置を発明し、185日間運営された人気ブースだった。あの「もったいない」で有名になったケニアの環境大臣・故ワンガリ・マータイさんにも「ぜひこの実験装置を持って帰りたい・・・。」と、非常に高い評価を得た実験・展示ブースだった。
 愛知万博の地球市民村ブロックに於けるコスモ石油ブースの実験機器。筆者も加わり早稲田大学理工学部と岡山大学農学部の教授陣・大学院スタッフのコラボレーションで、今までになかった実験装置を発明し185日間運営、大好評を受けた。その後、この装置はお台場の日本科学未来館に展示された。メディアには300本以上の報道がなされた。
 
 国内外の著名な科学者がブースを訪れ、我々研究スタッフもランチタイムなどに色々な地球の自然環境論を伺った。その中でヨーロッパなどでは、事実に即さない盲目的で観念的な自然保護活動に対する科学メディアの評価が非常に厳しくなってきているという事だった。「自然を良く知らない人間や一般メディアは、数が急激に減少しつつある絶滅危惧種を憂いてあらゆる手段を講じ、半ば宗教的な熱意でいろんな条例・法律で保護しようとしている。しかし、もし大きな自然の流れを人間の手でコントロールできるなどと思っているのであれば大きな間違いだ。絶滅していく、あるいは絶滅してしまった種は、人間の生活を含む自然界の色々な環境・条件の変化でそうなったのであって、ちっぽけな人間が手を入れて防御しても無理がある。

今ある目の前の自然環境が最高だと思い込み、『今』をそのままにKEEPすべきだと思うのは人間のエゴで、自然界はそこに生きている動植物含めて常にバランスを取りながら変化しているのだ」という。北極の氷が薄くなってシロクマといわれる北極熊が溺れて死滅しても、もともと15万年前にはホッキョクグマは存在しておらず、北海道にも居るヒグマから氷河期の自然環境上分かれた種なので、氷期が終われば自然に消滅してもおかしくないという。更に今後更に温暖化が進んだ場合、極端に思えるかもしれないが今後別の種の赤いクマが出現してもおかしくない。地球の自然は常に変化し続けているので、消えていく種がある一方で、実は日々新しい種がその倍近く生まれ、発見されているという。自然界の動植物の環境への対応能力と自身の変化は、人間の想像をはるかに超えているという。

 このあたり、インターナショナル・スタンダードの自然環境、動植物に対する人間の接し方に関して、もう少し深く学び、日本に於ける野鳥に対する接し方、保護姿勢、一般常識がこれら世界の科学者の常識の中でどういう位置にあるのか考えてみたいと思った。同時に国内では一番具体的に野鳥に接する姿勢が進んでいる道東エリアの野鳥観察に関する実態を勉強するとともに、日本では極端に数が少ない、あるいはごく限られた場所にしかいないといわれるエトピリカなど、海鳥を中心に絶滅危惧種が一番多い、道東の野鳥保護保全現場に直接来ることで、これらを少し自分自身の体で感じたいと思ったのだった。


 根室方面へ車を運転しつつ、途中でタンチョウの姿を撮影しながらこれらの事を思い浮かべていたのだった

2014年8月27日水曜日

道東バードウォッチング紀行 その2.野付半島 Eastern Hokkaido bird-watching journey report part 2.

中標津空港でレンタカーを借りた。マツダのDEMIO、真っ黒な塗装なので傷が目立ちやすいと思ったが、道が広ければ問題ないと替えるほどでもなかった。いつも行く熊本の人吉球磨エリアは超山道を行くことが多いので、両脇の植物でボディが擦れることが有る為、なるべくシルバーメタリックの小型車にしている。なじみのヤマセミ君も見慣れているので刺激を与えない意味でも効果があるようだ。今まで計40回ほどレンタルしているが、一度も問題はなく超過料金を払った事は無い。

1度だけこういうことがあった。前の客が返却の時に満タンにせずメータだけ満タン風に見える位置で給油を止め返却したのをレンタカーやさんが気が付かず、熊本空港から市内に行くまでにアッという間に1目盛り減ったことがあった。すぐに電話してクレームを付けたことがあった。その時はこちらが恐縮するほどの対処をしてくれて感激したので、それ以降レンタカーはニッポンレンタカーに決めている。熊本空港営業所にいた林所長は福岡空港の営業所長に栄転していってしまったがいまだに感謝している。

空港レンタカーその他は色々な会社があるが、やはりいざという時の対応は大手に限る。半分くらいの価格の格安レンタカー屋もあるが整備が不十分で、変な音がしたまま不安がいっぱいで乗ったり、いざという時のロードサービスなどが無かったりで結局高くついてしまうようだ。

 レポートの最初がいきなりレンタカー屋の話になってしまったが、カメラ機材を積んであちこち動く場合非常に重要な事だ。車種は何でもいいが5ドアのハッチバックタイプは必須かもしれない。
雨が降れば後ろのドアを跳ね上げて屋根代わりにもなるので、雨中の撮影も可能だ。

 当日のブログにも書いたが、中標津空港を出てほんの500mも行かないうちに野鳥の声が沢山聞こえてきて、思わずすぐ車を停めようかとも思った。しかし、夕飯までに根室の民宿に到着する必要があるので先を急いだ。途中野付半島のトドワラ経由で行く予定なので144kmの行程で3時間40分ほど掛かるとパソコンののトランジット案内では示していた。車のナビでは更に掛かるような表示だった。

 天気は小雨、霧雨といった感じで決して撮影に適した条件ではなかったが、やたら野鳥の声があちこちでするので、どちらかというと腰は浮き気味だった。一番使い慣れた50-500mmのシグマのズームをCanon EOS1Dxに付けて助手席に置き、いざ何か目に入ったら路肩に止めて窓から狙う・・という体制で野付半島先端部のネイチャーセンターを目指した。

 しかし、あまりに野鳥が多いので、気をとられ撮影しているうちにどんどん時が経ち、結局ネイチャーセンターではトイレに行く時間しかなかった。それほど初めての道東は野鳥の魅力で一杯だったのだ。この最初のレグでの出会いはオジロワシ、カッコウ、シマセンニュウ、ノビタキ、カワラヒワ、ノゴマ、だった。途中ナラワラという枯れ木群の観光スポットも通過したが、この時はあまり熱心には観なかった。


 標津の町から野付半島先端までは本当の一本道で両サイドが外海・内海なので風が強い時や真冬の吹雪の時は遭難しそうだ。天気が良ければ国後島が見えるはずだが、この日はまるで見えなかった。
標津町から海ノ中道のような一本道950号線、別名「フラワーロード」左は根室海峡。

標津町はずれで分岐して16km行くと野付半島ネイチャーセンターに到着する。レストランもあるし、野付半島でその日見られた動物が表示されていた。北方領土の説明も非常に多い。国後島に一番近い観察ポイントなので当然だろう。

道沿いの電柱で最初のオジロワシに遭遇、カラスと比較できてラッキーだった。

車の窓からレンズを出して撮影、悠然としていた。

途中のナラワラ、帰る前の日に再訪したのでこの日は1分停車。

別のオジロワシが木の上に長いホバリングの後着地、巣があるのだろうか?

他の野鳥の巣に託卵を企むカッコウ。強風で木下に退避中。

周りはいろいろな花で一杯だった。こちらが主眼の観光客も多かった。

ネイチャーセンターを後にしたときに居たカワラヒワ、何処にでも居る。



2014年8月26日火曜日

道東バードウォッチング紀行 その1. Eastern Hokkaido bird-watching journey report part 1.

 これからしばらくは、今回の道東・探鳥紀行のレポートをお届けしたい。ただ野鳥画像だけレポートするのではなく、その背景の景色や環境、観察する側の行動背景などお届けできればと思っている。とにかく行って見て如何に道東が野鳥たちにとって住みやすい、繁殖しやすい環境なのか体感して頂くためのきっかけにでもなれば嬉しい。

 特に、本州中部以西の野鳥ファンにとっては、まず出遭えない種もいれば、お目にかかれない夏羽の姿を目の当たりに出来る意味でぜひお勧めしたいエリアだ。餌で寄せて撮影の場を作っている鶴居村のタンチョウ、観光用に撒き餌をして呼び寄せる知床の流氷の上のオオワシ画像や、温泉旅館の生簀に餌を獲りにくるシマフクロウだけが北海道の野鳥の姿ではないと確信した。

 まったく自然体の各種野鳥をぜひ観察にいかれてはと思う次第。
東京から中標津(根室中標津空港)行きの直行便はANAが1日1便あるだけで、あとは札幌から道内便が1日3便ほどある模様。国内の中部以西からは羽田乗り継ぎでも札幌新千歳乗り継ぎでも行くことが可能。楽天トラベルから探し、ホテルとのセット・パックが格安。羽田空港では今日現在一番端の68番ゲートからの出発になっている。

羽田空港は3本の滑走路になって、風向きではディズニーランドの真上を飛んでいくことがある。

襟裳岬は航路上必ず通過するポイントだ。上空から生まれて初めて唄に歌われた「襟裳岬」を観る事ができた。

北海道はどこの上空から見ても景観的には日本ではない。英国やフランス上空からの景色に近いと思う。特に道東の中標津界隈はそれにカナダ的景観がプラスされるような気がする。

7月21日付けの当日ブログにも掲載したが、中標津空港は1日8便だけの発着なので極めて簡素なつくりだが、空港内に入ってみた途端外国の匂いがした。どこと無くノルウェーの田舎の空港に降りたときを思い出す。サウナとか木の香りが漂っている。厳冬期は欠航も多いのではないだろうか?

レンタカーで野付半島~風蓮湖沿いに南下して根室までドライブ。とにかく車が少ない。これが国道44号線で一番の幹線だが、向こうに見える根室の市外地の入り口でもこんな感じだ。

これからしばらくは野鳥があまり出てこないが、野鳥撮影紀行としてみていただけると嬉しい。