特急はやぶさの2等寝台(当時はまだ1等2等表示)の3段寝台車に乗って八代駅を出たのが日曜日の午後2時30分。特急はやぶさの上りと下りが毎日この八代駅で14:30に行き違う、熊本風に言うと離合する訳だが、実は此処ですれ違っている2編成以外にもう1編成その日の夕方19:00に東京駅を出発する編成が存在して、合計3編成で切り回していた事を知ったのもこの頃だった。
八代を出るのが午後2時半だから博多駅17:00、門司駅18:15はまだ景色を見る事が出来る。春分の日を過ぎているから関門海峡付近の日没は18:30過ぎだ。八代を出てから殆どは車窓の景色を眺めて過ごした。今はどうだか知らないが博多を過ぎて多々良川の低い鉄橋を渡る頃松の並木が沢山あったのだが、今は殆ど無くなってしまったようだ。
C61の吐く煙は迫力があった。
当時の普通の客車と比べると「超デラックス」という感じだった。
関門海峡をトンネルで潜る際にそこだけ電化されていてステンレス製のED30系の電気機関車が今まで引っ張っていたC61蒸気機関車に代わって牽引した。これの付け替えに4分停車する。トンネルをくぐった後対岸の下関駅で再び蒸気機関車が牽引する。特急はやぶさをはじめ九州寝台特急のすべてが4分も停車する駅はこの門司・下関以外には岡山駅の5分停車しかない。岡山駅は当時そこから東京まで電化区間だったので改めて電気機関車EF58に牽引動力車を交換したのだと思う。暗くなって岡山までのカーブで先頭の蒸気機関車の煙突から赤い炎と火の粉が暗い夜空に見えたのが印象的な記憶になっている。
関門海峡専用のステンレス製交直両用電気機関車EF30
主にC61、C62が牽引した特急はやぶさ
チンチンチンといきなり聴こえて、ドップラー効果で音階を下げながら遠ざかって行く踏切の警報音を何度も聴きながら、独特の洗濯物の匂いをしたシーツと枕カバーを嗅ぎながら寝台に横になるとあっという間に寝てしまった。この寝つきの良さは今も変わらない、何処でも寝られる。1966年高校の修学旅行の東京への帰りは修学旅行専用列車「ひので」だったが、遊んで疲れ切って網棚に乗って寝たらそのまま品川だったことが有るほど。
2等寝台は富士山側が通路だった。
岡山辺りで寝てしまい、起きたのは名古屋附近だった。1961年の時刻表に特急はやぶさは0506名古屋と在るが、ホームにタイル張りの洗面所が有って、歯を磨いたり顔を洗う人が沢山居たのを記憶している。この当時は夜行列車が結構沢山有ったので、あちこちの主要駅ホームには洗面所があったようだ。たいがい鎖に繋がれたアルミの取手付コップが置いて在った。
駅のホームの洗面所、九州にはまだ残っている駅がある。
勿論駅弁はお約束で、特急が停まる駅であれば必ず在った。名古屋は鶏飯、浜松は鰻飯、静岡は鱒寿司、お茶は陶器?の入れ物に入ってきた。寝台車からは買いにくいので沿線のお弁当をカートで売りに来るのを待って購入した。
車内販売の駅弁¥200
車内販売のうなぎ弁当
富士山は今の新幹線から程は良く見えなかった。新幹線が高架だからだろうか?それより八代の十条製紙から流れてきていたあの臭いパルプを煮る時の匂いと全く同じ臭いが車内にも入って来て一瞬「えっ?また八代に戻ったと?」と思った程だった。沼津を抜けて丹那トンネルに入るとその長さに「大丈夫だろうか?」と何度も思った。長いトンネルは上ではなく下の方に一定間隔で明かりが点いているので良く判る。
熱海を過ぎて小田原を過ぎるとそこから横浜までは意外と長く感ずる。砂地と松の木が増えて湘南ぽい雰囲気にはなるが、自動車がまだあまり普及していない頃だから車窓から見える車はトラックの方が多かったような気がする。大船・保土ヶ谷を越えて横浜に入った途端並行して走る京浜急行の赤い電車が「都会」を感じさせたものだ。ゴミゴミした街並みが続き京浜工業地帯の雰囲気をかもしだしていた。ちょうど映画「続三丁目の夕日」でヒロミ役の小雪が電車特急で故郷へ戻る途中の車窓がそのままと云う感じだった。ガスタンクやちょっとした工場の三角屋根の連続が京浜工業地帯の大きさを表していた。八幡製鉄や住友金属などとは違う町工場の群れと云う感じだった。
鶴見川鉄橋附近に鉄道マニアであれば知らないものが居ない程有名な鉄道写真の撮影ポイントがあったがそこを通るのが嬉しかった。今でもまだあるが、ほとんど忘れ去られている場所だ。
横浜を出た後1005に東京駅10番線に到着する特急はやぶさは、つい5年前2009年3月13日まで延々と東京と九州を結んでいた。今ハヤブサと云えば望遠レンズで狙う野鳥・猛禽類だけになってしまった。
東京駅の寝台特急はやぶさ Googoleフリー画像
ちなみに東京駅のホームは123456番線が中央線・山手線・京浜東北線で7・8・9・10番があって次は12番13番ホームになる。11番線ホームと云うのは無い。松本清張の小説「点と線」に出てくる「7・8番線ホームから12・13番線ホームが見えるほんのわずかな数分間~」というくだりがあるがこの時も11番線ホームは無かった。これは長距離をけん引してきた電気機関車を回航する為の11番線がホームに接していなかっただけの話だ。ちゃんと線路自体は存在した。
ついでだが、ホームの1番2番とはどのような順番で決めるか?東京駅では西の丸の内側からだし新宿駅では東口の方から1番2番となっている。これは駅長室に近い方から1番2番と決めているそうだ。
こんな話をし始めるとそれだけで20回分は埋まってしまうのでこの辺りで止めよう。
東京駅10番線に滑り込んだ特急はやぶさからホームに降り立ったとき出迎えてくれたのは我が祖母と世話になる叔母(我が父の妹)だった。中学2年生が一人で上京すると云う事は大人にとっては結構心配なのだろうが当人にとってはこれ以上楽しい冒険は無い。
2~3年間だけ山手線は黄色い電車だった。
1963年頃からこのウグイス色と呼ばれた緑系統になった。
ホームを移動して山手線ホームの階段を上がった時目に入ってきたのは黄色い電車だった。カナリアイエローと呼ばれたこの電車は1961年から63年までしか走らず、1963年にはウグイスと呼ばれたグリーンの車体になった。東京オリンピックを2年後に控えた東京は普段の3倍4倍のスピードで色々なモノが変化している最中だった。