2014年3月2日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #20.」 附属小学校時代の学校生活のあれやこれや。

 前回は映画やレストランの話ばかりしたが、一応授業はちゃんとやったし、レベルの高い学校ではあったが決して成績はビリではなかった。自分としては好きな科目は算数と理科・社会・図工・体育だったが、算数は思ったほど上位には行けなかった。通信簿も真ん中のボリュームゾーンの「3」だった。要は算数を得意な者が自分以上に多かったと云うだけだ。6年生になった時、5年生修了時に福岡に転校して行った秀才(後に京都大学)が抜けたため算数の成績が3から4になった。その理由を担任に言われた時は「何でそのような余計な事を言うのだ?」とムカついたのを覚えている。

 成績だとかクラスの授業の詳しい話はもう少し後にするとして、この学校の在った富野地区の話をしておこう。添田線の踏切を渡って左に地肌の出た崖沿いにカーブを切って坂を上り始めるころからボンネットバスのエンジン音が変わり上り坂になった。右には自然にできたと思われる溜池が在って一度学校から春先に社会見学で水辺の生き物を観に来た事が有る。しかし、一度は学校の帰りに大人が4人くらいで池に電気を流して浮き上がった魚を大量に持って帰る所に出くわしたことが有った。今考えるともの凄く危険な事をしていた訳だ。

 それを暫らく登って行くと左に天疫神社の森が見え、営団入口と云うバス停に着く。この停留所から道を右に入ってしばらく行くと、その当時としては珍しい造成区画整備されたような一角が有って、整然と住宅が並んでいた。ここに住んでいたのが小峰君(東京外大卒・一時期NHK熊本放送部長)だった。で、このバス停の傍に風呂桶屋が在って、天然木の良い匂いをさせながら風呂桶を造っていた。学校の帰りに時折り立ち寄って風呂桶の造り方を見物していた。別に将来への事を考えて職業訓練を少し早めにやっていた訳ではないが、木材の加工方法はここで勉強した。ノコギリの使い方、鉋のかけ方など暇な時にそこの職人さんが丁寧に教えてくれた。時々木端をくれたので大切に持って帰り、我が家にミノや鉋は無かったのでドライバーの大きな奴を木槌で打ちながら木をくりぬいて丸木舟をこしらえた。後に夏休みの宿題に船の模型を出して褒められたのはこの時の経験が生きたのだった。
戦後すぐの附属小学校、小学校は右の黒い3棟並んだ部分のみでその右側の明るい地面が校庭だった。下側の広い部分は中学校の校庭。しかし中学校が北方に移転したためこの広い校庭を小学校が使用する事になった。左側の建物は学校の先生方の官舎と中学校。

新大阪から博多まで新幹線が通じた1975年仕事で訪れた時、メモリアルクロスまで行って附属小学校を撮影したもの。在学していた時から2代目の校舎。


 小文字山のてっぺんに登って撮影した現在の附属小学校と北方から戻ってきた付属中学校。校舎は3代目の校舎。意外に学校という建物は長持ちしないのか?木造の校舎は大正時代のものだったのに50年も持ったのに・・・。

富野エリアもまだ当時は物騒なことが結構起きた。

 学校の裏には訳の分からない悪さをする連中が居て、時折り塀を乗り越えて広い校庭に入り込み、遊んでいる生徒に金品をせびる、あるいはカツアゲの様な事をする事件が起きた。きっと貧乏な家庭の子供たちが附属の生徒の親が裕福だと云う事で確信犯的に狙って来たのだともっぱらの話だった。しかし親が一般サラリーマンの我が家は決して裕福ではなかった為、たまに死んだバッタやコオロギが入っているくらいでポケットの中はいつも空っぽだった。一度しかそういう場面には出遭った事が無かったが、きっと大きな収穫が無かったので一度で止めたのだろう。

 学校のすぐ外は田んぼや畑で遮るものが無い大きな足立山がデーンと迫っていた。朝早くには山から朝霧が結構なスピードで降りてきて、麓に届くか否かという所で消えて行く。それが不思議で早朝のソフトボールのノックの最中、どういう仕掛けでそうなるのだろうと思いながら見とれていた。この頃今でも覚えている一つの記憶が有る。昭和34年の5年生の夏、つまり1959年の夏、校庭のど真ん中で自分は21世紀の最初の日に何処でどうしているだろう?と思ったのだ。つまりその時点で11歳の自分が40年後51歳で迎える21世紀がどんなものだろうかと想像していたのだ。別に映画「宇宙戦争」を観たからではないが、「未来」というモノに非常に興味を持っていたのは間違いない。当時の未来の絵はイラストレーター真鍋博氏の絵に代表されていて大好きだった。空中を高速道路が走り、そのまた上を鉄道が走る立体交差の大都会の絵は幾ら見ても見飽きなかった。しかし中学になって上京し渋谷に行った時に地上をバスや車が走り、国鉄や東横線が高架を走り、さらにその上を地下鉄銀座線が走る様を観て「わー、未来の絵が現実になってる!」と思ったものだった。

未来の乗り物や建物も魅力的だったが、一方で人物の描き方に非常な現代の普通の人間を感じて、全体の絵にウソを感じなかった。

 毎朝霧の降りてくる足立山を見ながら40年先を想像していたかと思うと、夕焼けで真っ赤になった西の空に真っ黒なシルエットでそびえたつ皿倉山のアンテナの本数を数えてみたりもする、落ち着きのない子供だったようだ。通信簿にもそう書いて或る。先生は良く見ていると思う。我が父は「先生など怖いと思うな、普通の人間だし、先生にも親はいるし子供もいる。悩みもあれば酒で憂さを晴らすことだってある・・・。これって小学生の子供にいう事だろうか?こうも言われた。「先生に怒られたら心の中でこう思え!先生と書いてせんせいと読むな、先ず生きている・・と読めばどうってことはない。」このアドバイスはその後非常に役に立った。