2014年11月30日日曜日

番外編「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」京都について考えてみた、その2.

 昨日のブログは意外にも反響が有り、正直驚いている。ブログランキングの「野鳥ジャンル」などで注目記事ランキングの上位に入ったり、「問い合わせ」から、幾つかのご意見を頂き大変恐縮している。クレームは1件、賛同が4件、どちらでもないご意見が1件だった。

 一番感心したのが「イケズ」が京都人の「生活の知恵」だという話。観光客、旅人へ「イケズ」をする事はまず無いという。有るとすれば京都人の資格は無い・・・とまで仰っていた。有る意味少しほっとした。なおかつ、京都で実際に生活してみなければ「イケズ」の神髄は判らないだろう、とも仰っていた。直接的な物言いで、狭い京の街中で喧嘩・トラブルになることを避ける方便だとも教えられた。基本的に氏素性の明らかではない寄せ集めが多い大都市・江戸と、氏素性がハッキリしていて、外来のよそ者・新参者が直ぐに判別できる住人管理がしっかり出来ている京都ではその都市としての生い立ちが全然違う。この本質は今も変わっていないと思う。

 火消しの歴史を見るとよい。真ん中に1本鴨川が流れる狭い盆地の京都は大火になれば全部が灰になる。一方で幾つかの川、堀で構成された江戸は水際で有る程度火は鎮火させられる。江戸の火消しと喧嘩は華!と言われ、享保の改革で将軍様直結の町火消しが誕生、纏を持った派手な火消し集団が有名だ。しかしその構成人員は博徒・やくざも多く、年中喧嘩が絶えなかった。

 一方で京都の火消しは、江戸とは異なり非常に秩序が保たれており、武家火消し、寺社火消し、町火消しの仲も良く、トラブルを避けよう、安寧な生活で有る事こそ大切・・・と江戸のような無駄な争いを避ける風潮があったようだ。それが証拠に幕末までの長き間京都は非常に静かだった。

 要は、こういった京都の歴史と、実際の生活を学んでこそ京都の魅力が理解できると言うものだと感じた。ブログも有る意味新しい世界を開いてくれるきっかけになる意味ではつくづく開設して良かったと思う次第。問い合わせから投書頂いた方々にあらためて感謝したい。






京都はピンキリ。多種多様のレベルの魅力が素晴らしい!国際会議プロデュースの仕事上外国人招待用の下見検分で初めて上がれた粟田山荘。其処には自分とは違う世界の京都が在った。

 このように興味を惹かれ続けている京都だが、幾つか不思議な点を感じている事が有る。たとえば寺や神社なのだが、著名な寺社は全て京都盆地の周りの山沿いに存在している。盆地のど真ん中で観光客が良く行く所と言えば、東寺、平安神宮、護王神社、東本願寺・西本願寺、北の天満宮程度だが、実際はそれ以外にも数多くの寺社が存在する。京都御所の東側に有る寺町通り沿いには沢山の寺が有るが殆ど観光名所にはなっていない。

 これは、明治以降大手のパトロンを失った山際の大きな寺社(特に寺)が観光客の拝観料で賄って行かねばやっていけないのに対して、街中の寺は現役の檀家さんたちの通常業務で経営していけるという事の表れなのか?誰か教えて欲しい。

 桜の時期と紅葉の時期の京都はJR東海のTV・CMの後押しもあって、有名ポイントは超満員の雑踏状態になってしまう。まだ祇園祭の頃のほうが空いて見える程。写真を撮ろうと思っても画面の下半分は人の後頭部が連なっている画像ばかりだ。正直、上野公園の桜でも、幸手の権現堂の堤桜でも同じような画像になりかねない。どうしてそういう事になるのだろう?

 これは日本人特有の「負けず嫌い・優越感競争」が有るといわざるを得ない。「ディズニーランド行った?博覧会行った?ふーんまだなの?私はもう行ったよ!」と仲間に言われたくないため行く・・という愚かなきっかけが殆どの様な気がする。そういう意味からすれば、もう飽和状態の京都は今後何かを考える必要が有るのだろうと思う。

 普通の観光客の集まる所ではない、誰も気が付かない、それで居て京都にしかない佇まいを今後も探しに京へ上りたいと思うこの頃だ。

2014年11月29日土曜日

番外編 「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」 京都について考えてみた。 

Facebook(以下FB)を始めて1年半が経った。しかし年中スマホでFBやメールに対応しながら駅のホームから落ちたり、急に立ち止まって後ろからどやされたり、駅のコンコースを歩きながら歩きスマホ同士で正面衝突したり・・・はしない。携帯電話は音声通話とショートメール機能だけに徹しガラ系を死守し、FBはパソコンでしかしないと決めているから。

京都のテーマなのにいきなり何故FB?何故スマホの話?それは長年京都ファンの私に、改めて京都の事を考えようと思わせてくれたのが、時々FB上で連絡を取り合う北九州・小倉の小学校時代の幼馴染が主宰している京都・奈良好きの写真投稿サイトに入れられた為、昔撮影した京都の画像などを投稿するようになったことがその理由。それに何を隠そう、まだ直接逢った事が無いFB上で知り合った関西在住の京都ファンの御仁との京都談義。彼は大阪の奥座敷の高級住宅地に住んでいる幅広い知識の持ち主で、目から鼻に抜けるような見識で物事を鋭く考察する人物なのだ、どちらかというとロック好きの哲学者+雑学者といった所だろうか?

この御仁が、その昔京都に下宿し生活した経験のある大の京都事情通であり、現在の京都を大変心配されているのだ。「京都はこのままで良いのか?京都は大丈夫なのか?」という訳だ。そのやりとりの中に「イケズ」と言う言葉が出てきた。自分が40年前京都に行った時にされて面くらった意地悪がその「イケズ」だと言う事らしいので興味をひかれ、ちょっと研究してみた。

事の始まりはFBでのこの投稿だった。ある本に『京都では「ぶぶ漬けなど、いかがどすか?」と聞かれたら、「そろそろ帰ってくださいな」という意味だといいます。 ぶぶ漬けとは、お茶漬けのこと。酒呑みにとって、最後に食べるものなので、転じて、そういう意味になったのだと、よく説明されています。さらに、もし本当に食べて帰ったら、もののわからないヤツというか、空気の読めないヤツとされる、といいます。本当でしょうか?』と在りました。その昔1975年頃VANの宣伝部に居た時に京都のVAN・SHOPオーナーの私邸へ案内され、色々話をした後、茶漬けを勧められ、ご馳走になり帰京しました。そうしたらえらい剣幕でVAN京都営業所長から「あんたら、本当に食べて帰ったらしぃな?」と怒られて驚くやら頭に来るやら。そんな裏表のある客扱いするならこちらにも考えが在る!と東京の展示会の時に事の次第を暴露し皆の前で大恥をかかせて返り討ちにしたことがあります。もう今では人種が違うのだからしょうがないとは思いますが、大好きな京都に在って唯一馴染めない点がこの人間の部分です。この件以来今でも初対面の京都の人は簡単に信用しません、相手を視ます。しかし海外からの外人さんにもそうするのだろうか?」と書いた。

そうしたらそういう意地悪を現地では「イケズ」と言うことを教わった。それで京都の「イケズ」の背景に関してちょっと考えてみた。自分が思うに意地悪と悪戯は違う。悪戯は戯れ、ふざけの類だが、相手が地元の風習を知らないことを判っていて、罠にかけて恥をかかせ、馬鹿にし、影で笑う意地悪は卑怯以外の何物でもない。勿論「イケズ」には色々な種類が存在しT・P・Oによって使い分けるのだろうとは思うが・・・。

住んだ事も無く、観光客としての存在でしかない自分にとってはあまりに大きな、それで居て他人事の「京都」だが、遡って整理してみたらまんざら縁が無い訳でもなかった。少しはかたっても(加たる=熊本弁で参加するという意味)良いのではないかと思った。まんざら・・・というのは、我が先祖=常陸の国・麻生藩一万五千石新庄家の家系に岩倉具視卿の名が在る事、我が父新庄一郎(時が時なら野球好きにはたまらない名前?)が京都帝国大学・理学部応用化学科卒で南禅寺湯豆腐屋の二階に下宿していた事、またその息子の私が現役で京都大学工学部建築学科を受けて落ちた事など、遠からぬ縁が在ったと言うことを指している。

一方で自分自身は1963年の中学校修学旅行以来、46回の京都訪問を重ね、観光客としては随分ベテランの域に達した感がある。人ごみが大嫌いな性格で、あまり観光客が行かない場所への訪問が多く、雑誌の京都特集や観光ガイドとは違う季節、場所を数多く観て来た自負は有る。

北九州小倉、熊本の八代で小学校~中学校時代を過ごし、中二から今まで東京で生活してきた自分にとって国内の旅行訪問先は京都が一番多い。熊本県庁の依頼や八代市役所の依頼業務、さらにはヤマセミの撮影をし始めた2006年以降は勿論熊本訪問(計70回以上)が多いが、単純観光旅行となると京都が圧倒的に多い。要するにそれだけ京都という場所には自分を惹きつける何かが沢山存在するわけだ。

其処で色々過去の京都に関する自分のデータを調べてみた。1972年晩秋、横浜国大教育学部・美術専攻科に私が在籍中、京都に日本美術史の単位習得のための合宿があった。その為、暫く京都に滞在した際に作成した京都に関しての資料が出てきた。以下はまったくをもって断片的な学問による勝手な自分の解釈・印象・思い込みなのだが、自分の京都に関する頭の中がこれによって出来上がっていることを思えば、非常に重要な内容と言える。

    京都庶民の意識・生活の変遷。
平安京の頃から明治維新まで天皇が居住していた京都こそ日本の中心であり、全国から京へ来ることを「上る」と言わさしめ、京都在住の庶民も長い事「日本で一番=偉いのだ」という京の都で生活している誇りプライドが在ったと思う。当然モノに対する考え方、京都以外の者に対する見方は上から目線になる。これは現在東京が国の首都で、「上京」という言葉が存在するワリには東京在住者自身にその誇りプライドなどほとんど無く、むしろ地方在住者が「東京」に対し強く憧れ意識を持っている状況とはいささか趣を異にしている。何故なら50年ほど前から急増した東京在住者は全国からの寄せ集めの移住者であり、単なる田舎者の集積地になっているからだろうとは思う。断っておくが此処で言う「田舎者」という言葉は決して差別ではなく、上から目線の蔑んだ物言いではない。全国各地から人が集まる、ある意味インターナショナルな首都圏で、其処での一般ルール・秩序・常識を守ろうとせず、強引に自分の育ったエリアの常識と方言で中央突破しようとする者に対する戒めであり、アメリカにもイギリスにも存在する言い回しである事を指している。
 
    京都の公家・坊主・神官など特殊階級の生活が主流だった頃。
平安時代まで政治・経済を司り、荘園からの上がりで豊かな生活を送っていた公家は、宗教関連にも多額な寄付を行い、政事中心として宗教と政治が密接に繋がった特殊社会、身分制度のかっちりとしたある意味秩序の確立がなされていた。日ごろ禁欲・精進の坊主達も月に一度の解禁日には山から降りてきて色街で女を抱き、動物を食らって「生臭坊主」となる為、花街も料亭も潤った訳だ。全てこれらの財源が政治と結びついたお布施・寄贈にあることは勿論。

    武士の時代(鎌倉時代以降・特に江戸時代)の京都の事情
それが、平清盛の武士の地位向上、源頼朝が鎌倉幕府を開いた結果、世の中は武士が主導権を握る世界になった。その結果、公家達の収入源であった荘園なども武力で武士に奪われるなどして、公家ならびに宗教勢力は順次力を失う事になる。その後更に織田信長など過激派の台頭で比叡山の僧兵・一向宗など宗教武装集団も消滅し、宗教が政治へ口出しできなくなっていく。当然公家は残った荘園からの上がり、花、お茶、香、書、絵、その他伝統文化行事・習い事の免許授与、武家への位授与、武家との婚姻による援助などで武家に媚び諂いながら細々生きる事になり、史上最も恵まれない長い時期を送ることになる。
 
    幕末の京都
この長き武家社会(=江戸の徳川幕府)中心の世の中が、薩長土肥の維新勢力の台頭で再び天皇中心=公家中心の世の中になり、江戸に奪われていた京のNo.1の地位が復活しそうだという事で、大いに京の街は盛り上がった。これが庶民から世直しに繋がる、薩摩の陰謀とも言われた「ええじゃないか、ええじゃないか」の騒ぎに繋がる。幕末・明治維新の原動力は単に外様勢力の政治的動きだけではなく、京都市民が再び「一番」の誇りとプライドを取り戻せそうだ!という事で、新撰組より薩長土肥の浪人たちを援助した庶民パワーの底力によるところも大きなものがある。

    維新後の京都
しかし、実際に明治維新が成ってみると、国内の主導的パワーは薩長土肥の褒賞・主導権争いの内部抗争に移り、なおかつ東京遷都という予想外の事になってしまう。これを機に皇室御用達の老舗黒川虎屋なども天皇に付いて一緒に江戸に行ってしまうなど、再び京都が全国の中心になるはずだった京都庶民は当てが外れてしまった。一旦は皆で待ち望んだ首都復活の夢が崩れ去ったこの時、京都で生活を営む全ての人々が、東京(江戸)という「都市・人間」を心の底で怨んだのだと思う。これは名刹寺院・神社・有名茶屋・菓子処・呉服処など全ての産業も同じ思いであったと推察される。
 これらの苦々しい経験が京都人のモノの考え方、人との接し方に独特の裏表、相手からのリアクションを眼中に入れない「イケズ」を生み出したのかどうかは判らない。しかし平安時代など京都が全盛の時代から庶民にそのような「イケズな癖・ライフスタイル」が在ったという話は聞いた事がない。維新後、幕末のある意味中心舞台だった京都が、人心をまとめ協力姿勢を得られねば就任できない地位である首相を3人しか輩出していない事実、なおかつそのうち2名は西園寺氏(公家)東久邇氏(皇族)出身であり、そうではない芦田氏はたった7ヶ月しか就任していない。それ以外もある意味日本の中心都市の割には京都出身の政治家は決して多くない。最近では野中広務、前原誠司程度が耳に残るが、決して彼らを崇拝し後に付いて行こうとする者は居らず、孤高の一匹狼的動きしか出来ていない。この辺りに京都人の独特のスタイルが出てしまっているような気もする。断っておくが、あくまでこれは個人的見解であることは勿論だ。

一方でこういう話もある。

    京都人独特の嫌らしい習慣の「イケズ」を象徴するといわれる「合わずの間の屏風絵」の話
 山科の天台宗五箇室門跡・毘沙門堂に通常は”梅にウグイス、竹にスズメ” の組み合わせで描くはずのところを、梅に山鳥、竹にヒヨドリが描かれた襖のある客間が存在していて、ここに通された客は「木に鳥が合っていない」 「鳥が合わない」→ 「とりあわない」・・・ウチはあんたには取り合いません、お帰りくださいというイケズなんだそうだ。これに気づかない場合、教養がないヤツだと馬鹿にされるのだとか・・・。非常に嫌らしい陰湿さを感ずる。

 しかし、この話などは、実は巷の街雀が噂話としてまことしやかに言い伝える、いわば昔の都市伝説に近いと思う。何故なら当の毘沙門堂のHPには一言もこの事が述べられていない。大体狩野派の著名な絵描きに、客を追い返すための屏風絵をわざわざ描かせたりするだろうか?画家は本来自分が納得したものしか描かない。もし京都人がその「イケズ」を良しとするのであれば、他にも同類が在ってしかるべきものだが一つも無いようだ。


 大体、花が咲いている梅に本来藪の中で生活するウグイスは来ない!頻繁に来るのは梅の花の蜜を求めるメジロであって、メジロとウグイスの判別も出来ない無知な人間にこのような問答のような屏風を見せて何が判るものか。それに屏風を良く見ると梅ノ木そのものにはちゃんと別の小鳥が描かれているではないか。山鳥が梅に留まっている訳ではないのだ。よく調べもせず「~らしいで。」と人の噂を鵜呑みにして言い伝える事自体PRになると踏んで、噂を野放しにする事こそが逆に京都人の「イケズ」だと思うが如何だろう?

      鯖寿司の「いづう」での実話
 押し寿司が大好物の私は祇園の小路にある「いづう」の鯖寿司・小鯛雀寿司の盛り合わせが好きで、1972年以来、鍵善義房と此処だけは必ず通ったものだ。それが在る時をもって店では食べなくなった。
鯖寿司のいづう

鍵善義房のくずきり、42年間食べ続けている。

 以前は帳場に凛とした御婆さんが座っていたのだが、1995年頃から若いお兄さんが座る時があった。在る時、観光客が「いづう」と「いづ重」の関連をこの兄さんに質問した所、大声で自分のお店「いづう」の自慢を始めた。
 
店内の客人たちにもPRするつもりなのだろうか、のれん分けした「いづ重」の悪口・罵詈雑言を大きな声で立て並べたのだ。その上から目線的な発言、食べさせてやっている~的な無礼な言い回し、決して安くは無い押し寿司がとても不味くなった。

 食事をしている他の客も皆シーンと黙って白けてしまい、せっかくの老舗らしい食事の場が味気ないものになってしまった。さすがにこちらも腹が立ち、意を決して帳場に赴きこう言った。「今まで親子3代贔屓にしてきたが今日限りで止める。京の食事処は客が美味しく食べる環境には気を使うつもりは無いらしい。残念だ、いつも座っていたおばあさんとはあまりに違うな君は。「いづう」さんもそんなに長くはないね?」と言って叱った。
 そうしたら客の一人が拍手をし始め、狭い店内の皆も拍手をし始めてしまった。なおかつ、口を尖らせて反論しようとするお兄さんが顔を真っ赤にして黙る一言が客の子供の口から出た。「お母さん!いづ重の鮎寿司も美味しかったよね?」これで「いづう」の帳場担当は陥落。
いづうの鯖と小鯛雀寿司の盛り合わせ。

 要は、京都の仕事人は自分に、あるいは暖簾に余程の自信と誇り・プライドが在るのだろう。ただその表現の仕方が「上から目線」になってしまう井の中の蛙なのだと思う。悪く言えば世間知らず、お山の大将。誇りは無くしても困るのだが、客商売で客の機嫌を損じてしまっては逆効果ではないだろうか?

 その点あぶらとり紙の「よーじや」さんや「イノダコーヒ」さんは同じ京都人でありながら、上手い商い方法をしているような気がする。私は決して一部を見ただけで京都全体を評価したり決め付けたりはしないが、徐々に京都も変わっていくのだろう。
あぶらとり紙のよーじや

イノダコーヒ。珈琲をコーヒーと伸ばさない。

 「イケズ」がどんなものだか、まだあまり詳しく知らないが、別に知りたいとも思わないし、受け入れようとも思わない。ただ、嫌な気分にされた場合は倍にして返そうとは思う。しかし「イケズ」を知らなくても自分にとっての京都は昔のままで充分な魅力を持っているのだから。

地元京都にお住まいの方や我が故郷と思っている方にとっては、このブログ内容は「何だこいつは?出鱈目を書きやがって頭にくる・・・。」と異論反論で腹を立てる内容になるかもしれないが、関東からの一観光客の戯言と思い頂ければと思う。自分はそうは思わない・・は当然あると思う。そういう場合は是非ブログの http://yamasemi.org/contact_us.html からお願いしたい。公共の場のFB上に書かれても対応はしない。


 

2014年11月28日金曜日

八代妙見祭の飾馬を見物! I saw the sights of decorated horse run at Yatsushiro Myoken a festival in Kumamoto Pref.

 不知火海、つまり八代海沿岸の探鳥の途中、八代妙見祭のほんの一部飾馬走を八代駅前広場で見物した。5~6年程前にも球磨川旅館の二階から見せてもらって撮影はしたが、今回はグッと規模も大きくなって、特設スタンドや囲いが出来た駅前ロータリーでの展開だった。

 その日11月23日(日)の夕刻の便で帰京しなければいけないため、砥崎の河原までは行けないが今年は八代駅前でパフォーマンスが観られて祭り自体の発展と人気の高まりを感じる事ができて嬉しかった。国道3号線が超渋滞だったが、中学生時代を送った八代市内、裏道をガンガン飛ばして駅前正面の通りのすぐ裏手に車を停める事ができた。

 10頭ほどの飾馬が勢子に追われて見事な駆けっぷりを披露していたが、そのうち馬丁だか勢子の一人が馬の下敷きになってしまう瞬間を偶然撮影してしまった。馬は怖い、重たい!救急搬送された御仁の無事を祈るばかりだった。来年は是非砥崎の河原迄行って一部始終を観てみたいと思う。
背景の大きな壁は我が父が1960年10月から1970年頃まで赴任した日本製紙(旧十条製紙)の新しい設備で、2003年頃までは何も描かれていなかった。八代の友人に「何か八代らしいものを描けば良いのにね?」と言っていたら、妙見祭の告知になった。相当大きな効果を上げていると思う。日本製紙も八代市も良い事をしている。

まさに、八代駅前広場なのだ、こういう祭りは全国何処を探してもあまり無い。

今年は有料観客席が出来ていた。果たしてペイしただろうか?

飾馬のチームが替わるごとに紅白の餅が撒かれ、我先に貰おうと人が飛び跳ねる!

重工業都市八代市らしい背景で祭りは進行した。

その中で、赤い法被を着た勢子?馬丁の一人が馬の勢いが止まらず・・。

馬の正面で後ろ向きに転んで

下敷きになってしまった。

ピクリとも動かない!馬の脚でも乗っかったらまず助からない。

駆け寄る警察官達も右往左往状態、救急搬送されていったが無事だろうか?

こういった仮設案内所が出来ていた。八代市も頑張っているようだ。


球磨川で一画面に6種の野鳥! I took several photos of 6 different kind of wild-birds meeting.

 今日の画像は自分でも滅多に撮影できないシーンのご紹介。一画面に6種類の野鳥を写せたもの。色々な水鳥が集う佐賀の大授搦でさえ一画面に6種類の野鳥を入れ込んでの撮影は滅多に出来るものではない。あの江津湖ですら3~4種が限界だった。

 何故そういう撮影を出来たのかは、野鳥愛好家で在ればすぐに判ろう、此処ではその理由は明かさないでクイズとしておこうと思う。別に場所を特定されそうで嫌だとか、愛鳥家に良く在りがちな独占欲ではない。球磨川流域には幾らでもこの手の場所はあある。人吉市内の球磨川土手・堤防延べ10kmを、注意深く野鳥観察しながら歩いてみれば誰でも容易に発見できよう。
アオサギ、ダイサギ、コサギ、カワウ、ヒドリガモ、それに竹竿の上から見下ろすヤマセミ。ちょっとした野鳥動物園といった感じ?勿論人の姿を観れば蜘蛛の子を散らすように逃げてしまう。

時にはヒドリガモ、ハシビロガモ、マガモ、カルガモの大集団に囲まれる。

ヤマセミはこの場所での採餌は主にホバリングで行う。ホバリングを見下ろせる数少ない場所と言ってよい。

ホバリングから採餌ダイブの一部始終を観察できる。ただ、タイミング的にほとんどが人吉独特の濃い朝霧の中での観察になるのはやむをえない。











2014年11月27日木曜日

人吉盆地、野鳥散策レポート。  This is report of wild-bird at Asagiri town of Hitoyoshi basin area.

 本来は雨の予報だった11月21日(金)タゲリの姿を求めて人吉盆地を奥へと進んだが、とうとう出遭えずじまいだった。事情通からの飛来情報を基本に探鳥するのは効率は良いが、それに慣れてしまうと野鳥の生態を全然勉強しなくなってしまうので、なるべく自分の足で「発見」を求めてさまよう事に努力している。

 今年はいつもの年とどこか違うという事情通の感想を頂いた。人吉エリアではノゴマの通過が多いようだとか、相変わらずウグイスが11月だというのに囀っているとか、やはり定点観察をされている方のエリア情報は非常に貴重だ。

 ほんの1週間の滞在だが、自分なりの感覚から言うと、今まで5年間続けて来ている11月の人吉訪問ではカモ類が今年ほど多い年は無かったように感ずる。これはあくまで直感的なもので正確にカウントしたわけではないので念のため。

 とにかく東免田あたりから球磨川土手沿いに球磨川本流を下って人吉に戻ってきた。途中3箇所でヤマセミに出遭え、本流での繁殖が順調だという事を確認した。
当の昔に稲刈りの終わった田ではまさしくタヒバリが無数採餌していた。

カワラヒワはその名の通り球磨川の河原には何処にでもいた。

まとまって落穂ひろいをしている所を幾度も撮影できた。

途中の堰堤の下、複雑な岩が連なる奇岩川床エリアでハクセキレイとイカルチドリ

その先の右岸からジーットこちらを観察中のヤマセミ♀。

昔の国鉄湯の前線、現在は球磨川鉄道、かっこよい1両走行。



2014年11月26日水曜日

カワガラスを球磨川に近い谷間の清流で観察する。 I observe a Brown dipper in the clear stream of the gorge.

 カワガラスという野鳥は八ヶ岳山麓や奥日光で見かけたのみで、今まであまり気にしない野鳥の一つだったが、熊本でヤマセミを観察するようになって、そのほとんどの場所にカワセミと同じ比率でカワガラスが生息している事に気が付き興味を持った。

 基本的に浅い清流で採餌しながら上流へ進むスタイルを一番よく見かける。玉砂利のような川底、砂防ダムの付近で頻繁に見かける。たぶん砂防ダムの水の落ちる滝の裏側に入っていく事が多いので、その辺りに営巣しているのではないだろうかと思う。

 今回撮影した個体の鳴き声が、ガイド本や図鑑に出ているピッピッという地鳴きではなく。ジェッ、ジェッという濁った鳴き声で走り回っていたが風邪でも引いたのだろうか?しかし囀り声は他の鳥と思うほど綺麗でしばらく聴き惚れてしまった。

 今回は約30分間目の前で頻繁に動き回る姿を観察できたのだが、飛翔シーンやつがいで居るシーン、川の中のゴミ掃除?(実際は採餌行動と思われる)など数々のシーを収録できた。
ジェッ!ジェッ!と鳴きながら走り回っていたカワガラス。警戒心は非常に強いようだ。

砂防ダムの堰堤で紅葉木の葉を咥え、

ポイッ!と放り出した。

感心感心、川の掃除かと思いきや、葉の裏の川虫などを探しているようだ。

このつがいは非常に仲良く、常にあまり離れないで行動を共にしていた。

一羽が上流へ飛び去ると

直ぐに後を追って相方も飛んでいった。

時々白目になるが、これはまぶたを閉じると白くなるらしい、決してウルトラマンごっこをやっているわけではないらしい。

基本的には熊本県内であればどの清流にも居る。今まで観察した場所は、菊池渓谷、氷川上流部、東陽町奥の水無し川、球磨川本流、胸川上流、胸川・球磨川合流部、川辺川、万江川など。
これ以外、上高地、奥日光、八ヶ岳、などなど。








2014年11月25日火曜日

久しぶりの八代海・鳥見レポート・クロツラヘラサギ その2。 This is the latest report of the Black-faced spoonbill at the sea of Yatsushiro. 

 八代駅前の妙見祭・飾馬奉納走りのパフォーマンスを観た後、渋滞の国道3号線を避けて、八代二中正門を抜けて臨港線から広域農道338号で鏡川河口部へ移動した。最近嬉しい事に八代妙見祭は大きくなって観客も増えて来ていると思う。
 熊本県内では有名な八代の全国花火大会は毎年日本中至る所600箇所以上で似たようなものが行われており、大曲や長岡、隅田川などと違って全国的に視れば知名度はほとんど無いが、八代妙見祭だけは唯一無二、此処だけにしかないものだから、もっとうまくコントロールすれば大きく化ける可能性はかなり高い確率で在ると思う。

 ただそれには、外部から観に来る者たちの意見・イメージ・印象を学び、他の著名な祭りと比較し客さばき・告知・宣伝などをプロの手で改良する必要が有ると思われる。くまモンのようにブームになるキャラクター盛り上がり方とは違い、歴史のある伝統芸能・祭りは中味があるものだけに知恵を集めてじっくりと行うと良い結果が出るのではないだろうか?

 自分が育った昭和36年頃の八代二中では冬のウサギ狩りや相撲大会があった。それは自然保護、男女平等教育などの手前絶滅した行事だが、当時から八代妙見祭だけは子供心にクリスマスや正月以上にウキウキしたものだ。何とかこの祭りを数少ない工業都市八代市の柱にしたいと願うばかりだ。 
参照=http://yamasemiweb.blogspot.jp/2014/01/my-private-history-vol-3-relationships.html

さて、話は戻って鏡川河口部のクロツラヘラサギ、今年は飛来数が増えていると思った。NHKで放映された韓国のクロツラヘラサギ保護・繁殖努力の効果なのだろう。これらにも協力されている日本野鳥の会熊本県支部長・高野先生の努力の賜物でもあろう、まったく頭が下がる思いだ。

 そのクロツラヘラサギ、撮影した写真をカウントすると到着した時に飛び立った4羽を加えると61羽になるが、休んで顔が見えない群れの中には昨年同様普通のヘラサギが混じっていたりする可能性もあるし、更に到着前に飛び立った個体もある可能性があるので、実際数はもっと多いような気もする。

いつもの暴風柵の上に群れて羽根を休めていた。

右岸の堤防道路からも近所の親子と思しき3人が見学に着ていた。幸運な子供達だ。

何故か若鳥2羽が内陸方面へ飛んでいった、何処へ行くつもりだろう?

・・・と思っていたら15分ほどして6羽のヒドリガモに連れられて一緒に海の方へ戻ってきた。

これはほぼ成鳥と思われるが翼端にかすかに黒い部分が残る。

こちらはまだ翼端が黒いので若鳥と思われる。上とは別の個体。

一斉に全部が飛び立つわけではなく、大体10羽づつの小群れで海へ飛んでいった。

暫くして河口部へ行って見たら北の方角の砂洲に集まって採餌していたようだ。

その後更に数羽の群れで南下して行ったグループも観察できた。

北の砂洲には行かず直接南西方向へ行った群れもあった、背景は雲仙普賢岳。