筆者は生涯都内で一番足繁く通う場所としては明治神宮、上野公園が一番多いのではないだろうかと思う。
それぞれに大きな理由は存在する。上野公園、地下鉄大江戸線新御徒町駅近くと上野入谷交差点にそれぞれ非常に近い友が居るからだ。しかし、それだけではなくアメ横、吉池(魚の百貨店=50年前直江津だか国鉄高田駅の駅前に在った店舗外壁にこう書いてあった)、上野松坂屋といった良い食材の宝庫があるというのも理由の一つ。
筆者のデイパックの底には常時保冷袋2枚、カメラメーカーのトートバッグがそれぞれ折りたたまれて入っている。刺身だろうが冷凍物だろうが、三鷹に着くまで多少寄り道しても融けた事は無い。
其の多少寄り道というのが不忍池、明治神宮や目黒の自然教育園である事は決して少なくない。勿論目的は野鳥中心、自然界の動植物だ。都心を徘徊していて季節の移ろいをこれほど如実に感じられる場所はそう多くない。普段2~3日ランニングや散策で訪れる野川流域の緑地帯があってもなおこういった環境を求める「本能」はきっと体質が原始的にできているに違いないと思っている。
ワクチンやマスクの効果などまるで関係なく、最近自然に急激に治まってきているコロナウイルスだが、これに万一感染し、都心の隔離ホテルに強制的に缶詰めにでもされたら、筆者はまちがいなく2日で死んでしまうだろう。が、決してその場合はコロナ死ではない!
週に2~3日、数時間以上は身近な自然の緑(附近の小さな都市計画に沿ってできた人造緑地などではなく)の中に身を置かないと発狂しそうになる筆者なので、こういった徘徊行動は理に適っている。父の職業柄、地方で育った筆者は大都会東京の盛り場がどうしても苦手。人が多いのが嫌いなのだ。だから新宿・池袋・渋谷などの盛り場、人がごみごみした附近で日常の生活を送れる人は大変尊敬している。
決してこれは繁華街周辺生活者への嫌味でも何でもなく、人間それぞれ育った環境で、好みの落ち着く環境というものを持っていると言いたいのだ。野鳥が塒(ねぐら=毎晩夜を明かす場所、寝床)にする場所や、野良猫が居つく場所みたいなものだろうか?
こういった中、台風15号(ギリギリ規格上台風だが規模は普通の熱低)の雨が予想される中、上野公園の東京都美術館へ集合した。集合したのは筆者が卒業した横浜国立大学教育学部美術専攻科の級友だ。
同期は決して多くない。正確に言えば筆者の所属したクラスはたった7名しかいない。下手をすれば大きな大学のゼミより少ない人数だろう。
一応中高教員養成課程科なのだが教師に成ったものは一人もいなかったように思う。当時の東京教育大芸術学部志望者(自分がそうだった)のほとんどが、東大ゲバゲバのあおりを食って入試を中止した結果、横国大の教育学部美術へ流れたためと聞いた(級友に)。
しかしそのほとんどメンバーは何らかの領域での現役作家さんだ。頻度や密度は千差万別にしろ、創作活動に励んでいる団塊世代だ。
で、その中で一番世界中(ユーラシア大陸が多いようだが)を放浪して回った男が、力強い作品で賞を獲ったというので、開催中の東京都美術館の展覧会に集合した。
7点の作品群。右端が佐藤完兒郎氏
この佐藤完兒郎氏、ネパール辺りの子供たちを撮影した写真集でも「第1回日本全国自費出版大賞」を受賞している凄い人。もっともこれは主催者とそのバックに居るメディア新聞社に騙されて出版費用として一千万円近く出費させられたご褒美だとボヤいてはいたが・・。
いずれにせよ、「物を作り出す=創作する」作家、英語で言えばアーティスト、クリエーター、ミュージシャン、色々あろうが、意図、自分の思いを目的を持って何らかの表現方法で作品化するエネルギーは70歳を越えても全然衰えないのを感じた。
これは芸術作品、たとえそれが記録作品や音楽であっても、ただ鑑賞するだけで創り出す側に立って考えられない者には理解できない世界だと思う。かって岡本太郎さんが「芸術は爆発だ!」や「瓶の底に顔があったって良いじゃないか!」と言ったのを単なる奇をてらった「宣伝文句」としてしか感じなかった人々と違って、創作する作家たちが皆大なり小なり感じている事を知らない人は多いと思う。
1970年代、蔵王のスキー場でお会いした際この辺りを熱を持って話されているのを横で聴いていたのを上野の美術館の広い展示室で想い出した。
カザマスキーで作られた岡本太郎氏意匠のスキー板。
岡本太郎さんの事は1970年大阪万博・太陽の塔や東京青山通り「こどもの城」前の「子供の樹」あるいは渋谷駅の井の頭線からスクランブルスクエアへの通路壁の大作で良く知られているが、実はスキー板もデザインされている。
モノを創る側、あるいは音楽を演奏するロックバンドの演奏者、もちろんクラシックやジャズの演奏家。夢中になって無我の境地で良い演奏をしようとする者達。聴く方は演奏家=音楽家、芸術家、アーティストとして良い演奏かなど、聴きながら自分勝手にそれぞれ評価するだろうが、演奏する側の気持ち、気の入れ方、歓びがどうであるかは全く判るまい?
良くある駅ピアノ、TVでこれを観ているととても良く判る。聴衆など一人も居なくても良いのだ、ピアノを弾くことで自分が満足するのだから・・。
筆者は決して有能なミュージシャンでは無かったが、高校時代のビートルズバンド(ベースギター、ピアノ)、50歳頃のベンチャーズコピーバンド(リードギター)、いずれも一生懸命やって、最終的にごくごく仲間内の演奏会では目をつぶったまま何曲も演奏できた。指の演奏ダコなど幾度出来た事か。
細かい話をすれば、ベンチャーズの「十番街の殺人」の主旋律の約半分弱は実はギターではなくキーボードだ。今ならすべてパソコン楽器で全ての音を出せようが、1963年頃のプロ、2000年当時のアマチュアバンドはキーボードだった。アマチュアバンドの自分たちはどうやってキーボード演奏者を手配しようか、大いに揉めたのを覚えている。これは聴く側にとっては判らない、知らない部分だろう。
夢中で創作・夢中で演奏、これは全てプロだろうがアマだろうが「芸術家=アーティスト」特有の行動意識だと言って良いはずだ。
聴く方の側、観る方の側などまるで意識などせず、自分の思いを成就させる、自分の納得のいく創作活動が出来ればアーティストとしての達成感は充分に味わえるのだ。ある意味聴衆や鑑賞側の評価、受け取りなどどうでも良い・・。創作活動でお金を得ようとしないアマであればなおさらだ。
これが創作活動をする側の「芸術の意識、アーティストの境地」だろうと思う。これを知るのは「創り出す側」の人間にしか絶対出来ない事だ。
今回の級友が受賞した展覧会を見て、今までいい加減に納得していた「創り出す側とそれを鑑賞する側の大きな違い」が何だかはっきりわかった気がした。
当然、いつもの通りコンデジを携えての徘徊なので、目に付いた被写体は皆撮影しておいた。
上野公園の大道芸
刀の刃の上に独楽!
眼が緑色のカワウ、距離3m 不忍池
曼殊沙華にカラスアゲハ