2014年3月31日月曜日

川辺川8mダイブのヤマセミ採餌成功連続画像。 I took photos of Crested kingfisher's dive and catch big fish.

 明日早朝早立ちの為、早めのブログ更新としたい。今日の画像は川辺川でのヤマセミ雌の中程度ダイビングから大型の餌を採餌する過程の連続画像。ヤマセミのダイブからの採餌は撮れそうでなかなか難しいシークエンスだ。あらかじめヤマセミの生態を良く観察して、採餌の態勢なのか否か、眼で魚を追っているか否か、いつも採餌する場所か否か等を総合的に判断して望遠レンズでダイブを追えるような姿勢を取らなければならない。

 手前にダイブされた場合はまずピントは終盤でずれてしまう。CANONの場合9点ポイントAFセンサーでも、そのサービスエリア9点の範囲以内にヤマセミのダイブ中の姿を入れ続けるのは至難の業だ。AIサーボ追従でもまず追い切れない。その場合は一点フォーカスでしっかりピンを取っておいてワンショット(=固定ピント)でなるべく被写界深度を深める工夫をするしかないだろう。

 毎回が練習の様なものだし、毎回何かしら異なる動作や、今まで視た事のない生態を視られるので本当にヤマセミの生態観察は飽きが来ない。



 今回はいつもより少し大きめのデータを提供する。途中で一旦ブレーキを掛けているのがお判りだろうか?秒間コマ数は最高6コマだから等間隔でダイブしているはずなのに3コマ目と4コマ目の間が広くなっている。此処でスピードが変化している事を表している。

 明日から遠出をするので、ブログ更新が多少不定期になる事をお断りしておく。是非ともご容赦願いたい。

人吉市のど真ん中でヤマセミ。 Some of Crested Kingfisher lives always in a middle of the town Hitoyoshi -city.

 人吉に行けばヤマセミに出遭えるというレポートをこの1年間続けてきたが、勿論時間と場所を選ぶ事は大事な事だ。SL人吉号の様にカレンダー通りに決められた時間に人吉駅に到着する様な訳にはいかない。特にここ数日降った雨で球磨川本流が濁っている場合などは本流でもあるポイントに行かねば出遭えない。なおかつそのポイントは長年色々な気象状況下でのヤマセミの生態を観察していなければ判らない。

 かく云う私が一番最初に人吉でヤマセミを偶然ではなく見つけて撮影できたのは、泊まった老舗旅館のフロントで貰った1枚の「人吉の球磨川流域・野鳥マップ」を頼りに足で稼いで探したのだった。何処に行けば観られるというアドバイスはこの時は誰にも教わらなかった。ホテルのフロントでヤマセミの写真を撮りたくて来たのだと告げると、真面目に「セミですか?いくら南九州でんまだ4月では蝉には早かですもんねーお客さん」と言われたのだった。

 それから4年が経った。今では年毎に代わるヤマセミの行動エリアを素早く見つけて今までには無いアングルで人吉でしか撮れない山奥の希少野鳥ヤマセミを撮影できている。今回はその中でも街中で人間と共創しながら生息する姿をご紹介。国交省土木事務所、川魚漁師、野鳥の会のメンバーなどの努力で人吉エリアでは減少しないで済んでいるヤマセミの姿を観て頂けると嬉しい。

川を渡っている高圧電線や架線上で見かける事も多いが長く居ても15分程度。

球磨川本流の土手は人が周りに居ない場合に限られるがチャンスは非常に少ない。

本流に流れ込む小さな支流に在る樋門上は意外にお気に入りの場所らしい。

車がすぐ後ろを通っても全然気にしない。他の土地では考えられない風景。

皇族様も泊まる老舗旅館を背景に悠然と飛ぶヤマセミ

同じように他の温泉旅館の前も飛ぶ事に成る。



2014年3月30日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #28.」 1963年の関西修学旅行、覚えている限りの記憶。

 修学旅行専用列車「ひので号」が朝8時20分に品川駅のホームを出て、まず最初にすれ違った目ぼしい列車は自分にとって非常に大きな存在の「寝台特急はやぶさ」、客車のブルートレインと同じに塗装されたEF58型に牽引され大磯辺りですれ違った。次に印象に残ったのは上りの第一こだまだ。まだ新幹線開業1年前の1963年は「こだま」という特急は在来線で151系電車で有名だった。映画「続・三丁目の夕日」にも散々出てくるビジネス特急だ。在来線時代は上りにも下りにも「第1こだま、第2こだま」が存在し、「第1つばめ、第2つばめ」も在った。したがって東海道本線上は特急列車だらけだった訳だ。画像では特急つばめが撮影されている。

ブルーのEF58電気機関車に牽かれた寝台特急「はやぶさ」

上りのビジネス特急「つばめ1号」

撮影したカメラはこれだから、良く撮れたものだと感心する。カールツァイス・スーパーイコンタ

 東海道線上をほぼ品川から静岡辺りまで先頭の窓ガラスから前を見ながら撮影までしたのはこの時が最初で最後だろう、この先も有り得ない話だ。夕方京都に着くまでの間、弁当はどうしたのだろう?まったく記憶が無い。当時の写真を視る限り座席に座っているのもあるから景色も観たのだろう。
「ひので号」の車内、どうやら海苔巻きの様なものを頬張っているから弁当支給だったのだろう。

 一通りの修学旅行で悪戯は数限りない程やった。まずは宿での大騒ぎ。中庭の池を挟んでコの字になった2階建ての和風旅館だったが、池を挟んで向こう側の部屋とまくら投げが始まったのは夕方暗くなってからだった。不思議に池に落ちた枕は1個も無かったが、障子が1枚破損して使い物にならなかった。

 次は各部屋に運ばれてきた一人一人に一膳ずつあてがわれた御膳だ。食事が終わって仲居さんというか配膳係が下げに来る前にこれを天井まで積み上げた。幾つ積み上がったか定かでは無いが最後の一個は一人が肩車をして背の低い者を乗せ、そいつが天井を少し上に押し上げ差し込んでしまったから大変だった。御膳の柱はビクともしない。その後は食後の自由時間で皆夜の京の街に出てしまったから後はどうなったか全然記憶にない。担任の佐藤清は相当宿から怒られたろう。その後Bクラスの皆に辛く当たったのはこの時の事が原因かもしれない。

これはGoogleフリー画像による別のものだが、こう云う感じの一人膳を天井まで積み上げた。

 京都の夜での自由行動はその行動範囲を事前にきつく説明され、範囲が限られていた。新京極と六角通りに面した宿舎「松井別館」の間の往復だけだった。今でも賑やかな新京極にはその当時ストリップ劇場があった。もちろん生徒は立ち入り禁止だったが、何とかしてもぐりこんだのは当然の事だった。
  
真っ暗な中で半分破れかけたスピーカーからこれ以上歪んだ音は無いという酷い音声で流れる曲をバックに踊り子が前へ進んだり後ろへ下がったりするばかりで一体何が面白いのか・・・と思っていたら見廻りの先生に見つかってしまった。「こういう所では教師も生徒も関係ないですよ」とは言ってはみたが全く通じなかった。これからだという時につまみ出された恨みは未だに消えていない。

 宿に帰ってからも悪戯は続いた。就寝・消灯時間になっても勿論中学生の夜話は尽きない。布団が空になった押入れの中に入って隣との仕切り板を外して隣の部屋に忍び込んで帰ってこない奴とか、コの字の対岸の他クラスまで遠征して帰ってこない奴とか居た。暗闇の中、時折り女子の部屋から「キャーッ!」という声がして誰かが何かをやらかした事が想像できる楽しい夜だった。午前零時を回ってもザワツイテいた所、先生が見廻って来て耳を引っ張られて廊下に座らせられて怒られた。これはシメタと思った、まだ寝なくてもいいと云う事だ。20分ほどして再び先生が見廻ってきた。そうして「もう反省したろう?解ったら良いから寝なさい!」と言う。もちろん全員で声をそろえて言った「まだ解りませーん!」

 先生は先生同士で慰労会と称して呑んでいたらしいが、結局ほとんど寝ていなかったはずだ。翌日のバスの中で爆睡していたから多分間違いない。

 もう一つ、清水寺に音羽の滝と云う3本の滝があった。元は1本の小川なのだが、途中から3本に筧で分岐されていた。皆と同じお決まりの道など行く我々仲間ではないので、脇道からこの裏山に登って遊んでいた。そこで小川があったので皆で立ち小便をした。後でその小川が音羽の滝の上流であった事を知って「エライ事をしてしまった」と思ったものだ。品が無いとかそう云う事ではなく、自分の小便をその当時好きだったあの娘が飲んでしまったのではないだろうかという心配からだった。飲んでしまったらしい事は後で皆から訊いた話で判ったが、立小便より前に飲んでくれている事を祈るばかりであった。もし飲んでしまっていたら御免なさい。

今でも申し訳ないと思う、清水寺の音羽の滝。現在は土砂崩れなどが有り裏山には行けない。

今も昔も奈良公園の鹿は健在だ。

 当時の修学旅行手帳はその後現在に至るまで脇の机の中で50年間苦楽を共にして来た。多少紙は黄ばんでも書かれた中味は何一つ変わっていない。しかし時々見返す自分はどんどん年老いて行く。少しづつ遠くなっていく1963年の出来事が逆に頭の中でどんどん尾ひれを付けて大きく印象深くなっていくのは何故だろうか?
 自分が釣った魚が実際には20cmしかないのに1年も経つと頭の中で記憶が熟成され30cmオーバーになっているのと一緒か?中学校当時、色々あった事が写真と言う画像で残っている事で、大きくなりすぎた印象を修正してくれる。そういう意味でも画像による記録と云うのは非常に重要だと思う。
奥沢中学校の修学旅行手帳

 毎年祇園祭もしくは紅葉の時期に仕事にかこつけ京都に行っているが、2012年名古屋で開催した国際航空宇宙展を担当した際も幾度か訪れている。修学旅行時泊まった松井別館と云う宿は今もその場所に在るが、「松井別館・花かんざし」という名前で全面改築されていて昔の面影はない。六角通りを東へ進んで途中右側に公園があったが、其処だけは今もまだ寂しげな昔の面影のまま公園として存在する。しかしその公園の向こう側、つまり南側にあった学校は既に廃校になり京都教育委員会の管理する生涯学習施設になっている。古都京都においても時は確実に流れていた。


修学旅行の行程は基本的にバスに乗ってあちこちを連れまわされるのだが、移動中は最初の30分だけ元気で、あとはお喋りが生き甲斐の一部の女子を除いて殆ど皆寝てしまうのが普通だった。
バスの中では最初のうちは皆元気なのだ。
奥沢中学校の修学旅行手帳より

 しかし当時の修学旅行手帳を視ると1日で朝の比叡山から始まって銀閣・金閣・嵐山・二条城・三十三間堂・清水寺と気が狂ったようなスケジュールで回っている。車の数が増え、観光客が増え渋滞が日常化している現在の京都ではまず不可能だろう。それでもなお「そうだ、京都に行こう!」とか言ってキャンペーンをやっている。「そうだ、渋滞だけど京都に行こう!」に書き改めるべきだろう・・・と書きながら、自分だって移動中のバスの中は絶対に寝ていたはず。少し後ろめたい気持ちになった。大体、昼御飯は何処で食べたのだろう?数百名が同時に食事できる場所など有るのか?自分が引率者だったらと思うと気が遠くなる。

          
    かく云う筆者もちゃんと爆睡中の写真を撮られていた。


2014年3月29日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #27.」 1963年.昭和38年の修学旅行前後。

 叔母の家に下宿同然で居候をさせてもらいながら、毎朝東玉川66番地から奥沢中学校まで徒歩で通った。この叔母の家は随分前からこの世田谷に大きな土地を持っていて家の裏には数年前まで畑があった。昭和38年頃はそこにアパートを建てて経営していた。この親戚の風呂は生まれてこの方初めて視る五右衛門風呂で丸い板を沈めてその上に乗って身を縮めていないと大火傷をする前時代的代物だった。

 トイレは勿論便壺・汲み取り型で落とし紙が置いて在った。便壺の中は真っ暗で別世界が広がっていた。いつも独特の古い便所用の芳香剤の匂いがした。

 庭にはひょうたん型の池が在って金魚が沢山泳いでいて、大きな梅の木が在り毎年大きな梅の実が獲れた。はずれの方に犬小屋が在って白いスピッツが飼われていた。ダレカレと人が来るとうるさく鳴く犬で、なかなか人になつかない番犬としては最高だったらしいが、この私には一発で慣れてしまった。理由は判らない、八代で飼っていた大型犬コリーの匂いが付いていたせいだろうか?叔母が驚いていた。


 2歳年上の従兄と一度モメた事が有った。3畳間に向かい合わせで勉強机を置いてそれぞれ中学校、高校の勉強をしていたのだが、当然こちらは今まで通りあまり勉強をしない。しかし机には一応座って世界七不思議だの宇宙・ロケットの話だの鉄道模型趣味は読んでいたので一見勉強しているようには見えたのかもしれない。それが在る時HOゲージのパワーパック制作の為ハンダゴテを熱して結線しながら造っていたら「お前も中間試験なんだから少しは勉強しろよ!」とその従兄から数回言われた事が有った。もう少しだからと言って続けていたらハンダがなかなか付かない。何故かと思ったら黙ってその従兄がハンダゴテをコンセントから抜いてしまったのだった。これには我慢できず「あんまりだ、表へ出ろ!」と啖呵を切って庭に出た。しかし、相手は兄弟が居ないので喧嘩をした事が無かったらしくビビッて出てこない。「卑怯者!喧嘩も出来ないのか?」と罵ったら叔母に偉く双方が怒られた。

 20年後、この従兄に逢った時に、その時の事を皆の前で話されマジ怖かったと言われてしまい大恥をかいた。田舎では柔道が正課だったし、グーで殴り合う喧嘩はしょっちゅうだった。東京へ出てきてあまりに男の子の喧嘩が無い事に驚いた。少なくとも喧嘩の最低限のルールは子供の時から教えるべきだと思う。そうでないといきなり手加減を知らない争いになって素人が刃物を振り回す喧嘩になり怪我人や死人が出てしまう。

 いじめに遭ったとか、複数で1人を囲んで痛めつける卑怯でヤワな人種は昔の田舎育ちの男子にはまず居なかったように思うが如何だろう?友達に殴られる前に父親に殴られて育ったモノだが、今それをやると一発でDVだの虐待だの周りの口が達者な女性陣や女性っぽい男が騒いでしまう。これでは良い方向には行かないと思う。英国の私学で懲罰に未だに鞭打ち刑が在る現実は、その意味をしっかりと教育者が理解しているからだろう。またまた登場するが英国映画「小さな恋のメロディ」の中で校長に呼ばれて鞭打ちの刑を受ける際に、厚い本をお尻に入れる場面は強く印象に残っている。
 
 奥沢中学校でも2度ほどクラスメートと喧嘩をしそうになったが、口は達者で早口で色々わめくのだが、黙って相手の目から目線を外さず体を寄せて行くと逃げ腰になってしまう。八代の太田郷小学校時代、体のデカい相手の前ベルト(相撲で言えば前みつ?)を掴んで相手を持ち上げながら突進して空いている窓から中庭の花壇に落ちた事が有った。相手は煉瓦の角で肩の骨を骨折してしまい両親に偉く怒られたが、喧嘩の間合いだとかタイミングはこの時に会得したような気がする。まだ子供とはいえ喧嘩には「適当」と云う言葉は存在しない、トコトン勝つか負けるまで戦った。八代ではそれが当たり前だったが東京の世田谷にはそういう常識や風習はまるでなかった。

 ずいぶん後に掲載するが、VANヂャケットの社員時代、科学技術館でのファミリーセールのお客に国士舘大学の学生が居て集団で万引きをした。万引き警備を担当していた自分が大柄な1人を取り押さえ本部に連行途中に思いっきり2発殴られて逃げられそうになった事が有った。構わず相手の股間に手を伸ばし急所を手で握り上げ、ひるんだ所を今度は膝を入れて蹴り上げて戦力を失なわせ、応援に駆け付けた同僚と警察に突き出した事が有った。こちらの顔は酷い青タンになったが無事役目は果たせた。これなどある程度実戦で喧嘩をしていないと務まらない。

 奥中には番長なども居なかったし、らしき者も居なかった。むしろ裏社会の極道の子分格・不良と呼ばれた連中が居たのは人づてに聴かされていた。奥中の3年生の冬に大雪(もちろん東京にしてはのレベルで)が降った時が在って校庭で雪合戦が出来る程だった。もちろん昼休みに皆が校庭に出てクラスメートと頭から雪掛け等をしてはしゃいでいると、足元にビシッと異音のする雪玉が飛んできた。固く固めた雪玉の中に石が入っているではないか!
 これはB組に居た学年で一番可愛いい人気の娘と無邪気に遊んでいるのをやっかまれてぶつけられたものだと後で知らされた。不良と言ってもせいぜいその程度の事しか出来ない幼稚なレベルだった。山の麓の神社にチェーンや木刀を持って集まる八代の中学生とは基本的にレベルが違った。
 
また話が横道にそれてしまった。

こういう地方とは幾分違うシステム、常識、価値観の中での中学校生活に慣れるのは、さほど時間を必要としなかった・・・というより転校4回目でベテランの域に達していたのだろうか?自分で自分をコントロールしながら、トラブルが起きても死にはしないという経験値が度胸と余裕を持たせてくれたからかも知れない。この経験値はその後社会人になってからの転職経験に間違いなく生きている。
 
 3年生の秋に修学旅行があった。行先は京都・奈良、当時としては勿論定番の修学旅行先だ。行きに乗るのは修学旅行専用列車「ひので08:20品川発15:55京都着」帰りは夜行列車の「ひので19:25京都発翌日05:00品川着」だった。
昭和39年発行の時刻表には修学旅行専用列車と云う事で一番最後に掲載されていた。

修学旅行の朝は8時20分品川駅発の修学旅行専用電車ひので号だったので非常に朝早い集合だった。狭いホームに一杯奥中の生徒があふれていた。隣のホームには準急東海1号が停まっていた。
さっそくホームの端まで行って自分たちが乗る「ひので号」の写真撮影をした。



2014年3月28日金曜日

ヤマセミの食事の一部始終。 Detailed report of the meal of the Crested kingfisher.

 ヤマセミの採餌後の餌を呑み込むまでの連続詳細撮影が出来たので報告。撮影の向き、光の当たり方、枝の裏側・・・など必ずしも良い条件で撮影できるとは限らないこの手の観察で偶然良い条件で観察する事が出来た。餌物はイダ(=ウグイ)の様だ。

 撮影した3月頭の時期にこのレベルの魚をゲットできるのは既にハンティングのベテランの域になっているからだろうか?昨年生まれの個体ではこの大きさの餌を獲る事はまず無理な事。川辺川で同じ個体の3シーズン目をじっくりと観察し続けていてそう感ずる。

 獲った魚を気絶、あるいは完全に殺してしまうまで念入りに岩に叩きつけて呑み込むが、今回の餌の大きさは割に大きいので、呑み込んだ後半魚の尻尾が見えている状態でヤマセミの体内の半分以上の部分に餌魚が縦に入っている計算だ。余程胃が大きいのだろうか?

撮影者の前から遠ざかった岩にランディングしたが上手い事こちらを向いてくれた。少し誇らしげ。

獲った魚はイダ(=ウグイ)ですよーと見せてくれた・・のではなく、まず軽く岩に叩きつけたのだ。

更に大きく振り上げて再度叩きつけようとするが力んで既に瞬膜が閉じている。

叩きつける瞬間まで瞬膜が閉じている。力が入る時にはほとんど瞬膜が閉じる。

右に振った反動で左に打ちかえした。言ってみれば往復ビンタか?

この画像では固い頭とエラの部分をくちばしの奥歯?に当たる部分で砕いている。新発見?

暫らくガシガシやった後のみ込み始めた。

シャックリをするように上下に振りながら奥へ奥へとのんで行く。

此処から先が時間が掛かっていた。大きいのでいつまでたっても尻尾が見えていた。魚の頭の部分はちょうどヤマセミの胴体の半分程には入っているはず。




2014年3月27日木曜日

ヤマセミ交尾失敗の巻 Male of the Crested kingfisher which failed in copulation at Hitoyosi.

 自然界ではちょうど今頃繁殖シーズンの始まりを迎える種が多い。巣穴掘り、求愛給餌、併走飛翔などヤマセミも勿論繁殖シーズンに入っている。昨年2013年、一昨年2012年連続で交尾シーンを撮影できたので今年もと狙ったが、残念ながら未だにその場面に出くわしていない。

 一度だけ、木の裏側にはなっているが、一瞬オスが交尾に挑んだような場面が捕えられているのを発見した。撮影中は妙な動きだなとは思ったが、さして気にもしなかった。しかし良く画像を視返したら、どうやら意図的な行動の気配を感じたので連続写真を掲載してみた。

 芦北の田浦にお住いの濱崎さんから見事に交尾を撮影されたとの連絡を頂いた。我が事の様に嬉しくなった。次回訪熊の際に是非伺って成果を見せて頂こうと思う。今までの経験だとヤマセミは1日に数回同じ場所で交尾をする事を観察している。一度駄目でも何回も行う様なので注意深く眼を離さず観察する事が大切だ。とにかく接近して留まっていたら目を離さない事!

雄は枝の左の方から飛んできたのだが・・・

枝に留まるのではなく少し上に飛んで

向きをくるっと変えて

雌の後ろに回り込み近づいたが

重ならずそのまま通り越してしまった。

木の枝が邪魔だったのだろうか?

向かい合ったまま少しホバリングして、

反対側から枝に向かい、

雌に相対して留まった。雌も確実に雄を意識をしているので、直ぐ後に交尾してもおかしくない。時間的には10:40だからやはり今まで通り他の個体と同様午前中の09:00~11:00頃だった。


2014年3月26日水曜日

ヤマセミだって叫ぶし、けたたましく鳴く! Images of a shouting crested kingfisher !

 ヤマセミは色々な時に叫ぶ事が有る。一番多いのはオスがメスを、あるいは逆にメスがオスを呼ぶ場合。次に多いのが子育ての時に親鳥が幼鳥を呼ぶ時の叫び。滅多には無いが繁殖期に自分のテリトリーに入ってくる他の縄張りを持つヤマセミに対して大げさに騒ぐことがある。

 単音で叫ぶというか鳴く場合は割に相方も鳴いているほうを認識している場合が多いが、求愛給餌の際にオスが餌を咥えたままガルルルルルと連続音で鳴く場合は「ここに居るから早く来い!」の意味を持つと思われる。しかしじゃれ合っている際にもこの連続音で鳴く事がある。基本的にヤマセミは30分以上じーっとできない落ち着かない性格なのだろうか?

 一番大きな声で単発の声で数回激しく続けて叫ぶ場合は縄張りに侵入してきた他のヤマセミに対するケースが多い。

これはつがいの相方を呼ぶ際の叫び

これも同様

いい加減、来ないので撮影者にも向かって訴えているのだろうか?

侵入者に向かって突進する雄の叫び!

これも相方を呼ぶ叫び

侵入者が来るぞという相方への注意を促す叫び。メスは交戦しないので我が雄に知らせるのみ。

縄張りを荒らす侵入者と闘う筈の我が雄が来ないのでイラついて、けたたましく鳴いている様子。

これら叫んでいるシーンばかりを集めたページを続編のヤマセミ生態写真集に収録する予定。