入ってみたら、もう大変!販売促進課の倉庫はまさに宝の山だった。VANショップで商品を入れてもらい、大切に汚さずに折りたたんで持っていたVANの紙袋。店員にオベンチャラを言いながら、次の買い物を予測させる振りをして、余計に貰ったステッカー類。出来れば紙袋を一周して止めて欲しかった、VANロゴのセロテープ。更に倉庫の奥の方にはお店でしか見たことがなかった木製のVANロゴ看板、壁面にディスプレイされていた黒・赤のペナント類。何でもが揃って積み上げられていた。
1960年代からの企業としてのヴァン・ヂャケットのシンボル兼ブランドとしてのVANを同時に印象付けてきたロゴ・ツールは当時すでに生産中止だったが、オリジナル物がまだ少量販促倉庫に残っていた。 ヴァン・サイト画像より
早速、安達先輩のお言葉に甘えて、欲しかった販促物を色々なサイズの紙袋と共に自分用の手提げ袋を二重にして詰め込んだ。もちろん手提げ袋一杯に詰め込んだ。安達さんから頼まれた販促物を持つ以外に、更に自分用の紙袋を持たなければいけないので、どうやって運ぶか思案に暮れた。二度往復するしかないな・・・と思い始めていた。
其の時丁度倉庫の真ん中に、奥に棚の上のパッキン(=段ボール箱)を取り出すための脚立が在ったので、その上に上ってこのお宝の山の中に一人で居る幸せを暫し味わって置こうと思った。どうせ今日は元々日曜日、休日出勤だから焦る必要は無い!
販促倉庫にはこういった穂積和夫氏オリジナルのイラスト画の印刷物が何故か8枚ほど残っていた。ごく初期の段階で店頭で額に収めて飾ったのだろう。今となっては非常に貴重。
そうして、3段ほど脚立に登って腰掛け、販促物の山を見下ろし、満足感と幸福感に浸って1分ほどが経った瞬間!心の中で何かが急に消え去っていくのをはっきりと感じた。言葉で説明するのは文学的表現のボキャブラリーに欠ける筆者にとって非常に難しいのだが、「VANのノベルティに対する価値観・憧れ・収集欲」というか、興味がアットいう間に消えていったのだった。これには正直自分自身、非常に驚いたし、ショックでもあった。理由はハッキリと判っていた。今までなかなか手に入らない、貴重で希少価値のあった物が、いつでも自分の好きな時に欲しいだけ手に入るという現実に遭遇したからだった。
たとえばだ、片想いだと思い込んで、一生懸命どうやって気に入られようか悩み・考え、プレゼントまで用意した意中の美女が、実は向こうも随分前からこちらに気が在ったと知って、急に興味が薄れてしまうという感覚に似ているのだろうか?勘違いしないで欲しい、勿論これは女性にモテる友達に聞いた話で、残念ながら自分ではそのような贅沢な気分は一度も味わった事がなかった・・・。
同じように立場が変わると、気持ちも急に変わるという例としては、バス停で通勤時にバスを待っていて、けっこう混んだバスが来てしまった、並んで待っている客が全部はとても乗れなさそうだ。この時後数人で自分が乗れるという時の「バスの車内後ろの方はまだ余裕があるじゃないか?もっと詰めて乗せろよなー」と思う気持ちと、自分が乗れて安心した瞬間に思う「乗ったから、もう安心!すでに定員オーバーで満員なんだから早くバス出せよなー、乗れない奴は次が直ぐ来るって!」と思う自分勝手な気持ちの変化・・・に似ていないか?
いずれにせよ、「ええーっ?ナンダこの気持ちの急変は?」と思ったのが、たった3分の間の変化であった事は間違いない。気持ちが変われば勿論行動も伴う。詰め込んで満杯になった手提げ袋から販促物を取り出し、殆どを元の他所に戻すのにそう時間は掛からなかった。結局貰って自宅に持って帰ったのは、3色ベース違いのVANロゴセロテープ、紙袋全種1枚ずつ、ステッカー、ノート、その他の販促物各1個ずつ。ペナント類や黒いVANロゴの木の看板も持って帰ったものの、最終的には後日横田氏に献上してしまった・・・と思ったが記憶は定かではない。一方で木製の立体モノでVANロゴが白・赤・白に塗られた展示会など施工用切文字は自宅のドアにボンドで貼り付け、VAN倒産後も長い事15年以上そのままになっていた。
VANの三色ステッカー。これも長い間保存しているうちに糊が湧き出てきてしまい、撮影用に提供したまま帰ってこなかった。
持って帰った販促物の殆どは、30年以上其のまま手もつけられず、自分のお宝箱に保存された結果、最近WEBサイト・「VAN SITE」主宰者の藤代氏にサンプル提供、皆さんも「VANサイト」上でご覧になられて充分お役に立っているので、決して持って帰ったのも間違いでは無かったという事だ。 VAN SITE = http://vansite.net/
実は、今の今までゆっくりVANのノベルティに関して視た事がなかったし、其の存在自体空気のように感じていたものだったので、どのような造り方になっていたかはあまり気にしていなかった。 しかしヴァン・ヂャケットという会社は外から観た軽いノリの雰囲気とは裏腹に、企業としての「イメージ・雰囲気」を演出する事においては綿密に計算された、非常に優れた企業であり、又それを生み出す稀有な人たちが沢山居た事を今更のように感じた。
企業としてのプレスリリースや社長の公式文書(コメントなど)の頭に使うレターヘッドを多用した企業として、VANは時代の先駆けと言って良いだろう。非常に高価なオニオンスキン紙を使用していた。これが手に入るもの販売促進課に入ったからだろう。宣伝販促セクションが独自でオニオンスキン紙のレターヘッドを持っていたのも、今考えると驚くべき事だ。
通常のレポートに関してもVAN独自のステーショナリーが用意されていた。入社数年後、百貨店の年末商戦期に応援販売に行った時、お客の高校生達に期間限定PRで一枚づつ分けてあげたら、次々に友達を呼んできて結構な売り上げを記録して売り場で褒められた事を覚えている。
たとえば、誰もが知っている初期の丸いステッカー。最近でこそ昔のVANのイメージを復活させるべく、まったく新しい組織として再生VANが再びビジネスを始めているようだが、ノベルティその他販促物も当時のまま再現しているようだ。しかし今はステッカーといえば乳白の塩ビなどを素材に印刷したもので造られていると思う。1975年頃造られた台形のカー・ナンバープレート型のステッカーですら塩ビだから当然だろう。しかし、ずーっと長い間我が家の引き出しに眠っていた丸型の最初の頃の伝統版ステッカーは何と素材がアルミ箔なのだ。
裏紙を剥がしてみるとすぐに判る。アルミ箔素材で造られたステッカーの特徴は、耐光性・耐水性に優れる事はもちろん、それ自体変形しにくく、なおかつ荒い表面への貼り付け力においても抜群の優位性を持っている。たかが若いお客へのサービス品に過ぎないのだが、他ではまず使用しないアルミ素材のステッカーに執着している所が凄いと、今更のように思った次第。
現存する当時のオリジナル・ステッカー6枚だけ残っているが、素材がアルミであるため型抜きが大変で中心がずれた版ズレのものなどがあり、当時の苦労がしのばれる。さすがに発色は印刷のノリも良く変形も全然無く、光沢も当時のまま非常に綺麗だ。
VANの紙袋は色々なサイズが在ったが、みゆき族の頃一世を風靡したのは一番左の異様に縦長のサイズのもの。手に提げるのではなく、二つ折りにして小脇に抱えさせるのが目的だった。手提げにするよりもVANのロゴが高い位置に来て目立つという人間工学的なものだった。袋の生産効率から言えば非常に難しい紙取り寸法になるので、コスト的には高くついたと思われる。紙の色も普通のカーキ色よりも黄色がかっていて非常に個性的な魅力をかもし出していた。
これ以外にも、まだまだ新しいジャンルの企業として他には無かった、試み・常識を徹底させていた数多くの事実を次回以降述べて行きたい。乞うご期待!
お知らせー① 昨日は午後から夜にかけて6時間以上に渡りBloggerのサーバートラブルでブログを見られない時間が発生したにも拘らずごらん頂き有難うございました。
お知らせー② ここで筆者は2週間の本職=ヤマセミ観察・撮影のため江戸を離れ九州・熊本にロケ・合宿を行います。したがってこの「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」は11月一杯お休みを頂きます。今日の続き#84は12月6日(土)から再開とさせて頂く事をお知らせします。ひょっとして少し前に再開できるかもしれないので、時々当ブログを覗いていただけると大変嬉しいです。もちろん野鳥に関してのブログ・アップはたとえ画像1カットででも、現地から毎日リアルタイムでアップを心がけたいと思っております。