2023年9月30日土曜日

団塊世代は歳を重ねて自分の非を認めず謝れなくなる高齢者を憂える。 Boomers worry about older people who are unable to apologize and admit their own faults as they age.

  今朝の週末ブログはちょっと重い話をする。

 昔から年寄りは頑固者だというのが通説だが、筆者は自分自身の事をあまりそう思わなかった。ブレない人、というのは昔から良く言われた。余程の理由がない限りコロコロ主義や考え方は変えないのが主義だ。

 犬が変わっても20年以上続けている毎朝の愛犬散歩。1996年から続けている週1日のサンセットラン。10年前から続けている毎日更新のこの野鳥ブログYAMASEMI WEB BLOG。

 自分の周りにそう言った超頑固な高齢者・老人が居なかったせいなのか、はたまた実は筆者自身が普通以上に頑固で、自分からは周りの人々がそうでないと見えたのか良く判らない。

 しかし。自分が歳をとり周りの知人友人も同じように年を重ねてくると、だんだん周りの人々の中には昔はそうでもなかったのに、このところ急に頑固・自己中になった様に感ずるように思える人が多くなってきた。

 一般論だが人間歳をとるとだんだん耐えたり我慢というものをしなくなる。老年性頑固がさらに進むという。自分の考えを曲げない、自分が間違っていたと言えない・謝らない、誰か他人のせい、ほかの原因だと責任を転嫁する。

 若いうちはこういう責任感の欠如した相手と対しても「まー良いかぁ」で済ませたり、次いこう!次でうまく行けば良いんだから・・で済んでいた事が、高齢になり先も見えてくると「まあ良いかぁ」では済まなくなって来る。だんだん鼻についてくる。

 長年、信頼してきたはず、付き合いも深かった友人が、意外な一瞬でその信頼がガラガラと音を立てて消え去ってしまうことがあると、親しい友人たちからもよく聞く。

 ここで出てくるのが「頑固」というか、思い込んだ経験値からなかなか世の中の移ろいに合わせて考えを変えられないプライドという厄介なもの。プライドが高いから謝れない、ごめんなさい、オイラが間違ってた・・と言えない、言わない。ある部分自分が可愛いのだろう。

 無条件降伏で謝ることが可能であれば時間はかかっても「御破算で・・」とゼロスタートが可能だが、頑固同士本当に理解しあわなければそれも成り立つまい。

 人間各々、自分の強みと泣き所はある程度自覚しているはずだ。実際それが判っていない人が相当いるのを知ってはいる。

 例えば歴史に関しては自分より詳しい奴はいるはずがない、特に幕末・維新の話に関しては誰にも負けない!という御仁が多い。そのほとんどが単に司馬遼太郎の歴史小説を全部読んだ程度なのだ。特に団塊世代の男子に多いらしい。少し前メディアがネーミングした歴女・・などモノの数ではない。

例えば「坂の上の雲」、筆者など3回も4回も読んでしまった。鹿児島の博物館まで行った。我が父がかって江田島の海軍兵学校教官であの秋山真之の後輩というのも縁で、繰り返し読んだ。

 実は司馬さんの本はあくまで小説であって、史実は小説と相当違っているという事が多分にある。特に司馬さんが執筆されていた頃の資料よりもっと凄い事実が最近ボロボロ出てきて、さらにそれが加速されているとも聞いた。

 こうなってくると、司馬遼太郎著を全編読破し幕末維新に関して自信満々の人の常識が最近の新事実発見で間違いであるという事があちこちで起きている。

 さほど幕末事情に詳しくない人が、逆にネットやTVの時代考証番組でそれを詳しく知ってしまったりする。ところが自信満々の、本から知識を得ただけの自称専門家のほうはそれに気が付かず、昔得た知識を得意げに上から目線で主張し、トラブル発生が多いという。自信満々だったその道の有識者たちは真っ青だろう。

 残念ながらこれらは最近あらゆる分野で多々起こっている事らしい。

 幕末維新の歴史を例に挙げたが、車やバイクに関する有識者、航空機に関する事情通、宇宙に関する専門家、病気・感染症に関する有識者・医者、大和朝・卑弥呼の話、パソコン・ITの有識者、さらには生成系AIに関して詳しい者、列挙すればいずれも当てはまる。特に変化の激しい発達を今この瞬間も続けるジャンルに関しては極端だ。


 あるジャンルに特化して知識・経験を得た有識者(=専門家だと自負している)は、他者に比べて自分は優秀なのだ、上位に在るのだ・・と自信を持っている。事情通だと思い込んでいる。

 これはある面では正しいのだが、世の中の移ろい進化はそれを凌駕するほど速かったりする。時として専門家はその自信が奢りになり、他人に説教をしたがる。

 何か質問をすると即座に要点を答えず、まずそこに至るまでの自分の知識を披露しないと気が収まらない。このモードに入ってしまうと、相対する人の意見を聞かない孤独な裸の王様になってしまったりする。自分の周りにはそういう人々が最近やたら目に付くようになってきた。

 こうして、相手があまりその部分に詳しくないと見るや、上から目線で指導調で長々と得意分野の話をひけらかし始める。時には知らないことを見透かして「知ってるか?こういう事?」といった意地悪な質問をする。

 しかし、口の端に泡まで溜めてひけらかす方は、聴いている方にとってそれがどれだけストレスになるか、そこに恨みまで生み出されてしまうか全く気が付かない。

 聞かされる方は、歳をとるとこれが相当なストレスになり、いつまでも本題の話が始まらないことに業を煮やし、プッツンし「もういい!こういった環境はお終いにしよう!」早くこの場を離れよう・・になる。「歳をとって頑固になる」の結果がこれだ。

 繰り返すが、若いうちには「まーいいかぁ」で済ませたり、次いこう!次で取り消せば良いんだから・・」で済んでいた事がそれでは済まなくなる。

 人間歳をとって、人生の残り時間を考えたときタイムパフォーマンス(=時間対効果)を考えざるを得ないのだ。

 特に筆者は今年に入り野川の写真展を筆頭に、ここへきて日常やることがあまりに多くなり、年初から手首の腱鞘炎、柿胃石(柿の渋による障害)鼻風邪をこじらせ副鼻腔炎・喘息・・など珍しくイラつく体調不順が続いた。

 こうなると年齢を考えやることの優先順位をじっくり考え、切り捨てねばならない時間やモノ・事や人が数多く出てくる。無駄な時間が非常にもったいなく、うっとうしくなったのだ。今何が大事で、何を優先すべきなのかの自問自答の毎日が暑い夏中続いた。

 広島の原爆の翌日、東京から疎開している親族を探しに江田島の海軍兵学校の官舎から急遽船を出し、1日中焼け野原の市街を探し回った我が両親。それが元で二人とも血液癌(一種の白血病)で亡くなっている。この筆者もいずれその遺伝で白血病が発症すると言われて育ってきた。どうやらその芽がかすかに出始めたような最近の検査結果にいよいよ覚悟が必要な状態になった。

 心穏やかに残りの時間をストレスなく過ごすには、今まではしなかったが我慢し耐えるよりそのストレス原因から静かに遠ざかる、去る決断をする事が増えてきた。


  こういった状況で例えばパソコンの話に特化してみよう。

 パソコンに限って言えば、団塊世代の一般的高齢者はパソコン・ITの機械的・物理的進化、さらには新しく覚えるのに時間がかかる高度なアプリはもう必要ないのだ。パソコン・ITを駆使して「やること・作り上げる事」も残り時間から考えたら限られている。パソコン自体に関わることが趣味の人以外は・・。

 残されたエネルギーと時間はパソコンを駆使して「残すモノ・事」のクリエイティブ・ワークに集中したいのだ。その昔我がパソコンの師が言った通り「パソコン自体はただの機械の箱、何もしてくれない。人間がパソコンを使って何かをするのだ」

 筆者にとってのパソコンはまさに便利な機械だ。これで筆者は各部・少部数ながら20種以上の写真集・私小説を作成、そのうち4種類を日本自費出版大賞に応募しすべて受賞している。 

 また今年7月には生まれて初めて大きな写真展を尊敬する写真家さんに誘っていただき実現できた。これも候補作品を選び選んでいただくためにパソコンを駆使して臨んだ。特に今年に入ってからというもの腱鞘炎になるほどマウスを使いまわした。

 パソコンにさほど詳しくない、むしろ疎い筆者がこうしてパソコン駆使していろいろやった。レベルはともかく結果が残っている。ではパソコンの構造・ネット世界の理論に昔から詳しい人々は一体何をなしたのだろう?何を残しているのだろう?ぜひ知りたいところだ。

 まさに筆者はパソコンに出会って以来、ずーっと同じペースでこれに徹してきた。だから、新しいアプリもスピードの速い高度なマシンも全くいらない、壊れなきゃいいのだ。今まで通りのレベルのアプリに信頼のおける壊れない機器があれば性能は5年前のもので充分。

 そもそもパソコンの寿命は5年程度と言われている。機械的物理的安心使用限界が平均でそれくらいだと、ネットで何処をググってもそう書いてある。

 専門家は経験値からするとそうじゃないと愚痴るが、普通の人々の使用レベル・頻度からすれば事実そうなのだ。そうでなければ判で押したように同じことがネットに出ているわけが無い。

 しかしPCの使用レベル・頻度は個人差が非常に大きい。筆者のように毎日長時間酷使する場合、PCの安全な寿命は冷蔵庫や洗濯機の基本的寿命が8年とされているのよりはるかに短いのだ。

 筆者にとってサクサク動くことは重要ではない、新幹線の時速250㎞/hと270km/hの差など体感で判るわけが無いのと同じだ。筆者からすれば150㎞/h以上ならもう充分なのだ。

 理論上の数値・優劣などより毎朝7時に立ち上げて夜12時にシャットダウンするまで安定している機器である方がはるかに大事なのだ。車に例えれば霧ヶ峰に写真を撮りに行くのにフェラーリはいらない、スバルの4WDのほうが良いのだ。

 朝PCを立ち上げていきなり真っ黒な画面が出なきゃいいのだ。10年も連れ添った毎日一緒のパソコン、その異常には専門家などよりよっぽど使用者のほうが敏感で詳しい。

 それが有識者・専門家には分からない。説明してもまず信用しない。自分の長年の経験からするとそんなことはないと診断する。こうすれば直るはずだと・・・。これが結構間違いだったりする。しかしその間違いを認めない、「何か様々な要因があるのかもしれませんね?」・・とごまかし責任を転嫁する。決して非は認めず謝れない、プライドが邪魔して・・。これは耐え難い。

 広告代理店のコンサルタントと一緒だ。いろいろ金のかかる提案をして、上手くいくと「ほーらね?いった通りでしょう?クライアントさん!」。

 それが上手くいかないと「お金は少しかかりますがオプション提案もさせて頂きましたよね?あれさえやっておけばうまくいったのですがねぇ残念です」と言い訳する。これとどこが違うだろう?

 団塊世代ももう75歳!ほとんどがあと半年もすれば後期高齢者だ。そろそろ命ある間のストレスを勇気を持ってなくす努力が必要だろうと思う今日この頃だ。

2023年9月29日金曜日

今年もブッポウソウは繁殖を終えて無事に南へ帰っただろうか? I wonder if the Dollarbird have finished breeding and returned safely to the south again this year?

  今朝は昨日の灼熱の昼間に比べ、高原のような爽やかさだったが昼間はやはり30℃超えの暑い1日になるのだろうか?

 ラグビーのサモア戦を観て寝不足の方も居ようが、1次リーグを突破できるか否か予断を許せない展開だ。

 今日のこのブログは、このところ観察ができていない南洋のカラフルな野鳥ブッポウソウの話だ。筆者が2010年から2020年まで毎年通ってヤマセミを観察してきた熊本県の人吉市をベースに50㎞四方を探鳥した際遭遇したのがこのブッポウソウだった。

 場所は宮崎県や鹿児島県との県境付近だから、一番奥まったところだ。アカショウビンやヤマショウビン、ヤイロチョウやヤツガシラなどにも遭遇できる希少種天国のエリア。

 よくある探鳥マップには絶対に載っていないエリアだ。ジモティ(=ロコ)でも知る人ぞ知るといった自然保護に関しては極地に近い神聖な場所だ。

 一度だけ、熊本市内からお越しになったグループを案内したことがある。びっくりされていたのが非常に印象的だった。ブッポウソウは熊本県北部でも有名な場所があると聞くが、その野鳥との距離と数において群を抜いていたようだ。

 このブッポウソウ、色・形・姿は南洋の鳥なので非常い印象的だが、その鳴き声を聴くと幻滅するかもしれない。ゲッ、ゲッ♪という声なのだ。オナガがギャーギャー鳴いて幻滅するのに似ている。元が恐竜なので仕方がないとは思うが・・。

 筆者が観察したのは6月~8月上旬。中旬にはもういなかった記憶がある。

生息密度は非常に高いが、年によって増減が激しい。

背景が日陰部分になるので印象的な絵になる。



親子、向こう側が親、手前が幼鳥。


出入りを観察すると面白い。

2023年9月28日木曜日

冬の九州で出遭うことが多いキクイタダキ、今年はどうだろう? How about the Goldcrest, which is often encountered in winter at Kyushu, this year?

  キクイタダキは基本的に北海道や本州中部以北で繁殖するようだ。だから夏季に九州で見かけることはあまりないらしい。

 筆者は九州で三度ほどこのキクイタダキに遭遇したが、いずれも11月の南阿蘇休暇村、11月の人吉市球磨川土手、それに10月の北九州小倉北区の足立山森林公園だった。

 それ以外で遭遇した場所は、京都御所、広島の厳島神社、奥日光戦場ヶ原、こちらは夏。

 今日ご紹介は南阿蘇の休暇村で出遭った個体。 

針葉樹を好んで飛び回ると聞いていたが・・。





これが本来の姿なのだろうか?

2023年9月27日水曜日

超逆光で明治神宮のカイツブリを撮影してみた。 I took a picture of a grebe at Meiji Shrine in super backlight.

  1日8時間以上パソコンに向かって何かをしている筆者は、11年間使い続けているパソコンの調子が最近おかしいので、機械的限界と考え新しいものを購入、データをすべて外付けHDにバックアップし、我がパソコンの師に使い続けたPCのOS入れ替えその他メンテを依頼した。

 まだ、新しいPCの調子その他調整で、旧PCの現役復帰はTwinモニターとの結線や2台のPCを1個のマウスと1個のキーボードで操作するリンク・コードをセッティングする為、少し先になるだろう。

 野鳥関連の画像データが50万カット以上になるので、不要データを1/3は消去したにもかかわらず相当数が残っている。塵も積もって今や押しつぶされそうだ・・。

 そんな中、明治神宮で撮影したカイツブリの画像が出てきた。超逆光下での撮影。

 野鳥撮影は生態の瞬間を撮りたい・・とこのブログで幾度も申し上げているが、こういった光とのコラボの瞬間も面白い。










野鳥だから羽が生えてエンジェルっぽいのは当たり前なのだが・・。

2023年9月26日火曜日

ササゴイが採餌に失敗した瞬間! The moment when the Striated heron failed to forage!

  筆者は野鳥撮影に毎日勤しんでいるが、やはりその生態のある瞬間を収録するのが一番うれしい。ただ枝に留まっている野鳥はなんか鳥類図鑑の様で味気ない気がする。

 やはり採餌の瞬間、繁殖活動の瞬間、縄張り争いの瞬間など必死の行動の一瞬が切り取れたらどれだけ嬉しいだろう?

 今日のブログはササゴイが石積みの土手からダイブしてオイカワをゲットしようとして逃げられ、追いかけて二度目のアタックをしたにもかかわらず失敗した起承転結。

 最後の悔しそうな「くそーっ!」という瞬間の顔つき!筆者的には野鳥撮影をしていて最高のカットの一つだと思っている。

足が滑ったのか、思う通りのダイブができなかったようだ。

水中を逃げるオイカワが見えている。

必死でジャンプしたオイカワ

宙を飛んで

水に落ちたのをササゴイはしっかりと見て

羽ばたきながら追いかけた!

しかし、オイカワは水中深く逃げ込んでしまった。

ササゴイは口惜しまぎれに、「くそーっ!」

2023年9月25日月曜日

オオヨシキリは鳴いていないときに採餌する。 The great reed warbler forages when it is not singing.

  写真には撮れなかったが、今年三鷹の野川でオオヨシキリの声を聴いた。9月の初めころ三日間同じ野川土手の薮でギョシギョシ♪と聞こえたので間違いないと思う。

 実は数年前も少し離れたため池のそばの葦原で鳴き声だけ聴いていたので、野川流域で夏を過ごしているのは間違いのない所だろう。繁殖しているか否かは不明。

 オオヨシキリを撮影する方はたいていその大きな鳴き声を目当てに目視して撮影すると思われる。したがってオオヨシキリの写真の多くは真っ赤な口を開けて頭の毛を逆立てて鳴いている場面が多い。せっかくだから黙っている画像より大口を開けて天に向かって鳴いている場面のほうが良い写真だから・・と、そうなるのは良く判る。

 しかし縄張りを主張している際よりも、羽虫をフライングキャッチしたり採餌しているときのオオヨシキリも良いものだと筆者は思う。今日はそんなオオヨシキリが蝶を見つけて採餌するシークエンス。

鳴いていないときは冠羽は逆立っていない。

・・・と、シロチョウが飛んできた。もう採餌体制!



ほぼゲット成功

以外に野鳥は鳥類を食すようだ。

2023年9月24日日曜日

団塊世代は、便利なモノがどんどん人間を退化させていると思う。 In this world, convenient things are increasingly humans degeneracy.

 最近読んだ本に北欧の精神科医師・研究者アンディシュ・ハンセンが出した「運動脳」というのがある。以前「スマホ脳」という本を出して大当たりした今や時の人だ。
http://yamasemiweb.blogspot.com/2023/01/baby-boomers-were-astonished-by.html
今年の頭に読んで、ニヤニヤしながら超納得した本。お勧め!

 この運動脳という本、日本の自称脳科学者・茂木健一郎氏がすぐさま要約本を出しているが、圧倒的にオリジナルを読んだ方が良い。中身が100倍違う。

 茂木氏の「運動脳の鍛え方」はいわばコピペ本と言ってもいいほどオリジナルをパクって、話題性のありそうなタイトルを付けベストセラー化を狙った本だ。

 これは出版界お得意、一種の後追い商法・パクリ商法だと思う。平凡出版がアンアンを1970年に出して、集英社がしばらくしてノンノを出したに似ている。同じく平凡出版POPEYEの後追いでHot Dog Pressを集英社が出したに似る。

 写真週刊誌フォーカスが出れば、すぐさまフライデーが出た。出版界は嫌らしいのだ、節操のない恥ずかしい世界なのだ。「生成系AIが版権やプライバシーを踏みにじる・・」とことさら大げさにメディアが騒いでいるが、メディア・出版業界ははるか昔から自分たちでやってきているのをお忘れか?

 茂木氏のこの本は中身が薄っぺらいし、ネットがこれだけ普及していなかったら、例えば1960年代の日本だったら、茂木氏自身誰にも知られない存在だったろう。

 ネットで、SNSで情報発信するからこそその存在を認知さえている「ネット人種」の一人だろう。ガーシー元議員にしろ、ひろゆき氏だの、ホリエモンだの、ネットで「おいらはこう思う・・。」的な発信をやたら中身を吟味せず公開することによって意見が広がる(=バズる?)「ネット人種」なのだと思う。

 今や若者中心に街中でスマホ歩きをして他人に多大な迷惑をかけ続けている「スマホジャンキー」それらが情報収集して自分の「意見」を構築していく源がこれら「ネット人種」なのだと筆者は思っている。

 今日のこのブログで言いたいのは実はそういう出版界云々の話ではない。

 石器で他部族の脳天をかち割ったあのスタンリーキューブリック監督「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンの人類祖先から、今に至るまでいろいろ人間が生きていく上でいろいろ便利なモノが発明され、売られ産業として発展して来た。団塊世代は特にそのど真ん中で育ったから一番よく知っている。

 生まれた時から身の回りにパソコン、ネット、SNS、TV、VR、新幹線、ドローン、自販機、カード決済がある現代の子供たちと違い、我々団塊世代は、育つと共にこの世に出現した三種の神器(テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)だの3C(クーラー、自動車、カラーテレビ)だのに日々驚異の声を上げ続けてきた。

 同時にそう言った新しいモノ・機械・製品は人間をより快適に生活させ長生きさせるものとして歓迎され喜ばれた。こういった新しいものが人類に悪い影響を与えるなど思いもしなかった。せいぜい教育面で一部TV番組がやり玉に挙がった程度だろう?

 それがここ最近出来てきたものは、確実に人間・人類を退化させていると筆者は憂えている。その3大アイテムが、自動車、スマホ、生成系AI(Chat GPTなど)

 ① まず自動車。
 自由に好きな所へ移動できるし、車特にコンテナなど輸送車がなければ人類はこんなに発展しなかったろうとそれは確信している。
 しかし、便利で安くなってだれにでも買えることになって、猫も杓子も若者も高齢者も、特に地方で公共交通機関インフラが十分でないエリアでは一人1台の時代になって久しい。

 しかしこの便利さは人間を歩かなくさせた。これで高齢者の足腰が全滅。寝たきり老人の比率はいまや日本が世界一だという。車で便利して、足腰が弱り、健康のためにウォーキング?何かどこか根本がおかしくないだろうか?

 ② 次にスマホ。
 幾度もこのブログでスマホの弊害を筆者は指摘してきた。ガラパゴス系と馬鹿にされながら筆者がスマホに替えたのはほんの2年前。相手の都合や状態を察することなく返答・返信を強制されるLineは入れず、支払いアプリやポイントがたまるアプリも一切入れない。だから月の通信費は2000円前後。
 
 しかしこの便利さは、人間に先を予測しない行動癖を生み出した。盗撮、乗っ取り、これ見よがしの高いスマホ自慢ごっこ(iPhon15)、スマホでしか撮れない写真の自慢サイトの反乱⇒人間の写真撮影のスキル退化。

 渋谷スクランブル交差点の人込みや道路の真ん中、あるいはデパ地下の混雑した通路で仁王立ちになって自分が行く先をGPSマップで調べている若者たち。
デパ地下の雑踏のど真ん中で仁王立ちしてスマホ操作!いけない。

 基本的に自分の脳に東西南北の概念が入っていないから、スマホで地図を見て解ったつもりでも実際がわからなくてキョロキョロしている。筆者も道端で「北ってどっちっすかねぇ?」と訊かれたことが幾度かあった。

 あらかじめ、自分の行く先の情報、そこまでのルート・時間、これらを調べて行動をしないからすぐに現場でパニくる。半分は自業自得なのだが、首都圏直下大地震に富士山爆発が起こった時にスマホ命で、スマホに頼って日常を生きている者共のパニックと混乱、そう遠い日の事ではないような気がするが如何?

 ③ 三つめが生成系AI(=ChatGPTの類)
 最近、地方自治体がこの生成系AIを業務に取り入れましたと、「話題の新技術を使ってんだを我々は!」アピールが目立つが先行きは相当怪しげだ。

 PRのつもりで導入をアピールしているのだろうが、マイナンバーカードの実例を見るがいい。いくらAIだのコンピューターだの言っても、それを使う人間が起こすミスはAIやコンピュータは修正してくれない。

 例えばオフィスで係員が一生懸命打ち込んでいる最中にスタッフや来場者がコンセントに物をぶつけてPCがダウン、あるいは突然の雷雨・落雷で全館停電!

 こうなったらどうする?電気に頼る人類は電気不足で生活自体まったく機能しなくなる恐れは十分あるだろう。

 富士山に限らず大きな噴火で全天が雲に覆われ太陽光発電ができず、しかも火山灰ショートで電気が送電できず都市機能が止まった場合、どうなると思う?
 もちろんスマホは電池切れで通じない。AI頼りの都市機能も全部止まる。この時人間は石器時代に戻るのだ、空を眺め観天望気で変化を察知し生きていかねばならない。

 さらに、人間は基本的な脳力を今まで教育を経て苦労しながら獲得してきた。この脳力があればこそ生成系AIの使える範囲・限界・問題点・弱点を知っている・・はずだ。
 
 しかし、こないだTVでどこかの学生に「ChatGPT」どう思いますか?とマイクを向けた街頭インタビュー(もちろん全てがヤラセであることは言うまでもないが)があった。

 その答えは「助かりましたよぉ!昨年課題に2日掛かっていたのに、ChatGPT使ったら15分で出来ました、超便利ですね?」メディアはこうやってその威力を報じていた。

 しかし、ちょっと待ってほしい。昨年2日掛かって苦労して学んだことを生成系AIを使って15分で出来たのなら、2日間の学習ー15分(ChatGPT)の部分自分の脳が進化し、ノリッジ(米語ではナレッジ)になっていないという事に気が付いているだろうか?

 この先、生成系AIを駆使する「無知で脳が退化した人類」が大量に生まれてくるような気がしてならない。

2023年9月23日土曜日

団塊世代は毎年この時期の「おせち料理・広告」に疑問を感ずる。 The baby boomer generation has doubts about ``Osechi cuisine and advertising'' around this time of year.

  先日の読売新聞の15段全面広告の「おせち料理」を見て、またか!と思った。

おせち料理と門松だけになってしまった日本のお正月行事。

 基本的におせち料理の普及データって、どうなっているのだろう?

 祝い事の食事ものがいわゆるおせち料理だろうと思う。

 詳しく言えば、おせち料理の由来は季節の変わり目にお祝いする節句、節日からきていると習った。1月1日元旦や7日の七草、三月三日の桃の節句などを祝い、神に奉じたお供え物の食物をいただくのが「おせち料理」だと習った。 

 ところが、昭和から時が過ぎて令和の時代になり、ハロウィーンやクリスマスは祝い騒ぐものの、日本古来の節句、正月・七草、桃の節句、端午の節句、七夕、重陽の節句は、すっかり忘れ去られ、祝日に国旗すら掲揚しない国民になってしまった日本人。

 そんな中、正月のおせち料理だけ出来合いの豪華なものを競い合って購入し、「正月気分」を味わう日本人。大都会の住民は自分で作ろうなどとは夢にも思わない情けない時代になってしまった。

 企業や商店は門松くらいは立てるようだが、首都圏住宅街の一般民家においては最近は紙に印刷したものを貼るだけで、むしろ枯れ枝などで手作りしたリースのほうが幅を利かしているようだ。和洋折衷ここに極まれりといった感じだ。

 日本古来の伝統を、根本精神を忘れ雰囲気の良いスタイルだけ踏襲するという中身のないものにしてしまったのが現代の日本人なのだ。

 そんな中で、豪華さを競いながら全てが「冷凍」という。味そのものより見てくれを重視した「見せかけ豪華」なおせちのお重。嘆かわしいことだ。

 解凍したおせち料理をほんとに美味しいと思うのだろうか?それは手作りの本物を知らないからだろうと察する。

 筆者は以前からこのブログでも述べてきた。

 今や正月をじっくりと伝統スタイルで過ごすのは高齢者だけだということ。

 子供も育って独立て家を出、家には老夫婦しか残っていないケースが非常に多い日本の家族。一人住まいになってしまった高齢者も多いことだろう。

塩分軽減、無添加・・高齢者を意識はしているが・・・。

 そんな消費者に競い合って豪華な大ぶりのおせち料理を、これでもかと売り込む日本の商売、どこかおかしくないだろうか?

 果たして老夫婦が豪華な伊勢海老の鬼瓦焼のようなお重を欲しているだろうか?

 以前から筆者は言っている。お重は小さな三段で一番上が生もの中心に日持ちのしない新鮮な料理食材。二段目が三日は持つもの。三段目が1週間は日持ちする保存食糧中心。

 こうすれば1日、一段を完食しつつ三が日を過ごせるではないか?三段目は冷蔵庫に入れれば1週間以上は持つ・・・、これが合理的なおせち料理の様な気がするが如何ろう?

 さらに器は小さな漆塗りの上物で何度も使えるきちんとしたもの。初年度だけは器代が入るため高価だが、二年目からのリピートは食材だけだから半額以下になろう。

 もう少しおせち料理を販売するビジネス、考えた方が良いと思う。 

2023年9月22日金曜日

二羽で並んで飛ぶヤマセミの理由をご紹介。 Introducing the reason why two Crested kingfishers fly side by side.

  久しぶりにヤマセミの生態をご紹介。

 筆者が自費出版したいくつかの山翡翠(=ヤマセミ)生態写真集をご覧になった方はすでにこの画像に似た場面をご存じだと思う。

過去においても二羽の山翡翠(やませみ)が並走するシーンをご紹介している。

http://yamasemiweb.blogspot.com/2019/07/the-reason-why-of-pair-flights-of.html

 5月末~6月初旬にかけて巣立ったヤマセミの幼鳥は、最初の10日間ほどは毎日同じ場所、例えば大きな木の横枝、大きな岩、大きな倒木に集合して並んでいることが多い。

 ほんの1週間しかこの状態にはお目に掛かれないので、ヤマセミが繁殖している地元にお住まいの方しかこの場面には遭遇できない。

 筆者は人吉市にお住いのヤマセミにごくごく近い方々からの情報を得て、すぐさま翌日羽田から飛び、こういった場面に数回遭遇できている。

 ただでさえ遭い難いヤマセミ幼鳥が、4羽も5羽も横一列に並んでいる場面は壮観だ。

毎年幼鳥の集合場所は違う。この年2013年は球磨川対岸大岩だった。

一見二羽の争い・チェイスに見えるが、実は親子なのだ。





後ろは親鳥、前が鳴きながら飛ぶ幼鳥、スダチ2週間後に観られる飛行訓練の一部。