2014年12月30日火曜日

アオゲラのディスプレイ?で今年2014年の納め!  The last blog up is display of Japanese Green Woodpeckers.

 我が家の西側にはミッション系大学のキャンパスが広がっており、キツツキ系の天国と言って良いほどアカゲラ、アオゲラ、コゲラが生息している。オオアカゲラだけは視た事がないのでテリトリーではないのだろう。最近このキャンパスに猫が蔓延って野鳥の生態系が大きく変わっている。9年間見続けた限りでは、藪系の野鳥がめっきり減ってしまった。

 ウグイス、アオジ、クロジ、カシラダカ、シロハラなどが猫にやられて繁殖できず、激減したものと思われる。原因は猫の餌さやり婆さんだ。この婆さんが死ねば餌が貰えず猫は何処かへ姿を消すのも判ってはいるが、大学が放置するため今のところ藪系の野鳥は極端に減ってしまった。

 そんな中、ケラ系は逆に多くなっているような気がする。アオゲラの天敵は青大将!ヤマセミと一緒だ。うろこの両側に突起の列がある青大将だけがツルツルした木の肌を平気で昇っていける。土壁に巣穴を彫るヤマセミも、生木に巣穴を掘るアオゲラ、アカゲラ、コゲラも巣穴は逃げ場が無い。巣穴へ入る親鳥の反復行動を見て青大将は巣穴を目指すようだ。

春先のドラミングでテリトリーの主張をする前に、年末から年始にかけて奇妙な動きをする2羽のアオゲラを発見。両方オスのようで前の年生まれた若鳥のような気がするが・・・。

一羽のオスのアオゲラが登場。

暫くジーットしていたが。

別の木の陰にもう一羽いるのを発見。

だんだん最初の一羽が寄って来て。

同じ木の幹に留まった。

向こうとこちらで互いの首を振り合ってダンスをしているようなしぐさ。

なんか喋っているのか、餌を与えたのか?どう考えても両方オス。

果たしてこの行動の意味するものは?2015年の解明に期待しよう!

※年末年始は余程の収穫があれば別だが、明日大晦日~正月3日までブログのアップはお休みを頂きたいと思う。新年2015年は1月4日からスタートする予定。今年観ていただいた方々に深く感謝いたします。その他、何度もContact usからメールを頂いた常連様、来年もよろしく、ご指導ご鞭撻をお願いいたす次第。












2014年12月29日月曜日

ヒヨドリをしっかりと見たことがあるか? Have you watched a Brown-eared Bulbul well?

 狩猟可能な野鳥の一つにもなっているヒヨドリは大集団での渡りが有名。関門海峡その他海の上を渡る時は、殆どハヤブサの襲撃が付きまとう自然のドラマを目の当たりに出来る意味でも身近な野鳥だ。しかしこの野鳥を何処にでもいるからとじっくり見たことがなかった。
 波の様に上下しながら飛ぶ独特の飛翔スタイルで遠くからでも「あっ!ヒヨドリだ」もしくは「なんだ、ヒヨか」とあまりしっかりとは見てもらえない野鳥の一つだろう。

 しかし、このヒヨドリなかなか観察すると面白い。真冬の今、武蔵野の雑木林ではツグミの群れに混じって混成群を形成している。時々その群れにシロハラが混じる事もある。メジロやスズメ、シメが混じる事もある。理由は上空を舞う猛禽類とカラスの群れから身を守るためだろうと思われる。

 武蔵野はチョウゲンボウ、オオタカなどが上空を舞うことが多い。

我が家の庭木にいつも来るヒヨドリ、大概の事では逃げなくなった。

庭木に来る場合は非常にリラックスしている。こちらが二階のベランダにいて干し柿のケアをしている時など3mの距離で平気にしている。

近所の栴檀の木の実を遊ぶように食べるヒヨドリ。朝この木の周りはうるさい。

ノバラ系の実だろうか、これも盛んについばむ。



隣のミッション系大学のキャンパスには今年は非常に多くのツグミがやってきている。構内を巡回する警備員が来ると一斉に飛び立つ。来春から皇族さんが入学するので警備は厳重になってきている。

右がヒヨドリ、左はツグミ、仲良くこちらへ向かって飛んできた。



2014年12月28日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #89.」 最初の大仕事はVANMINIの七五三キャンペーンだった。 その4.

 一方で、ターゲットを絞り込めないVANBOYSは「〇〇円以上お買い上げの方に〇〇プレゼント!」という、超定番グリコのおまけ方式の販売促進キャンペーンを実施する事でお茶を濁す事になった。しかし、ノベルティのアイテム決定に関しては一緒に協力して行う宣伝課の同期内坂君のアイディアで、コットン製のサイクルバッグを作る事になった。たぶん当時の日本ではサイクルバッグって何?状態だったろうと思う。この内坂庸夫君に関してはエピソードが沢山あるので、少しづつ小出しにして行こうと思う。数年前、こちらがまだ知らないYouTubeという無料映像サイトがあって、あのGerry & the Pacemakersの「Ferry across the Mersey」を観られるぞ!と教えてくれたのも彼だ。とにかく昔から新しいものに関する情報は非常に早く、さすが「マガジンハウスの雑誌ポパイに内坂あり!」と言われた雑学情報通・メディアマンだ。
英国のコレクターからネットで購入した「映画マージー河のフェリーボート」のDVD。日本では未公開未発売。

あの当時のリバプールが如何に古びて貧しい街だったか良く判る。基本的には「映画・A Hard day's night」のそっくりさん的音楽映画。レコード発売されたテイクとは随分違う部分多し。

1972年に英国で購入したオリジナル盤、普通はこんな暗い写真をレコードジャケットに使うなど信じられないが、冬のリバプールの感じを出したのか。どれもがはじけるような明るい米国盤のレコードジャケットと異なって、どこかターナーの絵のようで、なおかつ英国っぽくて気に入っている。

 我が同期、内坂君の理念は昔から頑固一徹、筋が通っている。「自分で出来ないものは記事にしない」、逆に言えば「記事にするものは必ず自分でやってみる!」スキー、アイスホッケー、ウインドサーフィン、スノーボード、トライアスロン、トレイルランニング、マウンテンバイク、その他私が知らないものもハードなものばかりだが随分やっていると思う。
 
 この内坂君がまだ誰も知らなかったサイクルバッグを提案してきた時、何だそれは?どうやって使うんだ?どう作るんだ? 侃々諤々、喧々囂々結構問題になった。もちろんあのうるさいVANBOYS営業課長からは、自分がこのノベルティの意味を判らないので不評だった。「何だこれは?こんなものでお客が喜ぶのか?」だったが、「こんなもので悪かったね?アンタがターゲットじゃないし、嫌ならいーんだよ?止めちゃうから。」と言えるのが販売促進の強みだった。
内坂庸夫氏(現マガジンハウス・ライター)発案第1号のVANBOYSノベルティ。彼はその後1980年代になって雑誌ポパイ40ページの自転車大特集のタイトルに「Run・Run・Run」と名付けている。

VANBOYSのノベルティの5年後、新しくスタートしたSCENEブランドでも「ヨセミテ・ラガー」といわれたラグビージャージのデザインを取り入れたサイクルバッグが登場している。

 「会社の中で一番強い部署、でかい口を叩けるのは何処だ?」がいつも議論される熱気に溢れた若い会社だった。普通考えれば最先端前線でヴァン ヂャケットの商品を販売している販売員スタッフが一番偉いのは当たり前だった。彼らが現金をお客様から頂く訳で、営業担当より直接的で「偉い」とされていた。販売実績が伴わなければ営業マンも「ダメ印」を張られてしまう。

 話はいきなり現在に飛ぶが、今日2014年12月28日の読売新聞の記事に三越伊勢丹が「優秀な販売員には取締役員と同じ年収を!」という考えを示したとあったが、これが元記事だろうか?やっとこういう時代になった。 ※ご参考 http://www.sbbit.jp/article/cont1/28932

 話は戻るが、当時も経理、人事、総務、その他管理部門の職種より現金を売り上げる営業販売部門が社内で大きな顔を出来るのは常識だった。しかしその営業・販売部門も頭が上がらない怖い部門があった。 
 それは商品物流を全て司る「商品管理部」通称「商管」と、「販売促進」通称「販促」だと言われていた。どんなに脅かしたり、急かしても「商管」がつむじを曲げたら商品がお得意様に届かない。昔はパッキンが着いて箱を空けたら売れ筋が欠品していたなどと言う意地悪なども結構あったようだ。 
 戸田本部長という重戦車のような営業本部長の全社員への訓示の中に、「行方不明の商品が下代で年間1.5億円分も有る!一体どういう事だ?この欠損が無くなれば、我が社の売り上げが1.5億円伸びる事になる。」と剣幕で怒鳴った事があった。商品管理部門というのは、社運をも左右する非常に重要な部門なのだ。
 そうしてもう一つが「販売促進部」。キャンペーンやプレミアム、ノベルティを作り得意先へ配布するこのセクションに睨まれたらキャンペーンは出来ない、ポスターは届かない、VANのロゴ紙袋は届かない、宣伝材料は届かない・・・もう現場は非常に困ってしまう訳だ。

 だから、その辺りを一番良く判っている営業さんは、顔なじみになるほどちょいちょい販促の部屋に遊びに来て営業情報、売り場情報、他メーカーの情報、業界の噂、社内の噂を持ってきてくれる。
 これは非常に貴重な存在だ。自分でも良く売り場へ入ったが、現場の状況は表からしか判らない。だからもちろん、そういう営業さんにはこちらからも販促情報をどんどん出すし、数少ない特別プレミアムなども提供する。これはあくまで個人的利権ではなく、それだけ熱心な営業さんであれば顔が広いので、得意先からの反応、作ったものへの広いジャンルからの評価を貰えると踏んでの事だ。
 この典型がヴァン ヂャケット営業の鏡、横田哲男君であった事は疑う余地も無い。販促課に出入りするヴァン ヂャケットの営業さんで、アイスホッケー部所属以外のメンバーでは彼の一番訪問頻度が高かったかもしれない。これは筆者と同期だと言う事以上の何かがあったのだろう。

 これは横田君の話ではないが、販売促進の部屋のカウンターには色々なパンフやポスター類と同時にノベルティ、プレミアムのサンプルや何かの残りが置いてあったりする。部屋に来た他のセクションの人たちは帰り際に気に入ったものを「これちょーだい?」と言って持っていくことが多い。時には黙って持って行ってしまう事もある。これを「チーする」と言っていた。「ギる」とも言う。

 実はこれは作ったプレミアム・ノベルティの人気度、話題度を推し量る非常に良いマーケティング・リサーチになるのだ。VANの社内の人に人気が無いモノは世の中に出しても人気は無い。社内の人間に人気があり奪い合いに成る程であれば、世間に出ればもう超人気になること間違いなしという訳だ。

 VAN倒産の3年前、「My woody country」の宣伝キャンペーンの一環でカーペンターキット(米国製大工道具セット)を100名の方にプレゼント!・・・をやる事に成った時は、まず社内が大騒ぎになった。あの手この手で宣伝課や販促課へ「裏口ちょーだい要請」が来るのだった。このキャンペーン自体はいつもの販促課ではなく、宣伝課主導だったのだが、一般への告知が始まる頃にはとんでもない状況になっていたと思う。電話の申し込みの受け皿は初日でパンクした記憶がある。宣伝課に置かれた10台ほどの受付の電話機は鳴りっ放しでその部屋では仕事にならなかったと聞く。
メディアや広告代理店業界では名の通った宣伝キャンペーンにはなっているが、実態は・・。

自分のデスク周りを撮影した画像にこのカーペンターキットが置いてあったが、肝心の中味が実用的でない為誰も自分の物にしようとは思わなかったようだ。自宅に持って帰っても置くところがないし・・・。


 結局何個作ったのか良く判っていないが、製作数の半分も一般の人の手には渡っていないと視る。今の時代にそんな事を行ってバレたら、メディアに一斉に叩かれて逆効果もはなはだしい大変な事態になっていたろうと思う。今回の東京駅100周年記念Suica発売の際の「物欲日本人」たちの凄まじさは報道でご覧の通りだ。

当時も今も日本人の本質は変わっていない。宣伝・販促活動の難しさが此処に在る。

2014年12月27日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #88.」 最初の大仕事はVANMINIの七五三キャンペーンだった。 その3.

 此処でヴァン ヂャケットの意匠室というものの存在をご紹介。もともと宣伝部には宣伝課・販売促進課という2つのセクションが在った。これは筆者が入社した時点での話だ。だから入社時の配属先は宣伝部・販売促進課に見習い採用となっている。そうしてその時点で宣伝部に意匠室というデザイナー達のルームが在り、当時のVANのイメージは殆どがこの部屋から生まれ出たと言って良い。正確には確認していないが我が上司軽部キャップもこの意匠室に一時籍を置いていたという。デザイン的な素養とセンスを持った人間がプランニングとディレクティングを行えばもう鬼に金棒だ。そういう意味からすると世の中に出て、最初の上司が軽部キャップだった事がどれほど自分にとって幸運な事だったのか、影響を受けたのか今になってみて大変良く判る。1978年にヴァン ヂャケット倒産後3つの企業に籍を置いたが、軽部キャップほどの幅の広い実務力のある人間にはついに遭えなかった。

 この意匠室に同期で入社した2名がいた。村田君と吉村君の2名、二人とも東京芸大卒でそれなりバリバリのアーティストだったが、彼らの普段の私服を見ている限りではVANのデザイン理念、トラッド・アイビーの歴史・根本理念をどれほど自分のものにしていたかは定かではない。当時の美大生なりアートを志している者達はキューバ革命のチェ・ゲバラだの、反戦フォーク・グループ達が好んで着て居た米軍放出品の戦闘服の古着などを好んで着て居たので、アイビー・トラッドなど価格の高いスタイルは好まなかった傾向がある。あのジョン・レノンでさえ米軍放出品を着て反戦ステージに立ったことがあるほどの時代だった。

ただ村田君は筆者と非常にウマが合った。それは英国マージービート、つまりリバプールサウンドと言われたビートルズを中心としたバンド達の曲を熟知していて、ヒットしていない隠れた名曲に関しても良く知っていた。それがまた、好きな曲がほとんど同じだったりするものだから、良く彼の席の横に行って話し込んだものだ。その都度リバプールサウンドなど少しも判らない先輩たちに「おい、シンジョー!学校じゃないんだぞ!」と言われて追い払われてしまった。しかし、30分もすると元の位置に座っている筆者を見て、そのうち何も言わなくなった。
The Beatlesと同郷Liverpool出身のGerry & The Pacemakers デビュー曲はビートルズ作詞作曲のHow do you do it だった。
   How do you do it ビートルズオリジナル(レコード発売せず)

※  How do you do it  ジェリー&ザ・ペースメーカーズ、デビュー曲
    https://www.youtube.com/watch?v=AQD-m2AQoXc     (Youtube)

 この意匠室のメンバーへの仕事の依頼は有る様でない様で、一応室長の渡辺薫さんにお願いすると「〇〇にやらせるから~」との一言で担当者が決まるのだが、大体においてブランドごとに担当者が決まっていたようだ。VANMINI、VANBOYSの担当は石田さんという年中ジーパンとワークブーツの大工みたいななりの人物だった。オジサンと言うより、お兄さんと言う感じで、デザイナー系としては異質のスタイルと言って良いだろう。もっともいわゆる美術系のデザイナーと言うより
、ノベルティ作りの職人と言った感じのほうが合っていたかもしれない。
 
アメリカの匂いがに強かったワークブーツ。今でも根強い人気。 Google画像


 VANMINI VANBOYSといった簡単明瞭で単純な売り場販売促進中心のキャンペーンであれば、気の効いた親も子供も、そうして販売員、得意先の売り場担当者が喜ぶ物を作って提供すればそれで済んだが、VANブランドやKentブランドはそう簡単にはいかなかった。VANやKentとも成れば売る側と買う側の年齢層がオーバーラップして来るし、なまじヴァン ヂャケットの社員よりはるかにトラッド・アイビーの世界にはまり込んで、商品知識あるいはウンチクに関して「歩くファッション辞典」のような人物も居た。特に名古屋以西、関西にはトラッド・アイビーがもう生きがいに近いような人物が現れ始めていたのもこの頃だ。

 つまり、Kentの顔と言われた我が同期の横田哲男君のような人間が、何人も出始めていたのが当時の関西の環境だったと言って良い。これは現在でもVANファンが名古屋以西に多い事でも良く判る。VANの昔のプレミアム、ノベルティをコレクションしている人も名古屋以西に多いようだ。
未だにコレクターが多いVANのノベルティ類のほんの一部。

 したがって、VANブランドやKentブランドのプレミアム・ノベルティの制作ともなると意匠室もそれなりの知恵を絞らねばならないし、雑誌やTVCMなどメディアでの告知を考えると不特定多数のVANファン、Kentファンがよだれを流すほどの魅力を作り上げねば成らない宿命を抱えていた。
VANも後期の傑作 アメリカっぽい味で人気。生産数が非常に少ない。

  やはりそういう中で、何をどのようなデザインで作って世に送り出すかの決定権を持っていたのが、宣伝部の下村課長と意匠室の渡辺薫さんだった。基本的にはプレミアム・ノベルティの制作予算は宣伝課ではなく販売促進課の予算枠だったがこの辺りは「阿吽の呼吸」で販促・宣伝の協調体制が上手く行っていたのだろうと思う。

 しかし、入社直後2~3日したある朝出勤してみたら、販促の部屋の中が滅茶苦茶になっていた事があった。天井から下がっているシーリング(明かり)は割れており、あちこちに破壊されたようなモノが散乱していた。詳細は怖くて新入社員としては訊ける状況には無かったが、前夜宣伝課と販促課の間でひと悶着あった事はすぐに課のスタッフの話で判った。酒を飲んで暴れたのか、まじめに大喧嘩したのかは定かではない。今もって秘密のベールに包まれた事件のひとつだ。

 話が道をそれたが、VANMINI VANBOYSに関しては、ワリに小生意気な新入社員の筆者も意見を言える部分があって、先輩達も何処かの経営者のように「やってみなはれ!」的に自由にさせてくれたようだ。逆に言えばそれほど注目されていなかったのだろうとも思える。
 ウエスタン七五三と云う事なので、当初はウエスタンが大好きな如何にもアメリカっぽいノベルティ、プレミアムの意見が意匠室から出てきたが、高島屋の石原一子部長や石津スミ子さんのアドバイスだから・・・と自分の意見を頑張って通して24色入りのクレパスや3本入りの鉛筆などを作ってもらった。
画材メーカーに特注で造って貰ったVANMINI特製クレパス24色入り。

ノベルティとして3本入りの木の地肌を生かした鉛筆セット。

 心のどこかで、小さい時の運動会の上位入賞者への賞品が浮かんでいたのかもしれない。結果からいうと大成功で、事前調査に行った成城VANKiKiの石津スミ子さんも大変褒めてくれたし、勿論日本橋高島屋の石原さんにも再び「ムンギューッ」とハグされてしまった。アドバイスを直ぐにきちんと反映した事を褒めてくれたのだった。お客様からは当然「もっともっと!」のリクエストだった。

2014年12月26日金曜日

川辺川のヤマセミに新しい伴侶が出来た模様。  The Crested kingfisher of Kawabe-river got new partner !

 川辺川中流域のあるヤマセミファミリーは今年の春先繁殖期に、青大将が巣に入りオス親残してメス親と卵もしくは雛全て呑まれてしまい、全滅してしまった。それ以降、事在るごとに地元の熱心なヤマセミ・ファンの美人母娘ほか数名の方々とこの残されたヤマセミのオス(川辺川太郎と命名)のその後の行動を見守ってきた。

 惨劇直後の落胆振りは、対岸70mの距離に留まっている姿を観ていても、人間であるこちらも思わず慰めて声を掛けずには居られない状況だった。そのうち隣の縄張りで繁殖後の子育てをしている別のファミリーの様子を遠くから羨ましそうに観ている姿が2ヶ月ほど続いた。時々、その子育て中の親鳥から追い立てられる姿も記録してある。

 その様子が変わったと言う連絡を受けたのが9月過ぎ。どうやら独りぼっちになった川辺川太郎をめぐって、今年生まれたメスの若鳥同志、あるいは母親とが連日争っているようだとの事。早速現場に観察に赴き、数日間観察を行い、再び今回12月その後の様子を観に行ったら、立派な嫁を従えた川辺川太郎が目の前を誇らしげに飛びまくってくれた。これらの過程は次回出版予定のヤマセミ生態写真集に収録掲載を予定している。
太郎が前を引っ張り、新しい伴侶が後から追う。

この場所は昨年以前から太郎の縄張りで、一人で守ってきた場所。
 
太郎自体はこちらを既に認識しているので、随分手前まで飛んでくる。

光線の具合で色が悪いが、飛び回る姿を縦方向から。

晴天時は空が写り込んで色が出ない。苦しい撮影だ。

10~11月はこのようにペアリングを確かめる様に仲が良い。時には確認の意味で、求愛給餌のようなことまで行うのがこの時期の特徴。



2014年12月25日木曜日

人吉でオシドリの群れに遭遇。 You can see Mandarin duck at Kumagawa-river in Hitoyosi area.

 最近人吉界隈にオシドリが増えているようだ。2010年からヤマセミを観察に行くようになって、大体11月下旬から球磨川の峡谷部入口の「渡」付近で沢山のオシドリに出遭えている。同時に川辺川では春から初夏に至るまでオシドリが数羽の群れで居付いているのを確認している。7月の撮影記録も残っているので、ひょっとすると奥日光戦場ヶ原の湯川のように通年で生活しているのかもしれない。

 東京都心でも、ど真ん中の新宿御苑で今年も11月下旬に確認している。

川辺川の上流に近い中流域、警戒心は非常に強い。

1月頃には川辺川のこの場所でのオシドリのディスプレーを動画記録できた。 

渡(わたり)の下流部岩礁地帯では時に30羽ほどの群れに出遭える事がある。

上流に向かって全力で飛ぶ群れに遭遇、あわてて車の窓から撮影したもの。

水面に浮いている時とは随分違うイメージで、力強く飛んで行った。

なかなかこういう場面に遭遇は難しいが、行かねば逢えないのもまた事実。



2014年12月24日水曜日

急流球磨川の絶壁でハヤブサ! I found out Falcon at the cliffs of the Kuma River.

 市房山の中腹から流れ出る球磨川は非常に多様な流域風景を持っている。川幅150m以上にもなる人吉盆地を過ぎた後、峡谷エリアに入り断崖絶壁に囲まれた激流エリアが暫く続く。この激流エリアの絶壁でハヤブサの営巣を観察した。人吉の伝説的野鳥ウォッチャーの案内で初めて視ることが出来た自然の驚異だった。

 都会のマンションの空室のベランダで繁殖するなどというテレビのドキュメントとは違い、人跡未踏の地で本物の自然の中で繁殖する隼を観察できたのは幸運だった。川の流れから40mほどの高さだろうか、絶対に人間は行けない環境。四足の動物もまずオーバーハングした絶壁なので上からも横からも行けまい。物凄い場所に営巣すると知った。

 以前、人吉市内の矢黒の崖でいきなり巣立った隼を間近で見たが、それに似た環境だ。距離が遠く、500mmでは限界の外なので画像は醜いが観察画像とご勘弁願いたい。こういう場合は飛んでいない画像に限ってデジスコが有利だと思う。
現場について10分間目を凝らして営巣場所を双眼鏡で探したが、結局肉眼が早かった。

こう云う時はやはり肉眼視力2.0が有利に働くようだ。最初の場所での画像。

巣と思しき場所は上を岩の自然な屋根が覆いかぶさっていた。

距離100m以上なのでやはりちょっと遠い。

3番目の羽根休めの場所は一番近い、少し大きく撮れた。

飛び立ったハヤブサ。悠然と旋回しながら近づいてきた。

勿論向こうからは丸見えなのだろうが、脅威を感じていないのだろう、真上を3回舞った。

黄色い脚をたたんで様子を視るように旋回して絶壁に戻っていった。



2014年12月23日火曜日

改めて、クロツラヘラサギの美しさを知る! What a beautiful Back-faced spoonbill is !

 今年は初春と年末にクロツラヘラサギをじっくり観察できて最高の一年だった。今日からは今年であった野鳥の画像の中から自分のお気に入りを再度紹介。半分はまったく新しい別カットでアップしたい。数が順調に増えつつあるクロツラヘラサギだが、韓国での繁殖サポート活動などアジア各国での地道なボランティア活動が実を結びつつあるのだろう。出水のツルなど鳥インフルエンザの影響を受けずに順調に増えて欲しいものだ。

 クロツラヘラサギと最初に遭遇したのが2010年頃沖縄の漫湖だった。次に八代市の球磨川支流・前川河口の中洲。そうして鏡川河口の暴風柵。鹿児島県出水市のツル飛来地の傍の河口部で3羽遭遇。4箇所で遭遇したわけだ。

 特に今年11月の遭遇では、一旦内陸部に飛んでいった若鳥2羽がヒドリガモ4羽に周りを囲まれるように不知火海のほうへ上空を飛んでいく様を見て驚いた。クロツラヘラサギと他の野鳥の混合編隊飛行など初めて視た。偶然なのかヒドリガモたちが迷ったクロツラの若鳥を誘導したのかは判らない。実は良くある事で、筆者が勝手に感動しているだけかも知れないが・・・・。
画面には入っていないがクロツラの後ろにも2羽ヒドリガモが併走している。

しばし見とれてしまった。

ヒドリガモに誘導されて海へと飛ぶ姿は初めて視た光景だ。

暴風柵から飛び出しの瞬間!

やはり最初は目一杯羽ばたいている。

海とは逆方向へ飛んでいく若鳥。

たいてい2~3羽で少数群れを作って飛んでいく。

皆、寝てしまっているとこういう絵は撮れないが、ラッキーな事に起きていた。

飛び立つ順番はまだ良く判らない。事前の準備があるようだ。