2014年11月1日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #80.」 VAN宣伝部・販売促進課の朝は早い。

その昔、1972年頃のネスカフェというインスタントコーヒーの宣伝に「アムステルダムの朝は早い・・・。」と言うのが在った。バックにはロバータ・フラックの「やさしく歌って/ Killing Me Softly with His Song」をネスカフェに歌詞を替えて歌うという、非常にお金を掛けたCMだった。
 このアムステルダムを「青山通り」に替えて「青山通りの朝は早い・・・。」とか言いながら、毎日朝早く始業1時間前に青山3丁目に出社するのが入社からすぐの自分の日課だった。
 三鷹から原宿まで国鉄に乗り、原宿の駅から表参道の並木道を青山通り246まで歩いて、左へ折れて青山3丁目まで歩くのがルートだった。
※ネスカフェCM= http://www.youtube.com/watch?v=yhcKDjcJu7o YouTube
     残念ながらこの映像には「アムステルダムの朝は早い・・」は入っていない。

 この、表参道を毎朝歩くと言うのは、当時の世相とファッション情報を吸収するのには最適のコースだったようだ。丁度1973年は塩素で強力に脱色したブリーチアウト・ジーンズが流行り始めていた頃で、男の長髪、プカシェルという白い小さなゴミみたいな貝殻を数珠繋ぎにしたものを首に巻くのが流行っていた。言って置くが、当時のブリーチアウト・ジーンズは、此処数年前から流行ったワザとひざ小僧や太ももの部分をすり切れさせた様な古着タイプではなく、もっと品の良い清潔な物だった・・・着ている人の品格はともかくとして・・・。
強制漂白のブリーチアウト・ジーンズ。ブルゾンと上下で着こなすものが多かった。何故かポロシャツの襟を立てて着こなす流行もこの頃から始まっていた。今でもまだやっている人を見かける。

プカシェル、サーフィン風俗から発生したのだろうか?

 たいがい、そういうスタイルで粋がっていたのはコピーライター、デザイナー、イラストレーターといった横文字職業のハシリのようなクリエーターが多かった。 しかし青山通りの表通りを闊歩する大半は外観だけ真似たニセモノ達だった。 そうして、なおかつそういう人たちが小脇に抱えていたのが何故か決まって小さな皮製のポーチだった。勿論VANの社員にはそういう格好で出勤する者など一人も居なかったが、たった一度だけ石津社長がまさにその格好でいたのを観て腰を抜かした事がある。たぶん何かの取材で特別の事だったろうとは思うが・・・。
 
 既に、気の効いたクリエーターや、全盛期を迎えていた雑誌メディアの編集部に出入りしている人種が、好んでこの表参道の裏側のアパートやマンションに住み始めていた頃だった。朝はそういう人種たちが最先端のファッションに身をまとい、昨日のゴミを自宅から外へ抱えながら出て来るといった情景が垣間見られた頃だ。時には朝早く、ドブ板を細い尖ったパンプスのヒールで踏み抜きながら、ものすごく高そうな毛皮をまとったモデルのような女性が、よろけながら表通りに出てくる場面に出くわした事もある。
明治通りと表参道の交差点にあったセントラルアパート、クリエイターの事務所が多かった。VANの時代にも何度か出入りしていた。 Google画像

今は無い原宿・同潤会アパート、毎朝この横を通った。 Google画像

毎朝の通勤路が表参道というのも、素晴らしい環境だった訳だ。Google画像 

  表参道界隈は朝と夕方で景色がガラッと変わる。通りを歩く人種もファッションも替わる。朝は一人で動く人ばかりだが、夕方から夜に掛けては2人連れのカップル、あるいは3~4人のグループで溢れるのが表参道の並木道だった。まだ当時は坂の下の明治通りの近くまで行かないとお店の類は多くなく、既に全国に名をとどろかせていた原宿キディランドや、入社翌年1974年に開業したパレフランスなどの辺りが若者のたむろするエリアだった。まだ竹下通りは単なる住宅街の通りで、国鉄原宿駅に近い辺りに「原田」という輸入物を扱っているシャツ洋品店があって、アンアン、平凡パンチ、メンズクラブなどのファッション系雑誌が、この店で扱っているウエスタンシャツなどを盛んに取り上げ始めたのがブームの走りだと思う。

 輸入盤専門店の原宿メロディハウスが明治通り近くにオープンしたのも、ちょうどこのVAN入社の頃だ。ちょうどRaspberrys=ラズベリーズというバンドが流行っていて、その年にリリースされた面白い凝った形のLPジャケットにラズベリーの甘い匂いが付いていたらしく、やたらと店内に甘い匂いが充満していたのも覚えている。白いレンガのマンションの一階で、白い紙にMelody Houseと書かれた袋を何度も小脇に抱えて青山の帰りに立ち寄った。
Raspberrysのレコードジャケットは斬新なデザインだった。曲も勿論最高だった!

ジャケットを開くとこうなっていた。

 この、竹下通りから明治通りを挟んでまっすぐの道沿いにGIMというニットのメーカーが社屋を構えていて目立っていた。この辺りに「かまち潤」と言う音楽評論家というか、オールディズの洋楽コレクター兼オーソリティが居て一時お付き合いした事があった。たまたまこちらもLPの輸入盤コレクターのヒヨッコだったので、誰かの紹介で知り合ったのだった。既に有名だった木崎義二氏とか、同い年の大瀧 詠一氏とか音楽界の著名人と一緒に発行していた同人誌「POPSYCLE」と言う本の編纂を手伝った事があった。この辺りの話は永くなるので、もう少し後にしようと思う。素人ながら2~3冊の本が書けてしまう程の資料とレコードコレクションが在るので、話し出したら止まらない。 
 
 ともかく、毎朝1時間前に青山三丁目角のVAN本館3階へ出勤して、パンチカーペット敷きの床にローラーを掛けるのが新入社員の朝の始まりだった。灰皿のタバコの灰を捨て、洗って布巾でぬぐって各デスクに置く。そうして販促課員全員のデスクを観察してどんな雑誌、どんな本を読んでいるのかを探った。同時に嗜好品をチェックして、それぞれがどのような趣味思考を持っているのかを推察した。
 たとえば若林ヘッド(決してヘドではない)、彼は人事的な肩書きとしては課長だが、VAN社内では常時一般的にこういうアメリカっぽい呼称だった。彼のデスク上にはアメリカの洋雑誌エスクワイヤーが置いてあり、NHLというアルファベットの盾のようなものがいろいろなマークとともに幾つも置いてあった。音符のマークやペンギンのマーク、ワシだか鷹のマーク、Bとアルファベットが黄色と黒で大きく描いてあるモノもあった。訊いたらNational Hockey Leagueの事、つまり全米アイスホッケーのプロリーグの各チームのマスコットだった。
NHLのアイスホッケーに関してVANはその後も大きく関わって行く事になる。

  安達さんと言う先輩のデスクは、まるでウエスタン雑貨屋さんの店頭のようだった。ウエスタンブーツにライターが埋め込まれている物とか、木彫りのカントリー風の農夫の人形とか、南北戦争のときの南軍の旗のミニチュアとか、きっと説明でもさせたら1時間でも2時間でも一つ一つに関してのうんちくを語りそうな気配だった。
このころの東京にはウエスタンショップが出来始めていた。

  こうして、隣のハートのマークの第一勧業銀行の更に隣の果物屋で買ってきた、グレープフルーツの皮を剥き、ラジオから流れてくるFENの朝のミュージックを聴き、窓の下の青山通りを行きかう人々を観察しながら、まだ他にだれも居ない始業前の販促課の時間を毎朝楽しんでいた。今考えても、自分の人生で一番ゆったりとリラックスしていた時間だったのではないだろうか?

 入社して2週間が経った頃、こういうことがあった。いつものように1時間前に出社して床にゴミ取りローラーを掛けていたところ、大きな真っ黒で油ぎったゴキブリが出てきた。こりゃ大変!ローラーで押さえ付け、テイッシュペーパーに包んでから叩き潰して捨てた。以前此処に人事課が在った時から居たのだろうきっと。冷蔵庫とかがあるし、流しも傍にあるのでゴキブリが居てもなんらおかしくない。で、次の日同じ様にローラー掛けをしていたら、又ゴキブリが出てきた。昨日のより少し小さ目の色が茶色の奴だった。「まだ居たのかコイツら!」と同じように処理をして捨てた。
 それから2日して又朝掃除をしていると、今度はとても小さなゴキブリが出てきた、茶色いが首の辺りに白い横帯が入っている。こいつは小さいので簡単に雑巾でひっぱたいて殺そうと、手を上げた時に思った。ちょっと待てよ?ひょっとして最初に殺したのがお父さんゴキブリで、次の日に殺したのがお母さんゴキブリだったのではないだろうか?両親が死んでしまって餌にありつけないので、しょうがないから子供がノコノコ出てきたのでは在るまいか?それを殺してはあんまり可哀相だ。こいつはまだ小さいから大きくなるまでにはまだ間があろう。それまで慈悲を持って執行を猶予してあげよう。
左からクロゴキブリ、ヤマトゴキブリ、チャバネゴキブリ

 とても良い事をした気分になって、その日一日が楽しみになった。9時半を過ぎて皆が出勤して席に着いたとき、軽部キャップ(=CAP)に得意そうにこの話をした。笑いもせずジーッとこちらの顔を見ていた軽部さんがこう言った。「バカだなーお前ね?そのゴキブリ3匹全部種類が違うんだよ!」