モチベーションとは、AI検索によると「目標や目的に向かって行動するための原動力となる意欲や心理的エネルギー」を指す・・・と出ているが、いわゆるよく言う所の「やる気」とか「やり甲斐」といったモノだろう。
これは若い時には自分が熱中している事に夢中で自分自身ではモチベーションというモノに気が付かなかったり、意欲旺盛で当たり前すぎて、取り立ててその存在の「在る無い」は感じなかったものだ。
それが、30年以上仕事の世界で揉まれ、成功・失敗を繰り返し、年を取ると変わっていく。
特に己の意思とは異なる理不尽な力(勤め先の都合、上司命令など)でやる気、頑張る心を揺るがされる事も多々経験し、現役を卒業しリタイヤした瞬間から「やる気」の世界が大きく変わってしまう事は数多くの人から聞いた話だ。
基本的に企業のサラリーマンとして働いてきた団塊世代は、ある意味会社が利益を上げるための歯車の一つだった。もちろん基本的には自分の給与の為でもあるが、愛社精神(山一証券が破綻する前、昔はまだあった)の元、勤務する自分の会社(=企業)が金儲けをするために一生懸命汗水たらして働いたのだ。
どんなに「良い事、凄い事」をしても、会社に金銭的な利益をもたらさねば決して「良い評価・高い評価」をされなかった。
筆者は大手広告代理店時代、自社の営業セクション・デスク(庶務・管理)の女子社員が「あの人は沢山仕事を取ってくるから凄い、優秀だ」という言い方で営業マンを褒めていたのを聴いてゾッとしたことが有った。
筆者のようなスタッフ部門(プランニング・クリエイティブ系)で、縦系列の上下関係が少ないディレクター職としては、とてもなじめない考え方だったのを記憶している。
この言葉を聴いた時は、何千人といる社員皆がなんだかチャップリンの映画同様、働きバチや働きアリに見えて仕方が成らなかった。
筆者の家庭は子供三人で決して裕福ではなかったが、日常暮らすにおいてお金に困るようなレベルではなかった為か「金儲け」という言葉や考え方にはトンとご縁が無かった。
世の中にはお金などよりもっと大事なモノや事がある・・・と母と共に「日本幼稚園史」を編纂した祖母(新庄よし子)にも育てられ、そう思って生きてきた筆者だった。
したがって同世代の人々のように高い給料をもらうために、有名一流大学に入り、一流企業に入って出世して管理職へ・・・というような願望は非常に薄かったように思う。
父も言っていた。「管理職ってのは、現状維持・管理するしか能のない人がやる仕事」と言っていたのを真に受けたのだろう。
だから現役で入った早稲田大学の教育学部の大教室・講堂での授業の学生数の多さを見て「こいつらとこの先も狭い器の中で学ばなきゃならないのか?」と思い数週間で辞め、阿佐ヶ谷の美術専門学校へ入ったのだ。
昭和のど真ん中生まれで一番人数の多い団塊世代だから「人と同じじゃ、碌な事に成らない」と思ったのだろう。
例えば所ジョージがこんな事を言っているのと非常に似ていたのだろうと思う。
しかし、結局卒業就職の1年前の時点で就職相談に行った先輩の「良い仕事にありつく為には大学だけは出ておいた方が良いぞぅ?」という一言で横浜の大学に入り直したのだが、結果は良かったのかどうだったのか、今に至るまで良く判らない。
こういった若い頃のモチベーション、やる気、意欲はありとあらゆる事に向けて強かったと記憶している。自分の行動、活動に直結していたのは間違いない。
小学校、中学校時代はあまり感じていなかったが、高校に入ってからはやたら多くの事に「やる気」が出ていたと思う。バレーボール部活、真空管アンプ作り、ビートルズのコピーバンド、エレキ演奏、VANを中心とするアイビールック、週刊誌平凡パンチの表紙(大橋歩のイラスト)を切って作る定期入れ・・。受験勉強という事などよりその他の「活動」に夢中になっていたのは間違いない。
ドラエモンじゃないが、ポケットの中には得体のしれない「やる気=モチベーション」が高いレベルでたくさん入ってたという訳だ。
それが、70年以上生きて最近思う事なのだが、周りで起きる些細な事象でその日一日、その一週間の「やる気=モチベーション」が変わる事に気が付き始めたのだ。
応援する相撲取りが負けた、応援する野球チームが負けた・・などの理由で酒を食らい暴れる者の心理なり行動をNHKの番組が詳細に報じていたのを観たことが有る。
これを自分に当てはめてみたら、意外に「気になる事」で己の気分の上下が影響していることを発見した。
2006年頃から写真撮影の被写体に「野鳥」というジャンルが増えた。特に2010年頃からは熊本県の人吉市を中心とするエリアで「山翡翠=ヤマセミ」という希少種(1㎞四方に1つがいしか生息しない)に魅かれ、2020年に至る10年間人吉市に300泊以上して撮影観察しまくった。
これに夢中になっている頃は、ヤマセミとカワセミが並んで飛んでいたり、ヤマセミが大きなカラスに追われる場面を連写で撮れた際など「これでモチベーションが1年は続く!」と大喜びしたものだ。
天体撮影に夢中な方が、先日の皆既月食を撮れたり、スカイツリーに満月が重なった瞬間を撮れた際に得られるモチベーションにも似ているのだろう。
ある意味馬券を買って大当たりした際の悦びや、株価が上がって儲けた際の悦びと同じかもしれないが「悦びの質」が全然違うと思う。
「努力・苦労」の結果の「悦び」と、偶然のたまものの「ラッキー悦び」では次への行動に対する影響が全然違う。
これらに対して、日々の万象で微妙に自分の気分が上下する事を知った。
① ドジャースの大谷選手がホームランを打った日と、無安打に終わった日。
② NHK朝ドラ「あんぱん」で感動を受けた日とショックを受けた日。
③ 初めて入った街中の飲食店で超美味しい料理に出遭った日と逆の日。
・・・他愛もない「事象」なのだが、こんな事で自分の気分の上下を感ずるようになったという事で、団塊世代は自分が年を取ったのだなぁと感ずることが多いのではないだろうか?