2018年3月25日日曜日

団塊世代は50年間床屋を替えないのだ! The baby-boomer generation has not changed barber for 50 years!

 筆者が三鷹に移り住んだのは1968年からだ。父親が勤務先十條製紙(現日本製紙)の北区西ヶ原の社宅マンションから上連雀に購入した一軒家の建売住宅へ引っ越してきたのだ。同居する祖母の離れを増築して実際入居したのが春頃だったと思う。未だバス通りは砂利道だった。

 移って1カ月も経たないうちに床屋へ行った。髪は1ヶ月経つとやたら伸びるから仕方がない。筆者は母親のDNAのお陰で髪は今でもやたら多い。歳のせいでゴマ塩に成り、少し柔らかくなったものの未だに多く、少し伸びるとウザったい。妙な癖っ毛で、5cm位までは直毛なのだが、それ以上伸びるとうねりとウェーブが出て見た目が女々しくなってしまう。だから基本的には高倉健(角刈りではない)さんほど短くは無いが、ずーっと今でも5cm限度のボストン・クールカットだ。
 ちょうど米国のTVドラマNCISのニック・トーレスの髪型のようなものだ、勿論もう黒くは無いが。 

 高校時代・Beatlesのコピーバンドをやって、文化祭でもトリを取って結構受けた。勿論メンバー全員少し髪を伸ばして前髪を垂らし、ビートルズ気取りだった。しかし筆者だけは三銃士のダルタニアンみたいに成ってしまうのでカッコ悪かった。
 ベースギター持つ代わりに、サーベル下げたら?とか言われてムカついた。

 脱線したが、要は三鷹の住み始めた近所で床屋を探さねばならない!山中住宅のバス停傍に一軒床屋が有ったが、直感的に「駄目印」だった。理由を述べよと言われても困る、外からちょっと覗いただけでラーメン屋に入る・入らないが決まる理由に近いかも知れない。直感的なものだ。

 200mほど歩いた所、山中住宅の商店街が切れた先に一軒床屋が在った。何故かスーッと入れた。勿論その時はこの先50年も通うとは夢にも思っていない、まだ19歳だったし。

 阿佐ヶ谷美術学園と駿台予備校の両方に通っていたからその後大学に入ってからより忙しかったかもしれない。翌1969年の春大学紛争・学生運動のピークが過ぎた年に横浜国立大学に進みサッカー部に入った。毎日練習で、横浜南太田駅から上った清水ヶ丘の関東ローム層赤土を頭からかぶり、砂や泥を頭皮に目一杯乗せたまま石井理髪店に行った。

 その後、社会人になりVANに入ってアイスホッケー部でフォワードをやり、汗の塩が額にこびりついたまま石井理髪店に行った。その後広告代理店に転職してウインドサーフィンに夢中になり、頭髪は塩だらけ、下手をすればホンダワラの破片や小エビの死骸を乗せたまま石井理髪店へ直行したかもしれない。そう、筆者は昔からシャワーや風呂が大嫌いだったのだ。勿論温泉に長く入るのも嫌いだ、それは今も変わらない。

 この酷い砂だらけ、塩だらけの失礼なお客にただの一度も文句を言わなかったのがバーバー石井の御主人、石井さん。いつも思うが仏様のような理髪師だ。

 筆者が帰った後、大声を上げて「バカヤロー、鋏が錆びちゃうじゃねーか!」「ざけんじゃねーよ!バリカン研がなきゃなんねーだろー!」とか言いながらタオルを床に叩きつけていたかもしれない。いや、そうに違いない。石井さんゴメンナサイ、許して下さい。

 50歳を超えたあたりから、色々な話をするようになった。江戸時代の髪結いでの世間話に近いかも知れない。石井さんの息子ジュニアも店に出て鋏を持つように成って余計会話は進んだ。とにかく明るいお店だ。親子仲良い、女王陛下(石井さんの奥さん)も勿論髪を刈る。

 この女王陛下は大の相撲ファン。明治神宮の年初の横綱奉納土俵入りに必ず行く。こちらは高校時代の仲間とたまたま二度ほど観に行った際目撃され、次に石井理髪店へ行った際「目撃談」で話題になった。
 
 かと思うとお巡りさんにめっぽう強いそうだ!何か不条理な事があると平気で警官に啖呵切って立ち向かうらしい。強いのだ。肝が据わっている、肝っ玉母さんなのだ。明るい家族で立派な跡取り息子を育てた石井理髪店、この先死ぬまでお世話になると決めている。今時なかなか居ないファミリーだ。

 その昔、VANに勤めていた頃石津謙介社長に教わった。「関東のお客は節操無いが、関西人は床屋と飲み屋と洋服屋だけは贔屓になったら絶対変えない。」だからこれを守り続けている。筆者は良いお店に出遭えて幸せかもしれない。床屋さんは一生ものだ。
照れ屋でシャイな石井さん、髪を刈らせたら勿論日本一だが蘭の花の生育に関してもプロ級!都心の飲み屋などでお祝いに届いた蘭を枯らしてしまった鉢を貰ってきて、理髪店の屋上で見事に再生させるとんでもない技術を持っている。手先が器用でマメじゃなきゃ出来ない事だ。

後ろはご自宅!立派なものだ。

右はジュニア、写真撮影が好きで、やはり親譲り手先が器用なのだろう。

愛用のドイツ・ゾーリンゲン・ヘンケルのカミソリ。1960年代は相当高価だったと思われる。

もう今はあまり無い髭剃り用ナイフ研ぎの革製品。多分開店当初からのモノではないだろうか?TOKYO KINTAKAと銘が打って在った。

51年間歴代の鋏(はさみ)何度も研ぎに出したのだろう。

今日は店内の3台の椅子が満席だった。勿論筆者の「人吉市の山翡翠」をはじめ写真集は贈呈させて頂いており、お客さんが気に入れば差し上げて頂いている。