2024年4月28日日曜日

団塊世代は動物学的に視て今の少子化問題を非常に危惧している。 From a zoological perspective, the baby boomer generation is extremely concerned about the current declining birthrate problem.

  1945年の8月15日以降、日本の戦後色々なそれまでの常識が覆った。我々1947~50年に大量に生まれ育った「団塊世代」は、もろにその大きな変化の中で育ち、「自由・平等」という事を学校でもいやというほど叩き込まれている。

 教える方の親や学校の先生は、それまでの常識=修身の授業で学び、親・先輩・年寄・先生・上司を敬い戦前の古いどちらかというと封建的な秩序をもって生活してきた。

 それが敗戦の混乱、戦勝国アメリカを中心とする当時の西洋の「自由平等」が一気に入り込み、今までの常識や生活基盤が逆転し、それまで正しいとされてきた事(法律・ルールや身分の上下・マナー・一般常識)が180度覆ってしまったのだ。

 特に子供を教える教育者・先生たちは精神に狂いを生ずる者が続出したと聞く。だからこそ集団心理を使って合宿・強制的に洗脳する後の1970年初頭に発生したBE研修などに近いものがあちこちに生まれたと聞く。参加者の話は聞いたし、自殺者が出たという情報も聴いた。筆者自身1970年代~80年代初頭に所属していた企業の命令で参加したこともあった。

 しかしあまりにその高圧的な内容、上から目線の強引な指導法が納得いかないので講師をつるし上げ散会させてしまったが、決して尋常な場ではなかった。

 価値観や人生観が終戦と共にひっくり返った事で、それまで鬼の様だった上司・上官・先輩・親兄弟に対する恨みを込めての反撃・仕返しなどが全国で横行したという。

 これは秩序を重んじ人間的に穏やかな日本人だったからこそ、当時それほど大きな暴動や内乱が起きなかったのだと世界の学者が後に述べている。「血のメーデー」や「闇市での混乱」など新聞やラジオといった当時のメディアを賑わす事件もその程度で終わったのが世界中で驚きをもって受け入れられたようだ。

 団塊世代はその騒ぎがある程度収まって、「さあ、子供を産んで増やして国の力を増強し、国を再建するのだ!」と国を挙げて前へ進んだ時代に生まれている。

 街中には子供が氾濫し、学校のクラスはあっという間に二桁迄増えた。筆者が親の仕事の転勤都合で通った4つの小学校では国立大学の附属小学校の2校を除けば、それぞれ10クラス12クラスもあった。中学に入っても変わらず、当時住んでいた熊本県八代市の市立中学校では11組、(のちに12クラスに増加)もあった。

 単身上京して世田谷の区立中学では6組だった。今時、そんな中学校どこにある?

 

 要は何を言いたいのかといえば、戦後日本再建の時代に”生めよ増やせよ!”と国を挙げて進んだ我が国日本が、なぜ今それを出来ないのかという事への疑問を言いたいのだ。

 政府の少子化対策、昨日の読売新聞の様な堤防の水漏れ箇所を応急措置で埋めるような程度の対策では全く無理だろうと思うのが筆者の意見だ。

昨日の読売新聞朝刊

 子供の頃から一対(=2人)の男性(=オス)と女性(=メス)が2人の子供を作り育てるだけでは、「自然淘汰・病気や事故によりその種(=人口)はどんどん減少してしまう」という事実を教育し「常識化」しなければいけないのではないだろうか?

 産みやすくするとか、費用負担の便宜とか、人間としての繁殖条件を整えるのももちろん重要だが、子供を作り育てるという行為そのものが「自由に生きる=自分の好き勝手な都合を軸にする生き方」という事などよりもっと根本的な人間として最低限の生きている責務・義務であることを子供の頃から教えない日本の教育が間違ってたことの証明では無いだろうか?今の日本の現状は。

 我々団塊世代は女子24歳まで独り身だと親類縁者が「行き遅れ・恥ずかしい・世間体が悪い」とかいう事も一般常識としてあった。高校の1967年卒業・同級生女子は殆どが合法的・非合法であれ事実上の結婚(=繁殖活動を含む)をしている。

 それが21世紀に入ってメディアを含めて本人の自由を尊重しすぎたが為、いま日本は結婚をしない、あるいは結婚しても子供をもうけない風潮が高まっているのではないだろうか?

 今、親や親類縁者が「早く嫁に行きなさい!」などと言うと、メディアなどが火が付いたように即ハラスメント扱いで騒ぐが、その結果が今の日本だという事、メディアや当事者はどう思っているのだろう?気が付いていないのだろうか?


 自由平等の考えが入ってきて、あっという間にメディアの力、学校教育の力で「人間は皆平等、自由なんだ!思う通りに生きて良いんだ!ちょっとでもその自由を邪魔する言動・行為はハラスメントだ!」が日本人の新しい常識として定着して久しい。

 しかし筆者は思うのだ「自由平等という事と好き勝手していい・・」は違うのではないだろうか?動物の一種として「子孫を残さないと絶滅へ向かうんだぞ?」というのは間違いなのか?現在のメディアや社会は公平にモノを考えていないのではないだろうか?

 朝太陽が東から上り、満月の時期はそれに対応して月が西に沈む。雨が沢山降れば川になって流れ洪水をおこし、山肌を崩し谷が切れたところから先は扇状地になる。火が発生し火事になれば皆燃えて灰になる。

 これら天変地異と同じく動物の世界では「繁殖力が低下すればその種は絶滅する」これはまぎれもない事実なのだ。動物である限りオスとメスが存在し繁殖して種の保全を保っているのだ。メスとメス、オスとオスでは子は生まれない。またどちらか単独でも子は生まれない。この真実を生物学者たちは何故声を上げて訴えない?

 動物学的にオスメスの区別がつかないミミズや、基本はメスながら繁殖期においてだけオスに転じ子どもを産む爬虫類がいる。しかし全生物の中でこれは異端なのだ。絶対数も全生き物の数の中ではノイズ程度しか存在しない、さらに哺乳類では非常にマイナーだと聞く。

 当然ながらそういった種は絶滅危惧種だ。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64461000R01C20A0000000/

 お断りしておくが、あくまでこれは動物学的に証明されているそういった「非常に珍しい生き物」すべてに共通する特徴を述べている。決して動物本人たちは好きずきでそういう機能を持っている訳ではない。生物学的にそういうDNAの元、細々と生きてきたのだ。

 しかし人間の場合は全くこういった特殊な生殖機能を生理的・物理的に所有している希少稀な種ではない。他のほとんどの動物・アニマル同様完全に性格も生物学的外観も裸にすれば全く異なるオスとメスの二種から成り立つきわめて標準的な動物だ。もちろんオスとメスの生物的機能も違えば本能的性格も違う。

 

 今、人間・人類は「自由」という名の元に精神的理由で動物学的性別を自由に自己申告出来る・選べるという方向へ進んでいるように思える。

 前出の動物的先天的繁殖(生殖)機能を無視して「精神的理由」のほうを尊重し、勝手に性を替えたり、オス・メスあって初めて成り立つ繁殖を回避し始めている。

 夫婦で家を空けて稼がねば生きていけないからという理由を盾に、子育てで泥まみれになる苦労を嫌がり、子供を設けない男女の生き方が増えている。メディアもまたそういった生き方を新しい男女のカタチと称して後押ししているような気がする。

 これって共稼ぎしながら、苦労しながら立派に子供を育てている多くの人達に失礼だと思わないだろうか?

 人間は他の生き物とは違うんだから良いんだ・・という考え方は「驕り」以外の何物でもない。自分個人の自由勝手のお陰で種の滅亡へ突き進む人類・人間としての少子化問題、少しは考えても良いのではないだろか?当事者とメディアの諸君!

 東から上る太陽を「気分が違うから、精神的にストレスを感ずるから西から上げたい」と言っているに等しいと筆者は思う。生き物の先天的機能を「自分の気分や考え方の自由」を盾に無視する生き方をして良いものだろうか?

 筆者は大変疑問に思いながらここ10年の世の中の動き、メディアの報道を憂いてきた。

 昨今のメディア報道はそういった生物学的な裏付けのない、新しい個人の自由をベースに動物学的に決まっている性別を無視した考え方・生き方を、さも「今や一番新しい生き方なのだ」と後押ししているような報道を続けている。

 これは決して社会的な地位、職に就く際の男女差別、賃金格差の問題とは根本が違う。此処で筆者は昨日のブログに出てくる幕末会津の教訓「ならぬものはならぬものです。を取り上げたい。

 こう言った新しい動き・行動に少しでも自分の考え方・意見を出せば、セクハラ、パワハラ、マタハラと火が付いたように騒ぎ立てるメディア報道にも辟易している。

 きちんとした秩序や常識をもって生きている大半のサイレント・マジョリティは、今はまだ余裕をもって無駄な反論をせず秩序を乱すことなく生きているが、「ならぬものをならせよう」とする動きが目に余るようになった時点で反動が起きるのではと筆者は懸念している。

 


幕末会津の子供教育における「子どもへの什のルール」

 1990年代、「フリーター」という言葉と共に「好きな時に自由に仕事して、好きな時に自分の都合で自由に辞めて、自分らしい生き方を!」と個人の自由を尊重した就職の方法が流行った。リクルート社のFromAや他社のAnなどが全盛の頃だ。

 しかしこれは狭き一流企業の就職戦争を勝ち進んで社員(正社員)になった多くの者たちの権利と仕事への誇りと相戦う事になる。

 当然だろう?苦労して努力して狭き就職競争を戦い抜いて晴れて自分が目指す会社の正社員になったのに、好きな時に入り好きな時に辞めるという勝手な考えの社員(不定期・不正規採用)が増え、なおかつ自分と同じ給与・就労条件を主張するに至っては納得する訳がなかろう?

 入社時の就職戦線で何かが足りず「残念ながら選ばれなかった」者が不定期採用で入社し、後出しジャンケンの様な物言いで「不平等だ!」と主張するのは何処かズルいしおかしいと思う。

 国会議員や市会議員の選挙を考えてみれば判ろう?選挙で負けて落ちた候補者が臨時議員とかで後追いで議員資格を得られるか?得られまい?「落ちた」のだから。

 オリンピックでメダルを取れなかった敗者が後追いでメダル獲得者と同じ栄誉を貰えないのと同じで「ならぬものはならぬものです」なのだ。

 自由とはタダではないのだ。自由を主張し得るには大きなリスクと責任が伴うし、利益追求という最低限の目的を持つ企業の一員(社員)になるには、それなりの雇い主の条件に従うべき常識と心構えがあってしかるべきなのが世の習いではないだろうかと筆者は思う。

 人類の繁殖において「ならぬものをならせよう」とする動きは、まさにこれに近いものではないだろうか?

 メディアはもっと大きな目で、正しく世の中を理解し一部の偏った方向性のみを後押ししないように切に願うしだいだ。