昨年12月に満72歳を迎え、ほどなく今年の元旦を迎えた団塊世代の筆者。さすがにチョロチョロ動き回るばかりではなく、少しは物事を落ち着いて考えるようになった。今の所まだコロナには罹っていない(自覚上)し、老人くさい物言いだがお陰様で足腰も全く損傷・不具合無く、ほぼ連日一万歩以上を歩ける状況を保てている。
年賀状も例年通りPCでヤマセミ生態観察で行ったついでに熊本県阿蘇の外輪山で撮影した赤牛の画像を使って作成した。今までは官製のお年玉つき年賀状を画像処理印刷していたが、断捨離の一環として小学生のころから集めた記念切手をバンバン使う事にした為、オリジナルの郵便はがき印画紙で作成した。「年賀」という赤いハンコを押して・・。
メインの画像候補はいくつか作ったが、結局オーソドックスなものに落ち着いた。
今年の年賀状郵送で分かった事!昭和時代と物価の差があまりに激しいので、郵便切手の一枚ごとの値段が昔とあまりに違うのだ。今は60円~80円などの価格が多いが、昭和時代は5円~10円が多く、昭和45年以降は20円~30円が多い。21世紀になって急に切手の価格が上がっているが郵便料金の値上がりに準じているのだろう。切手の価格だけで時代を感じる歳になったようだ。これも断捨離のおかげ?
・・と、昨日ついに東京都の新規感染者数が1591名となった。これを爆発的感染の始まりと言わずして何という?菅内閣はまたまた「緊急事態宣言」の発令タイミングを逸し「泥縄政策」を繰り返した訳だ。国も都も危機感の欠如と言わずして何と言う?これで現在日本で広がっている新型コロナウイルスそのものが日本国内で変異し、より悪い方向へ進んだ場合想像を絶する事態に成りかねない。
こういった、最悪の場合・・に対するシミュレーションをする気も、する能力も今の政府や都庁にはない様だ。メディアに至ってはもっと酷い。いつまでも手っ取り早い飲み屋の経営者の嘆きを流す事で「新型コロナウイルスの報道だ・・。」などと言わないで欲しい。メディアは飲食店、飲み屋のオヤジの嘆きよりもっと大切な報道ネタがあるだろう?
こうしたコロナ禍の中、72歳を越えた団塊世代の老化に伴う数々の以前とは異なる現状をまとめてみた。常にこういうことを気遣っておけば、ある日突然老人になったような気分に成らないで済むだろうという事。
年末年始のニュースで雪国における雪下ろしで多くの高齢者が命を落としている。こう云うニュースを見る都度「65歳や70歳になってまで屋根に上って雪下ろしなどするからだ、若い者に任せりゃ良いものを爺さんが・・と思った瞬間、そういう方々より自分は年上の爺なのだとハッと気が付くことが多い。自分自身72歳の高齢者である自覚がまるで無いのだ。これが一番危ない。それより高齢者自身が屋根からの雪下ろしをしなければ家が潰れるという雪国地方の過疎化が問題なのだ。
日本海側の豪雪エリアでは、気候が真冬は二階から出入りが普通だった時代に逆戻りしたのだろうか?地球温暖化とどういう関係なのだろう。一部では日本海の水温が高くなって水蒸気が増えたため雪の量が多くなったとも言っている様だが、それじゃ昔の豪雪時代も温暖化だったってことになるのでは?
一方筆者自身の事になると・・。
10㎏のデイパックを背負って駅への階段を二段上がりする勢いで、何に関しても「昔と変わらない」と思うのは大間違いだと最近気が付いている。デイパックには1㎏のラップトップPCに周辺機器、いざという時の救急薬(なぜかバンドエイドの使用が殆どだが)2種類のメガネのスペア、予備マスクのストック、筆記用具に歯ブラシ、そのまま九州へ行っても何の不自由もないような10㎏装備で都心を徘徊するのだから体力は結構使う。
でも最近2時間歩いたら一度どこかに暫く腰を下ろす癖が付いた。今までは家から出て戻るまで、どこかに腰を下ろすことはあまりしなかった。しかし徘徊訪問先のコンデジ画像を、行き先のカフェなどでPCからFacebookに投稿するようになって少し余裕が出たし、家に戻ってバタンキュー!が無くなった。
考えてみれば、世の中には団塊世代へそういう事を教えたり、注意したりするメディアもチャンスもあまり存在しない様だ。
肉体的衰えと同時に、記憶領域の衰退が目立つという。自分も多少その兆候はある。人と話をしていて有名人、友人、TVで見たあの人・の名前がすぐに出て来ない。
・・・というより何時まで経っても特定の者の名前だけ出て来ない。顔は浮かぶが名前が出ない・・お笑いのネタになる話だが、筆者の場合は時々そういう事もあるがまだ30名のうち1名程度で済んでいる。
あいうえお順に名前の頭文字を辿って浮かべると、たいがい一巡目に出て来て思い出す。連想ゲームででも浮かんでくる。出ていた映画、ドラマ、共演者、出ていたコマーシャルなどで・・・。
風呂に入りながら、山手線の駅の名前を一周したり、東京から高尾までの中央線の駅名、新幹線の東京から鹿児島中央までの駅名を唱えてみる。日によって詰まることがある、これで詰まるようだと体調が少し落ちているのか脳が少し鈍化したのだと自覚する。
今でも仲の良い古い友人は幼稚園の時から学年ごとに好きだった女の子の名前を順に湯船につかり指を折りながら言っていくのだそうだ。これで長湯しすぎてのぼせて危なくなったことがあるらしい。もっと凄い別の猛者は関係のあった女性の名前を順に上げていくのだと言って自慢していた。ある意味羨ましいが、温泉や風呂が好きではない筆者には元々ご縁のない話だ。
昭和初期までは歴代の天皇陛下の名を、神武天皇以来今上天皇陛下まで暗唱したらしい。これに似たようなものだ。いつの時代も脳の老化防御策はいくつも存在する様だ。
一方で、二階から一階へ降りて来て、「はて?オイラは何をしに階下へ?」と思う事が最近増えてきている。その場合は二階へ戻ると必ず思い出す。メガネの置忘れも過去を思い返すと、あるいは通った場所を辿ると出て来る。ヤマガラが冬の為木の実などを木の皮の裏・根元に隠すがよく覚えていると感心している。どちらかというとモズの早贄のように木の枝や棘に刺したまま忘れているようなタイプなのだろうか。(※注=早贄は最終的に消費されているが、刺した個体が消費しているか否かのエビデンスが無い様だ。)
先日など三鷹駅の蕎麦屋にクリスマスのポインセチアの鉢植え(プレゼント用)を忘れ、新宿駅まで行って気が付き、取って返して蕎麦屋のテーブルにそのまま置いてあったのを引き取り安堵した。昔はこういう事は絶対に無かったのだが、これも老化現象の一つだろう。今後も有るだろうからうまく付き合っていくしかない。そういう事も起きる年齢になったのだという自覚が大事なのだろうと思う。
朝のルーティン作業で、保温ポットにレギュラー・コーヒーを挽いて入れながら、トーストを焼いて、野菜サラダをボウル一杯に造り、同時並行で愛犬の餌を作る(温め)。狭いキッチンでこれらを短時間に並行して行う事で色々な平衡感覚や脳の感性を保っているつもりなのだが、結構効果はあるようだ。
暮れの12月に行った高尾山では、一人ではとても来られない高齢者や駅の階段もまともに昇り降りできない高齢者が頂上まで来ていた。勿論上へ行けるのはケーブルのおかげだろうが、少子高齢化の今、あと5年したらこの世の中は一体どうなるのだろうか?団塊世代が全員後期高齢者になる頃、日本の姿は一体どうなるのだろう?厚労省やメディアの関係者以上に当事者として先行きチョッピリ不安。