2015年12月31日木曜日

団塊世代の撮影者・本人にしか判らない「老い」との付き合い方 その5.「宗教2」 How to deal with the "old" not only to the baby-boomer generation, Part5 .

 仏教・お寺の住職、つまりお坊さんが江戸中期まで地域住民の生活に密接に結びついた情報源であった事は昨日述べた。他の地域、村・町・都等との交流がし難かった江戸時代中期までは早馬・飛脚などの情報交換の機能も限られ、庶民にはとても利用できるような金額のシステムではなかった。

 あの幕末、日本中(江戸以西の西日本だけだが)を縦横無尽に駆け抜けた坂本龍馬は、発見されたものだけでも百通以上に及ぶ飛脚便つまり手紙を書いてあちこちに送っている。姉・乙女や兄権平への文だけでも20通を超える。当時江戸ー長崎間の飛脚特急便の値段はとても庶民の手の届く金額ではなかった為、坂本竜馬が個人でこの金額負担は無理だったという観点から、実は彼は間諜、つまりある種土佐藩のスパイではなかったのか?という見方も一部ではあるようだ。

 話がそれたが、要は一般庶民の情報源が乏しい中で、近郊・隣村から都の最新情報(=例えそれが1年前の話でも)はこの寺の坊主からのモノが唯一無二だったのだろう。字も完全に読めて知識も豊富なお寺の住職が、檀家中心に寺子屋で庶民に徐を教え教育をすると同時に、その当時地域住民に対し「意図的な情報操作」しようと思えば幾らでもできたのではないだろうか?

 飛脚便などがまだ整備されておらず、文盲率も高かった戦国時代においては、更に情報操作により仏教が絡む争い・紛争が全国で勃発したのも納得できるような気がする。ちなみに明治10年(=1877年)の調査では殆どの県で識字率(読み書きできる率)は6~70%以上であり武士・町人上がりの者はほぼ100%であったと言うデータが在る。しかし都・江戸から遠い青森県・鹿児島県では20%程度で地域格差が大きかったようだ。

 これらの環境下で仏教が庶民に与える影響・役割は非常に大きかったと思われる。それが明治後期~戦後現在に至る文明の進歩普及、は現行憲法20条に規定されている「信教の自由」に集約され、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」「何人も宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。」により以前のように寺が檀家に物事を指示・強制できなくなった。同時に通信インフラのもの凄い普及により情報操作が出来なくなったが為、その存在意義と権威・影響力が急落したのだろう。

 つまり宗教と言うより寺自体の経営運営が、非常に困難な時代を迎えた訳だ。勿論70年前の第2次世界大戦直後から現在までのこの状況はある程度予見出来て居た為、早くから幼稚園(昔で言えば寺子屋?)を併設・経営して収入源を確保した寺、観光客の拝観料で身を立てようとする寺などは何とか立ち行くが、檀家のサポートのみを当てに何もしなかった寺は今後消滅するだろう。

 そういう宗教・寺・坊主との関係、自分の墓・葬式・自分の子供達の代の関わり方などに関して頭を悩ます時期に団塊世代全員が足を突っ込み始めているのは、紛れもない事実だろう。

5年ほど前、長崎の五島列島新上五島町の役場の要請で行く機会が在った。この五島列島は各岬に教会があって、常駐の神父さんは居ないものの敬虔なクリスチャンも多い土地柄だ。此処で面白い方々とお話をする機会があった。地元の大きなお寺の住職さんとこれまた有名な地元の神父さんだ。この方々と晩餐を囲み色々なお話を伺ったのだが、その中に目から鱗の話が在った。

 お墓、葬式、いずれも文明が発達して庶民が裕福になると華やかになる。生きるのが精一杯の時代には庶民に限って言えば葬式も墓も簡素でアッと言う間に葬式は終わり、墓も土葬で30年も経てばそれが何処であったかも判らなくなるのが普通だと言う。しかし生活に余裕が出たり、宗教を司る寺や教会が力を持っている時代は葬式も墓も立派だと言う。全て宗教運営に必要な収入に比例するからだと言うことらしい。

 それと、葬式とお墓にお金をかけるのは当人には一切関係なく、単に残された者達・家どうしの見栄の張り合い・優越感の競い合いなのだと言う。異なった宗教を司る二人のトップの口から聞かされた意外な話は完全に筆者の腑に落ちた事だった。

今日の野鳥はカワラヒワの群れ!




 球磨川支流で12月3日の撮影。60羽ほどの中群だった。何かに驚き一斉に飛び立つがすぐにもとの所に舞い戻る。こんなことを30分も繰り返していた。眼の前のヤマセミが余り動かないとこういうところにも目が行く。しかし気が付くといつの間にかヤマセミも消えていたりするんだなぁ。