2015年9月20日日曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #8.」1979年銀座の広告代理店『中央宣興』就職その5

 フランス出張の1度は筆者のVAN時代の先輩でもあり、自転車の先生・堀俊治氏(現・ラムズ バイシクル主宰)も一緒に出張してもらい、真剣にプジョーの技術陣と日本向け輸出自転車の部品アッセンブルについて討論したことがあった。討論は確か2日間みっちりやったと思う。本田技研工業の通訳・輸出入専門の方を介しての日仏サイクル部品談義だった。
VAN時代の先輩であり、自転車に関しての師、堀俊治氏。 雑誌ポパイより

 我々が会議に参加する前は日本が輸入する自転車のフレームサイズが女性用であっても560~570mmもあり、とてもじゃ無いが乗れない大きなものだった。身長170cmの筆者が大体530mmだからとてもじゃ無いが、そのままでは日本国内では売れる訳が無かった。
 まず、これらのサイズに関して全て白紙に戻しサイズ構成を最初からやり直した。

 次にアッセンブルされている部品の選定が大変だった。基本的にある程度以上の自転車はフレーム部分をブランド会社が製作し、ハンドル、ペダル、ギヤ、サドル、変速機等はそれぞれ専門メーカーのものを選んでアッセンブルするのが当たり前だった。これに関しても我々が参加するまでの計画・仕様書では、ヨーロッパ各国や日本の部品がバラバラにアッセンブルされていた。此処で、会議で少し熱くなった双方の関係者の潤滑油になろうと演説をさせてもらった。5分で良いから沢山売るために話をさせて欲しいと・・・・。

 まず、日本人の心の話をした。日本の女性達のフランスと言う国に対する憧れは、アナタ方フランス人にはとても理解できないほど強いのだ。日本の女性に訊いてみるが良い、「海外旅行に行けるとしたら何処に行きたい?」簡単だ100人に聞けば90人以上はフランス・パリと答えるだろう。あのルーブル美術館のミロのビーナスが上野の美術館に来た時5時間も雨の中を並んで観た日本人を知っているか?
ミロのビーナスが上野に来た時の話は驚きを持って受け止められた。

 この男の私ですらフランス映画の大ファンで、好きな女優は沢山いる、フランソワーズ・アルヌール、カトリーヌ・ドゥヌーブ、マリナ・ブラディ、ジャクリーヌ・ササール、ミレーヌ・ドモンジョ、ジャンヌ・モロー・・・これだけ言った時、プジョー側のスタッフが皆笑顔になっているのを見逃さなかった。それで相手側を見回したら一人おでこが見事に禿げ上がったおじさんが一本指を立ててている、何かを忘れちゃ居ないか?と言う仕草に違いなかった。そこで一言!ブリジット・バルドー?と言ったら拍手が来た。
往年のフランス女優、全部言い当てられたら貴方も映画通?Google画像より

忘れた訳ではなかったが、ブリジットバルドー。 Google画像より

 此処まで盛り上げて最後にこう言った。これだけ日本人はフランスに憧れているし、フランスのプジョーの技術が世界NO1であることも良く知っている。私の同僚の自転車好きは、プジョーの高価なレース用ロードレーサーのレイノルズ531のパイプを、事ある毎に自慢してうるさい程だ。そのような日本で売るプジョーの自転車が丸ごとメイ・ドイン・フランスでなくてどうする?
VANの同志、横田哲男氏究極の名車プジョー・ロードレーサー。

 例えば何かの拍子に部品が壊れた場合、それがイタリー製だったら「何故だ?何故フランスの自転車の部品がイタリー製なのだ?」と間違いなくクレームになる。しかしその壊れた部品がフランス製であれば、「フランスの部品が壊れたのであればしょうがない・・・。」と納得してくれるだろう。
 この考え方に関しては、全然考えもしなかったのだろう。ざわざわとスタッフ同士で話し合っていたが、やはりプライドをくすぐられたのだろう、返ってきた答えは「ウイ!トレビアン!」だった。

 もう日・仏の国際親善は完璧だった。昼休みになって食堂にワイワイ、ガヤガヤ移動する際に別の背の高い年配のスタッフが傍に寄って来て小声でこう言った「アヌーク・エーメ」フランス語はまったく判らないが黙って親指を突き出した。ラテン系の男達の脳の中味が半分以上「女」で一杯である事を知ったのもこの時だった。
アヌーク・エーメ フランス人の好きな女優の代表らしい。Google画像より

 この日の晩餐会は特別のものだったし、生まれて初めてフレンチのフルコースを経験する事になった。きっとプジョーの特別接待用のレストランなのだろう。特別の個室で8人ほどで食事を摂った。この本場のフレンチ・フルコースは生まれて初めての経験が幾つもあった。

 まず、デザートに色々なチーズが山盛りで出てくるのを初めて経験した。デザートにチーズ?これは考えもしないことだった。遺伝的理由でアルコール分解酵素が無い筆者は、ワインも受け付けず(アルコール類全て)華やかな有名レストランでのディナー経験は殆ど無かったが、デザートにプリンやスウィーツが出てこなくて、あまり好きではないチーズが出て来る事に驚愕したのを良く覚えている。食文化の違いに愕然としたものだ。

 同時に、エスカルゴが大きな兜(カブト)のような金属の半球に沢山の窪みの付いたモノに乗せられてでてきた時には、何事か?と思った。しかしこの不気味な装置で焼いた?エスカルゴを食べたおかげで翌日から2日間七転八倒の苦しみを味わう事になるのだ。
ネットで探しても出て来ないが、こんな感じで鉄で出来ていてカブトの様な形だった。Google画像より

 食事が終わって、翌日の昼再度プジョーの関係者と打ち合わせを行い、そろそろ午後の飛行機でパリに戻ろうとする時に異変は起こった。腰が立たない!物凄い悪寒で気持ちが悪い!何なんだ?生まれて初めての経験だった。とにかく動けない。顔中から冷や汗が出てきて中央宣興パリ支局の同行者は救急車を呼ぼうとしたほどだった。いわゆる食あたり!だ。原因は生煮えのエスカルゴ!
 
 魚介類、特に貝類の大好きな筆者はエスカルゴの類の食感、ニンニクの効いたフランスのこの食材は数少ない好物として、前夜の晩餐会で喜んで食べたのだった。ただし、金属のエスカルゴ焼き器?の側面に在ったデンデンムシはまだ充分に火が通っていなかったらしい。これが原因だった。

 さっきチェックアウトしたばかりのホテルに戻り、ほぼ3時間こん睡状態で寝込んだ。物凄い熱だったらしい。うわごとも散々わめいていたらしい。パリに戻る飛行機は当然夜の便になったが機内で飛行中通して毛布2枚に包まってガタガタ震えていたのだった。この出張は行きも帰りもとんでもないフライトだった。

 何とかパリのホテル(フォーブル・サント・ノーレ裏のモンタボール)に戻って、着の身着のままベッドに入り込んで翌朝気が付いた時はベッドの中で大も小も失禁してしまっており、猫足の陶器で出来たバスタブにお湯を入れ、着の身着のまま浴槽に入って脱ぐしかなかった。もう散々な状態でパリのクラシックなホテルがまるで戦場の野営基地のようになってしまった。
この画像をさらにクラシックにした大きなものだった。 Google画像より

 少し体調が戻ったので、2時間以上掛けて、汚物でまみれた衣服を洗濯し、ランドリーサービスに出したが、2日後戻ってきた時は綺麗になってはいたものの匂いが消えておらず、全て廃棄してしまった。下痢も止まらず熱がまだ下がっていなかったが、パリで寝込むのは嫌なので熱を下げる努力をした。果物屋でオレンジを8個ほど買い込み、外皮は剥いたが中味は袋ごと食べて、コートを着て厚着してまだ明けきれない早朝のパリの石畳を走った走った。