この若者の思考・行動パターンの中で、当時のステータスシンボル「衣服・ファッション」購買行動に関して「物欲・購買欲」を煽り、ファッション関連物の流通ルート、流通スピードを大きく変化させたのが雑誌ポパイだった。当時の百貨店・若者向けコーナーは急速に客入りが落ち、街中の直輸入品小売店舗がもてはやされ始めたのは、この雑誌ポパイの影響によるものだろうと分析する。原宿を中心にBEAMS、SHIPS、御茶ノ水のガラクタ貿易、ハリウッドランチマーケット、路面店展開を始めようとしていたラルフ ローレンPOLO等が急速に話題になり始めていた頃だ。
原宿BEAMSは当初6坪の輸入商品店だった。 Googleフリー画像
アメ横からスタートしたミウラ&サンズが1977年に銀座にSHIPSとして1号店を出店した。
御茶ノ水駿河台下の一角、ミズノ東京本社脇に在ったガラクタ貿易
当然、その手の小売店は多品種少量仕入れの為、消費者は常に店頭を巡回し、直輸入商品の入荷をチェックしなければ欲しい商品に出逢えない。その上サイズ切れも早く、上手く立ち回らなければお目当ての商品購入はまず出来なかった。この枯渇感は当時の若者の自己主張、つまり「他人と同じものじゃ嫌だ!自分は自分流の個性を・・・」と主張する雑誌ポパイの精神的教えと相乗効果により大きなムーブメントになった。特に原宿BEAMSは神田のタマキスポーツと共に雑誌ポパイのアメリカ輸入雑貨の情報源になっていた。つまり、これら若者たちが出入りする「店頭」が突然変異を起こしたのだ。たとえ商品を買わずとも、商品情報、特に雑誌に掲載された直輸入品の実物確認で訪れる頻度が増えた。更に人と同じものを買い求めようとした60年代から人とは違う自分独自の主張を始めた若者達の気質・価値観の変化が購買行動をも変えた。これらが急速に進んだのが1976年~1977年頃だった。
筆者自身も消費者の立場で、ポパイ片手に御茶ノ水のガラクタ貿易、SHIPSなどには散々通ったものだった。値段はともかく、今までのヴァン ヂャケットのどのブランドにも無い色・素材の商品が店内に溢れ「まったく新しい世界」を感じたのだった。同時に店内は単一メーカー、ブランドでは無く、色々なカッコいいブランド商品を店のセンス(=マーチャンダイジング)で揃えるという、今までにはない商売形態の「セレクトショップ」の走りがこれらの直輸入品取扱店だった。既に在ったテイジンメンズショップや表参道クルーズ等はその元祖だったのかもしれない。
このポパイと言う雑誌は、本を丸めてジーンズの後ろポケットに挿し、その記事に出ているお店や場所に行き、見て、触って、買うといった実行動が伴う点で今までの雑誌にはない特徴があった。その意味からすると、その後1980年に創刊された同じマガジンハウス創刊の雑誌ブルータス(当時平凡出版)が読んだ後本を閉じて、思わず溜息が出てしまうのとは大きくその内容を異にしていた。
Gパンの腰ポケットに最新号のポパイを挿して街に出る。「腰ポパイ」が流行った。
こうして雑誌ポパイ、その2年後真似して創刊された雑誌ホットドッグプレスなど、ファッション情報を中心とした若者生活情報雑誌の影響で、前回ブログでも述べたとおり今までヴァン ヂャケットの上顧客だった若者達のオピニオンリーダー的消費者群が、皆雑誌ポパイ片手に直輸入等の小売専門店へ散ってしまったのだ。これはヴァン ヂャケットにとっては致命的な動きだった。
これらの動きは、決して一つの雑誌だけの力ではなく、ちょうど色々な変化が偶然集中して起きた必然的なムーブメントだったのだと今になって思う。むしろ雑誌ポパイというより、そのポパイを生み出すきっかけになったムック本のスキーライフやメイド・イン・USAといったエポックメーキング本がアメリカ西海岸の文化風俗を日本の若者たちに知らしめた事こそが発端だったような気もする。影でこれらを仕掛けたのがアメリカ商務省観光局なのか木滑良久氏なのか、はたまたその双方なのかは判らない。
米国商務省観光局の肝いりで作られたアメリカ紹介本の走り。
ともかく、これらの大きな動きにヴァン ヂャケットが飲み込まれ撃沈されてしまった事は否めない事実だと思う。
若者を取り巻く社会環境と情報スピードの変化がヴァン ヂャケットの倒産に影響を与えた事は説明したとおりだが、もっと根本的なヴァン ヂャケットの属するアパレル業界・繊維業界の問題をすこし探ってみたい。
1978年といえば日本は長く続いた高度成長期が数年前に終わり、既に安定成長期に入っていた。で、この安定成長期はオイルショック後、エネルギーをあまり使わずに効率よいモノ造りが出来るような新技術が二次産業界で発展した時期で、流通等サービス業、つまり第3次産業ジャンルがそれにあわせて発展した時期だった。しかしその中で繊維業界は東南アジア・バングラディッシュ等の工賃の安いマンパワー供給国の台頭で縫製工場含めて業界全体が不況に陥っていた。当時は繊維不況、或いは繊維業界構造不況とも言われた。更にその上インフレ不況が追い討ちをかけた。
高度成長期に始まり、季節の変わり目に行われていたファッション関係のバーゲンセールがもはや通年恒例化し、まともな正規料金で衣料関係の買い物をしようという消費者意識が薄れ始めてきた時期でもあった。つまりはアパレル業界は市場にモノが溢れすぎていたのだ。店頭在庫は増え、店頭で物が売れない、つまり先売りが思うように行かない為商品を供給するどのメーカーの倉庫も在庫の山となっていた。
年中バーゲン、何処へ行ってもバーゲンの時代だった。
業界を川の流れに例え、川下といわれるアパレル業界の店頭先売りが悪いので、アパレルメーカーには売った商品の売り上げが入ってこない。同時にメーカーの倉庫がカラにならない。だから各メーカーは次のシーズンの商品を作る量を抑え始める。
そうなると縫製工場の仕事量が減る、業界で川中といわれる原反メーカー(藤井毛織だのニッケ=日本毛織だの)も織る布地の量を減らす、先を見越しての予想生産は止め、受注生産に限るようになる。これらの連鎖反応が業界で川上といわれる原糸メーカー、紡績会社といわれる東レ、テイジン、クラボウ、ニチボウなどの大手も紡績機械を止め生産量を減らす事になる。こうした繊維業界全体の流れが悪くなったのが、ちょうど1976~8年頃だった。