2018年8月5日日曜日

団塊世代のジジ放談! そろそろ人生最後まで大切にすべき友を選ぶ時期が来た。 For the end of life and disposal, It is time for decide what kind of friends must do remain?

 刑事フォイルを演ずる英国の男優マイケル・キッチンが団塊世代の男子としてはかっこいい歳の取り方をしていると述べた。じゃあお前の周りの友達で断捨離の対象に成らない「友」はどんなタイプなのか?当然訊かれるだろう。

 A・B・Cの各ゾーン分類とは別に、大切にすべき友、残すべき友に関しては「これだっ!」という定義なり方程式は存在しない。しかし、一つの事に関して、同じ土俵で相手を尊敬しつつ深く討論・ディベート出来ない相手はまず難しいと考えている。これは男女関係なくそう感ずる。

 以前どこかの寺の掲示板に張り出されていた回訓?訓示?に妙に納得する言葉があった。筆者は若い時から日本古来の神道(神社崇拝)で大陸渡来の仏教は信じていない。宗派が分かれ派閥争いがあったり、上下関係や金で何かが決まったりする仏教には興味がない。
 ましてや時期が来るとハロウィーンだのクリスマスだの商業ベースで信徒でもないのに騒ぐ集団を放っておく外来宗教を理解しようとも思わない。

 しかし、この寺の門外に在る掲示板には腑に落ちる言葉が時々張り出されているので、結構気に入っている。
 最初に目に留まったのが1985年頃善光寺門前の別院に出ていた「生は偶然、死は必然」だった。そーだよな!と、妙に納得したのを覚えている。

 その次に眼にしたのが京都の寺だったか、「過去と他人は不変なり、己と未来は可変なりこれには相当納得してしまった。特に過去と他人は不変なり!の下りは心に残った。
Google画像より

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 友達・・・もまさにこれだと思った。幼友達であれば小さい時から見慣れた友達の性格・癖・感性を知っているから何かにつけ接する際に相手を視ながら、自分を制御コントロールできよう。最近の言葉で言えば時には忖度し、時には譲って相手を立てつつコミュニケーションの調和を図ろうとする。複雑な社会で生きてきた人間であれば当然だし、数多くの異業種の人間と交わり仕事をし、異なる環境で生きてきた人種とトラブルなく生きていくには、大変重要な事だと知っている‥‥はずだ。

 しかし、大きくなって大人になって出遭った「人間どうし」は生まれ育ち生きて来た環境(価値観・常識・習慣・法令順守のさじ加減・良し悪しの判別)が随分違う事が多いので、意見がぶつかる場面が往々にして生ずる。
 それはごく当たり前の事なのだが、その「ぶつかり」をどのようにこなせるかで、「友」としての格付け、距離感が生まれるのは仕方がない事だろう。これは箇条書きになどとてもできる事ではなく「体と脳」が生理的に反応してしまうので「動物的直観」の分野の話になる。

 この「友」の判断に効果的で心打たれた「寺の貼り出し」に「己の我が儘は当然(許し)、他人の勝手は不自然(許さない)」というのがあった。人間歳を取るとなかなか出来なくなるのが「謙遜・反省・謝罪」だが、もともとそういう「品のある人間性」を持ち合わせていない「人間」もいる。残念だがこういうタイプは終活時における断捨離の候補に成ってしまうのだろう。

 「謙遜」というのはあくまでその時だけの相手に対する「おもてづら」の話で、心の中ではどう思っているかは勿論判らない。「反省」もポーズだけなら日光の猿軍団だって出来るし、内面的なものなので外からは計り知れない人間性の一つだ。

 しかし「謝罪」というのはなかなか難しい。まず相手・対象者がいる行動で、一人だけつまり自分だけで完結する問題ではない。謝罪というのは、する側が相手がその謝罪に対して納得して「許した」か否かを確認しなければならない。「許しを請う」ための謝罪なのだがこれが判っていない人が余りに多い。

 良くある「俺は一度もう謝ったんだから良いんだ、それでも許す気にならないのは相手がおかしいんだ」と思うタイプ。「謝罪は負け」だとでも思っているのだろうか?特に団塊世代は人数が多く競争・競争を生き抜いてきた世代だけに「勝ち負け」に敏感だし、自尊心が人一倍強い人が多い。
 一応謝ったにもかかわらず、悔しいのか「でもね・・・?」と、自己弁護をしてしまう人の何と多い事か。その瞬間相手は「本当は心から誤っていないな?」と判断すると同時に怒りが再びこみあげてきて火に油を注ぐ状態になってしまう事が多い。謝るという事は徹底的に謝り、暫くは相手の怒りが収まるのを待たねばならない事を知らない人が多い。これが我慢する・・・という事だ。

 セクハラ行為にしても、する側は「全然セクハラだと思っていない」事が多い。セクハラされた側が「セクハラされた」と主張した瞬間成立してしまうのが今のメディアなり社会一般の流れだという事を理解していない。
 このセクハラ問題にしたって謝罪を受け入れて、相手が「許します」と言わない限り謝罪は成立しないのと一緒だ。廻りで、セクハラだ、セクハラだと攻め立てる野次馬・メディアの様子は見苦しい事極まりないが、それを頼みに似非セクハラ、似非痴漢の類で冤罪が増えている今の世の中、どこかおかしいと思う。

 一方で、昔で言えば下着・水着レベルで女性を露出し男性を刺激しながら街を闊歩する「被害者」側には何の問題も責任も無いのだろうか?

 これに似たような事で「間違いを認める」という事をしたくない御仁が多い。我が友、同僚にも居た。「史上空前」を「しじょうくうまえ」と長い事思い込み皆の前でそれが露見し、絶対に自分が正しいと言い張った挙句に辞書まで見せられ指摘され怒り出した者。
 「順風満帆」を大声で「じゅんぷうまんぽ」と読み、指摘され恥をかいた者。「ひょっとすると自分は間違っているかもしれない」とは一欠けらも思わないタイプの御仁の何と多い事だろう。

 いずれも不勉強・勘違いの記憶から生じた事で「間違いは一時の恥、無知は一生の恥」の典型だろう。

 同じく、一般常識を間違えて解釈・認識し、その間違いを正された際に怒りだし、間違いを指摘・説明してくれた者に感謝もせず、バツが悪いのか二度とそういう話に触れない負けず嫌いの御仁もいるが、何と心の狭い人だろうと思う。
 こういう人は意外に沢山居る。負けず嫌いなのか、「でもね」で言い訳をすれば怒った相手が逆に火に油状態になる事を知らない。心の底で本当には謝っていないのだ。Google画像より

 人間70年も生きて来て、残り10~20年という時期に差し掛かると、今後はこういうややこしい事を繰り返す相手とは離れて、ストレスなく生きていきたいと願うが、如何だろう?

 そうなるとどんなに大切で近い「友」であっても、もういまさら相手が「変わる」「人間的に成熟」するのを期待しても無理だろう。固まってしまった癖や人間性はもう変わらないのだ。

 今まで「謝る」事をあまりしてこなかった自尊心と気位の高い人間はいくら言って聞かせても、大切な友達が離れて行ってもそう簡単に変われない。一度謝りさえすれば、もう自分に非が有るとはまず思わないし、相手が許そうが許すまいが二度と同じ件に関しては重ねて謝らない。これに納得しない人間は皆去っていき、どんどん関係が疎遠になっていく。
反省!

高齢者の孤独というのは、実はこういう所にも隠れた問題が存在するのではないかと訝しがっている昨今だ。自分自身がそうならない様に日々努力したい。