正月元旦の能登半島大地震からちょうど1か月が経過した。
筆者は1969年~1970年にかけて日本各地をスケッチ旅行した。理由は横浜の大学の教育学部美術専攻科の学生であったと同時に、写真撮影に熱中し始めたころで、絵を描くにしてもまず写真に撮っておく癖があったから。
人物にしろ風景にしろ、やたら眼に入ったモノはシャッターを押していたような気がする。中でも蒸気機関車、鉄道に関しては小学校の頃からの趣味対象だっただけに枚数が多い。
今回投稿した写真は、東京・新宿駅~岡谷経由・奈良井・馬籠・妻籠~名古屋経由高山~金沢~輪島~直江津~上野・・と国鉄の周遊券(学割)で回った旅の記録。
当時の駅弁の折り掛け紙も未だに保存してある程だから、相当印象的な旅だったように思う。1970年は駅弁が大体120~150円の時代だ。
掲載写真はおぼろげながらの印象でコメントを付加してあるが、今から54年前の事だし、我が脳もいささか錆びが回っているので、いい加減かもしれない。
七尾駅もしくは穴水駅ではないだろうか?地方で3番ホームまであるのは分岐点駅。
北陸本線と七尾線の分岐駅・津幡駅もしくは七尾駅と思われる
唯一輪島駅の可能性がある。貨物車両が多いのは海産物の量が理由か?
写真は当時大活躍していたラッセル車(雪かき先頭貨車)キ100系のキ174。向こうのホームの行先表示を視ると砺波方面への分岐駅なので高岡駅の可能性が高い。
これは記憶にある塩風で色がなくなった景色、輪島駅への街並み
1970年の朝市通り、まだ藁で編んだ背負子などこの頃の風俗、懐かしい。
朝市の風景。この子は現在57~8歳になっているはず。現役の藁編み活用品。
夏の朝市風景。ネガがもっとあるはずなので探してみたい。
ところで、ここで団塊爺のボヤキ!
また次回このブログで投稿するつもりだが、今朝のテレ朝モーニングショウーで玉川徹がまたまた馬鹿なコメントを発していた。阪神淡路大震災の時三日で水道が戻った事例と今回の能登半島地震を比べて水道の復旧が遅いとか・・。立地条件や地形の変形など現実を無視して単純に水道復旧にかかった時間を比較するなど、被災地で復旧活動をしている方々にあまりに失礼ではないだろうか?
同時に思うが、もし今回の能登半島地震被災者や復旧工事に勤しんでいる方々へ少しでも応援する気が合ったら、遠隔地からニュースだけで見守るしかできない方にも実質応援出来ることが有る。それは大阪万博のチケットを買わない事、予約をしない事、行かない事。
どれだけマンパワーと建築用材が万博のおかげで被災地に回らないか!よく考えるべきだろうと思う次第。