着物を着て、畳の部屋の座卓で一生懸命原稿を書いていたようだが、その現代風刺というか、経験豊富な人間が、ものすごいスピードで変革していく時代模様を観ながら、色々からかっているようで的確に的を射ている内容が面白いのだろう。
例えば、戦後の公立の小学校教育では新時代の先生たちに対し、生徒と同じ目線で同じような友達喋り言葉で接するように指導した。その結果、年上の者を敬う喋り方、つまり敬語をきちんと教えなかったため、20年後その子供たちが親になった際、自分の子供に「敬語」を教えられなかったという話などは目から鱗だった。
教わらなかった事は知らない、知らない事は自分の子供にも教えられない。こうして日本の公立学校から「敬語」が廃れて消えた、わずかに残るのは私学で育った子弟だけ。‥というあたりドキッとする思いだ。よく見ていらっしゃる。
今日のタイトルではないが、「何の用があって月になど行くのだ?月は眺めるものだ。」などは頑固おやじの心情がとても良く判る。当時、本当は行ければ自分も行ってみたいくせに・・・が浮かんだのを覚えている。
さしづめ、今なら「何の用あって徒党を組んで富士山に上るのだ?富士は遠くから眺めるものだろう?」とでも言っているだろうか。
筆者にとってはバイブルにも近い「夏彦の写真コラム傑作選」の①と②の古本がAmazonで届いた。雨の降る日は自宅でこれをじっくり読み返そうと思う。
間違っても電車の中には持ち込めない。かって車内で読んで涙が出るほど笑ってしまい恥ずかしかった事が有った。読むのに夢中になりすぎて駅を3つほど乗り過ごしたこともあった。ある意味山本夏彦のコラムは毒である。
今日は、35年間贔屓にしている四谷の「こうや」という支那そば屋に行った。支那という言葉をいまだに堂々と掲げている気骨のあるお店だ。出てくるそのタンメンの野菜量が半端でないところも人気の一つ。もちろん味は折り紙付きだ。だからいつも混んでいる。
実は少々塩っ辛い。腎臓を病んでいる人は完食でもしようものなら、店を出て掛かりつけ医に直行ものだろう。
普通のタンメンの2.5倍は野菜が入っているので、筆者はいつも麺半分(硬め)で注文する。
量が多いから完食するには家を出る時から覚悟が必要だ。完食できたら健康状態100%で間違いないと自信を持って良い。でも桂花ラーメンと違ってスープを全部飲むのは腎臓の為にもお勧めできない。
で、帰りに気が付いた。最近小生意気な客の心を見透かしたような飲食店の看板がやたらに目に付く。山本夏彦さん生きていたら何と言うだろうか?
元気に、一生懸命働いたり商いするのって当たり前で、わざわざこれ見よがしに書いて訴えるものなのだろうか?こう書かなきゃ伝わらないと思うものが増えることを憂える今日のランチタイムだった。