1960年代の御茶の水美術学院 From Ochabi website.
日仏会館はこの文化学院(今は記念館のみ)の更に水道橋寄りに在った。そうして、ちょっと変わった人種が行く文化学院なども、記念館だけ残し何処かへ移転してしまい今はもう無い。
まだ都電が現役で主要輸送機関だった時代、国鉄御茶ノ水駅から駿河台下までの坂道には都電の路線は無かったが、その後、70年安保闘争でヘルメットを被って手拭いで顔を隠した左翼の学生群がひきつった顔で機動隊に追い掛け回されていた。今は大きな病院やギターショップ、ジャンクフード屋(=ファーストフードとも言う)が一杯だ。明治大学などは何処のホテル?とでも言いたくなるような高層ビルになってしまった。
当時からハイカラなホテルだった「ヒルトップ ホテル」残念ながらランチでしか入った事が無い、それも仕事で・・。
あれだけ競争競争、試験に試験で明け暮れた駿台予備校など、今やどこかの銀行の様なビルに変ってしまった。あの団塊世代の受験戦争のさなか昭和40年代は東校舎に西校舎の2か所しかなかった事からも、「東大には受かったが駿台(午前の部・国公立受験コース)には落ちた・・。」という予備校受験の方が志望校受験より難関だった話が在ったのも本当だ、懐かしい。
軽量鉄骨モルタルのビルだったような気がする駿台西校舎も今や銀行並み?
問題の御茶美は数回建て替わっているようで、今や面影も無く、周りのビルや土地を買い足して今や大きな美術専門学校になって居る様だ。あと10年もすれば、一端の美術大学にでもなってやしないだろうか?
敷地面積は5倍以上になっているような気がする。御茶美!
しゃれたビルになってしまい、まるで美術系みたい?あっ、良いのか・・それで。
一方で、変わらない所もある。神田の古書店街だ。靖国通りの南側にだけ古い佇まいのまま元気に頑張っている。都電が走っていた時代から靖国通りの北側にはほとんど古書店は無かった。在っても数軒だけ。理由はハッキリとしている。太陽が射しこむ北側では古本が直射日光で焼けてしまうからだ。昔の印刷は直射日光に極めて弱かった。ポスターなど店頭に貼ろうものならあっという間に黄版インクが飛んで、青と赤の色だけが強調されたポスターになってしまった。これはどんなにオーラが出ている美人女優がモデルでも残念ながら同じだった。
神田の古本屋街、既にもう今は色々変わっている。
そういった古書店街から一歩入った所の喫茶店も昔のまま営業している所が数軒ある。今日はお店にいなかったが、名物マスター鈴木さんのいる「喫茶さぼうる」などは1969年から通っている。いわば自分の家族とより遥かに長い付き合いだ。
スタバやタリーズも入るが、やはりここが一番落ち着く。
喫茶さぼうる、もう50年近いお付き合いだ。空気は50年前と変わらない。
ミロンガは3度ほど入った事が有る。
50年間、同じ町を徘徊できるというのも、一つの幸せだし悦びだが、団塊世代の当時の同期が時々集まって、それぞれ全然違うジャンルで活躍しているのを見つめ合うのにも、此処御茶ノ水界隈は最適な街の様な気がする。