2016年6月5日日曜日

団塊世代の御茶ノ水界隈、50年の今昔ガイド。 Baby Boomer's Ochanomizu area guide, Now&Then.

 久しぶりに一人で御茶ノ水界隈をじっくりと観察して回った。1968年頃、阿佐ヶ谷美術学院と駿台予備校へ通っていた時代、週6日は御茶ノ水界隈を徘徊していた。美術系を目指していた当時、通っていた阿佐美の芸大志望者たちが御茶美へ他流試合をしに黙って参加したりしていた。時々付いて行ったので記憶在り。コンクリ打ちっぱなしの床で鉛筆デッサンもした。

1960年代の御茶の水美術学院  From Ochabi website.

オーディオに凝っていた為、ユニオン電気へ入り浸って中古品のアンプやレコードプレーヤーを探していたら、社長さんからお店が下取りをしたレコードプレーヤーを一式無料でくれて、夢かと思った事もあった。GraceのG-445トーンアームが付いて、リオンのカートリッジが付いていた。今や高級オーディオショップとレコード屋さんになっている。当時オーディオブーム最高潮の頃で、この界隈ではオーディオメーカーやFM東海(まだ実験放送だった)主催のレコードコンサートが行われていて、友達と連れ立って日仏会館へ行ったり、秋葉原の万世橋の総武線高架ガード下に在ったトリオの試聴ルームに入ったりもした。
 日仏会館はこの文化学院(今は記念館のみ)の更に水道橋寄りに在った。そうして、ちょっと変わった人種が行く文化学院なども、記念館だけ残し何処かへ移転してしまい今はもう無い。

 まだ都電が現役で主要輸送機関だった時代、国鉄御茶ノ水駅から駿河台下までの坂道には都電の路線は無かったが、その後、70年安保闘争でヘルメットを被って手拭いで顔を隠した左翼の学生群がひきつった顔で機動隊に追い掛け回されていた。今は大きな病院やギターショップ、ジャンクフード屋(=ファーストフードとも言う)が一杯だ。明治大学などは何処のホテル?とでも言いたくなるような高層ビルになってしまった。
当時からハイカラなホテルだった「ヒルトップ ホテル」残念ながらランチでしか入った事が無い、それも仕事で・・。

 あれだけ競争競争、試験に試験で明け暮れた駿台予備校など、今やどこかの銀行の様なビルに変ってしまった。あの団塊世代の受験戦争のさなか昭和40年代は東校舎に西校舎の2か所しかなかった事からも、「東大には受かったが駿台(午前の部・国公立受験コース)には落ちた・・。」という予備校受験の方が志望校受験より難関だった話が在ったのも本当だ、懐かしい。
軽量鉄骨モルタルのビルだったような気がする駿台西校舎も今や銀行並み?

 問題の御茶美は数回建て替わっているようで、今や面影も無く、周りのビルや土地を買い足して今や大きな美術専門学校になって居る様だ。あと10年もすれば、一端の美術大学にでもなってやしないだろうか?
敷地面積は5倍以上になっているような気がする。御茶美!

しゃれたビルになってしまい、まるで美術系みたい?あっ、良いのか・・それで。

 一方で、変わらない所もある。神田の古書店街だ。靖国通りの南側にだけ古い佇まいのまま元気に頑張っている。都電が走っていた時代から靖国通りの北側にはほとんど古書店は無かった。在っても数軒だけ。理由はハッキリとしている。太陽が射しこむ北側では古本が直射日光で焼けてしまうからだ。昔の印刷は直射日光に極めて弱かった。ポスターなど店頭に貼ろうものならあっという間に黄版インクが飛んで、青と赤の色だけが強調されたポスターになってしまった。これはどんなにオーラが出ている美人女優がモデルでも残念ながら同じだった。
神田の古本屋街、既にもう今は色々変わっている。

 そういった古書店街から一歩入った所の喫茶店も昔のまま営業している所が数軒ある。今日はお店にいなかったが、名物マスター鈴木さんのいる「喫茶さぼうる」などは1969年から通っている。いわば自分の家族とより遥かに長い付き合いだ。
スタバやタリーズも入るが、やはりここが一番落ち着く。

喫茶さぼうる、もう50年近いお付き合いだ。空気は50年前と変わらない。

ミロンガは3度ほど入った事が有る。

 50年間、同じ町を徘徊できるというのも、一つの幸せだし悦びだが、団塊世代の当時の同期が時々集まって、それぞれ全然違うジャンルで活躍しているのを見つめ合うのにも、此処御茶ノ水界隈は最適な街の様な気がする。