時代は前後するが、ウインドサーフィン業界の名刺はやはりユニークなものが多かった。
広告代理店に移って良かった、これこそ自分に一番適した職業だ!やっと出逢えた我が天職!「転職で天職に出逢う!」などと思わず冗談も出るような時期だったのだろう。
世の中こんなに調子良くって良いのだろうか?いつか反動が来るに違いない・・・と常に目に見えぬ恐怖に脅かされ始めるのもこの頃からだった。
さすがに新しいスポーツというだけに、実際にこのウインドサーフィンに乗れて、なおかつそれに関わる事で何がしかの生業としている若い人達が中心でこのスポーツを纏め上げていた。そういう若い人達が普及活動を行っていたので、広告代理店勤務の筆者は自分自身この業界に入ってみると、既に結構年配者の部類に入っていた。その後アジア大会でも正式種目になり日本代表として優勝した湘南葉山フリートの故・石渡常原(いしわたつねもと)君など、まだ拓殖大学の学生だったりする頃だ。
1980年沖縄プレワールドで拓大チーム代表・故石渡常原(いしわたつねもと)選手
結局そういうウインドサーフィン創生期における中心的人物達は、海岸沿いにマリンショップ、ウインドサーフィンショップ、あるいは普及する事により必要になってきたウインドサーフィンの艇庫経営者だった。鎌倉のファーイースト、逗子のココナツボーイ、葉山のYT&M,三浦海岸のドルフィン・アサノなどなど。
それが1983年を過ぎて暫くするとファンボードと呼ばれる短くて浮力の無いウインドサーフィンボードが出始めた。これは軽くて小さいので浮力が無く、セイルアップできない為ある程度熟練したライダーしか楽しめなかった。こうしてエキスパートの領域が増えて行くにつれ、ウインド用具の中古市場が形成され業界として秒刻みで裾野がどんどん広がる時代に突入していった。このあたりの急速な発展は月単位でのスピードで道具も業界もが変るという非常にホットな時期だった。
繰り返すが、この頃からショートボードの急速的発展でウインドサーフィンの裾野が広がり、ハワイ中心に強風下でジャンプと波乗りを楽しむWave ride & Jumpといった一つのジャンルが確立されていく。そのきっかけは1981年のウインドサーファークラス世界選手権大会=沖縄ワールドだ。究極的にはハワイのマウイ島と共にアメリカ本土オレゴン州フッドリバーを中心としたウインドサーフィン用具の開発と実験場となるコロンビアゴージがその発展のメッカとなる。
今はどうだか判らないが、一時は大して大きな町でもない(人口6,600人)にウインドサーフィン関連のメーカー・ファクトリー、レンタルショップ、販売ショップが乱立していた。初期のヒロイン、ロンダ・スミスなどもこの街に移り住んでいた。
Hood River Windsurfing Shopのユニフォーム・ロゴ(ポロシャツ)
一方ではヨットの三角形レースをベースにしたコースレーシング競技がロサンゼルスオリンピックに種目採用された事で確立され、同時にショートボードでのスラローム・コースレーシングなどに多極分化していった。このあたりはウインドサーフィン業界のサイトなり、各メーカーの歴史コーナー詳しいのは勿論だが、あくまで全体を見渡した概要でしかないと思う。このブログではごくごくその中での1パートに過ぎないのだが、それなりに具体的なウインドサーフィンに関するヒストリーと面白話を筆者の体験と関わったビジネス・イベント、国内外のウインド仲間との出来事を中心に綴ってみたいと思う。
物質的な資料としては1980年からのイベントに関わる製作物、ハワイ・マウイ島などでの国際的なウインドサーフィン大会に関する画像、製作物(ポスター、Tシャツなど)更には1983年から広告代理店の社員として自分が手がけた、あるいは関わった数々のウインド関係のデータ(画像や資料)をベースに展開してみたいと思う。決してウインドサーフィン界のど真ん中にいた訳ではないのだが、自分で乗って、造って、演出したウインドサーフィン文化のホンの一面を残せたら嬉しい。
自分が参加、演出、プロデュースした歴代ウインドサーフィン関連のイベント製作物など。
その代わり、でもね、多分、きっと・・・といった大瀧詠一作曲の「探偵物語」の歌詞のように自信のない内容ではなく、断定的に証拠画像等を駆使した更新が出来る事をお約束する。大いに期待していただいて良いと思う。当時雑誌オリーブにウインド関連の記事を毎号連載させて頂いた際のポリシー「ウインドサーフィン専門誌のクオリティを越えた一般紙」のノリで一生懸命更新したいと思っている。