毎年正月2日からヴァンガーズ・アイスホッケー部の合宿が軽井沢で行われた。ヴァン・ヂャケット在籍中には3度ほど参加した。軽井沢といっても中軽井沢からスケートセンターを抜けて山に入り、中腹にあるグリーンホテルが宿舎で連日軽井沢スケートセンターとグリーンホテルとの往復だけの3日間だった。ほんの3km程度の距離だが移動は毎日専用の貸し切りバスで行われ、映画で観るアメリカのプロ・アイスホッケーチームのようだった。
今は無き軽井沢グリーンホテル、昔は由緒あるホテルだったようだ。 Google画像より
練習して食べて寝るだけだから、相当上達は早かったように思う。昼間アイスホッケーリンクは一般に貸し出したり、国土計画や西武鉄道といった当時の日本リーグの上位チームが使用していたため、我々が使うのは夕方から夜にかけてだった。昼間の我々は屋外のスケートリンクで一般のスケーター、スピードスケートの選手達と一緒にコースを回り練習した。主に体力向上とスケーティング力を養うのが目的だった。ちなみに世の中の動きは早く、すでにこの軽井沢スケートセンターというものはこの世に無いと聞く。一時はスケートセンターホテルなどと言うものまで在ったというのに・・・。
軽井沢スケートセンター・屋外リンク。幾つもスピードスケートの記録を生んだ。Google画像
最初は勿論スケーティングが下手で、皆に付いて行けなかったが、20周もすればコツを覚えヴァンガーズの集団には付いて行けるようになった。そうなればもうこっちのもの。半年前まで大学のサッカー部の現役だったので、90分間フルに動いてもバテない体力だけはあった。いつの間にかヴァンガーズ先頭集団でトップ争いをしていた。ライバルは山田 力さんという背の高い細身の選手だったが、これがまた全然バテない!きっと北海道か北国出身なのだろう。その後この山田 力さんとは自転車のツーリングであの同期の横田哲男君、自転車のスポークで骨格が出来ていると思うほど自転車に詳しい堀俊治先輩(現在・サイクルショップ・ラムズ経営=http://cyclestores.net/kanagawa/ramuzu/)など同僚4人で北海道を半周したが、やはり自転車でもなかなかバテないスタミナ男だった。
当時の軽井沢スケートセンターは都心からお客が相当押し寄せていて、西武鉄道・国土計画のリゾート施設としては非常に成功していた部類に入るだろう。1974年の正月が一番最初の軽井沢合宿参加だったが、屋外リンクに行った時に出遭ったのがデビュー間もない「キャンディーズ」だった。「あなたに夢中」と言う曲で3ヶ月前にデビューしたての頃でステージで生の歌を聴けたのを今でも自慢にしている。何故かピンキーとキラーズなどデビュー時のスターに出遭えることが多く不思議な運命だ。
キャンディーズのデビューシングル。最初は故田中好子がセンターだった。Google画像
昼間は屋外リンクで耐久走、夜は屋内リンクで防具をつけてフォーメーション、試合形式での練習を繰り返した。木造の屋内リンクは夜になると当然氷点下に気温は下がり氷は非常に硬くなって絞まる。氷と云うモノは氷温で其の硬さが全然違う、これは実際に滑ってみると非常に良く判る。都内のリンクだと滑ってもスケートの刃が氷面に食い込んで行き力が入らない。これに対し氷点下の気温の中で軽井沢のリンクを滑ると表面を蹴った力が100%以上の力で戻ってくるような気がする。つまり加速力が全然違う。その代わり腰が入っていなかったりするとカーブで遠心力に負けてしまう。しばらくして慣れると少しの力でトップスピードになるので、逆に怪我も多くなる。
木造のスケートリンクの壁に綺麗な長方形の穴が不揃いに開いていた。最初はデザインかと思ったがそうではなかった。訊いてみたら、国土計画や西武鉄道のトップ選手が放ったシュートなどでパックがあけた穴だと言う!あまりのスピードにパックの断面=長方形そのままの穴があいていたのだ。勿論我々のスピードではあく訳がない。
アイスホッケーの防具はこれだけ身に付けていた・・・の図。Googole画像に顔差し替え
愛用したLANGE(ラング)のホッケーシューズ。裸足で履き通した、裸足のほうが足の裏で直接氷の感触を掴めてプレーに良い結果が出ていた。この頃はスキー靴も裸足で履いていた。これらは同期の内坂庸夫氏(マガジンハウスのスポーツ関連ベテランライター)のアドバイス!実際そうしてみると、まったく言われたとおりだった。
こうしてアイスホッケー部でも皆と同じように試合に出してもらえるようになって、幾つかのエピソードがある。我が上司軽部CAPは天を突くような大男だからリンクに立つとスケートの歯の高さも加わって相当大きく見える。この人と敵味方になり、ゴール裏の狭いところで鉢合わせすると、物凄い恐怖感を感じた。何度も上にのしかかられて潰された。会社で仕事中良くこう言われた「シンジョーまたゴール裏で逢おうな!」
会社の恒例行事でアイスホッケーの社内対抗戦というのが毎年品川スケートセンターで行われた。普段は社内にヴァンガーズ、ラングラーズ、ヴァンヒューゼン=バイオーズのチームと3チームあったが、社内対抗戦をするには4チームが必要だった。
社内報VAN PRESSでアイスホッケー社内対抗戦の予告が行われた。 Vanサイトより
其処でヴァンガーズをA.B2チーム造るために普段は練習などしていないけれど、名前だけヴァンガーズに所属している幽霊部員も参加する事になる。この時とばかり自分の彼女に良い所を見せようと、彼女同伴で参加してくるにわか選手が多数居た。普段練習などしていないから、格好だけはアイスホッケー選手、しかしスケートリンクでは、初めて氷に出る様な滑りでどうしようもない姿だった。
普通は試合前選手が名前を呼ばれると、観客席のヴァン社員が囃し立てるヤジと歓声の中、氷の上をシャッシャッシャッと軽やかにダッシュして来て、自分の並ぶ位置でシャッ!と急制動で止まるのがカッコ良いのだ。
しかし、この俄か選手はそれが出来ない、リモコンで動く初期のロボットのように両手を前に出して固まったまま、直立不動であちらこちらリンクの上をぐるぐる回りながら、途中で持っていたスティックを落としたり、スティックを中心に一回転してしまったり、爆笑する観客の中最後は両脇を同僚に支えられながら、自分の位置に到達するのだった。これを見て観客席の彼女が恥ずかしさと情けなさに居たたまれず、試合前に帰ってしまったという話もある。
更に、試合が始まる前にアップの意味でフェンス トゥ フェンスというダッシュの練習が或る。この紅白戦の試合当日、あまり練習に参加してきていないメンバーが、彼女を連れてきて良い所を見せようと力んだのだろう、この練習のダッシュで転び、フェンスに足から激突した。足を痛めてリンクから上がり、あの歩きにくいゴムマットの床を歩いて休もうとした所、彼女がやってきて「情けないわねぇ、しっかりしなさいよ!」と、ど突いた。その途端、何とかヒビが入った状態でやっと持っていた足首がクネッと完全に折れてしまい、その場に倒れ救急搬送されてしまった。
自分は其処まで酷くは無く、社内対抗戦でハットトリックをやって殊勲賞を貰ったり、東京都社会人1部リーグで得点したり、素人初心者上がりにしては周りに恵まれて面白くてしょうがない時期でもあったが、或る時をもってスッパリ辞める事にした。
社内対抗戦の結果もVAN PRESSにて報じられた。 Vanサイトより
理由は3つある。一つは試合中、相手選手ハイスティック(スティックを高い位置で振り回す反則)で筆者が顔面に打撲を負い前歯4本(差し歯3本含む)が折れて落下したのだ。審判の「ピーッ!」という笛の音ともに「直ぐに歯を拾いなさい!」という声がまだ耳に残っている。
2つ目は同じく試合の最中、敵選手とパックを争って追っている時、カーブに差し掛かり腰を低くしてボディチェックに備えた、そうしたらお互い同時にボディチェックをした瞬間相手が消えてしまった。瞬間的なエネルギーで相手がリンクの外に飛んでしまい、プラスティック製のベンチ(森永乳業とか描いてあるやつ)に激突し、下半身の骨が数十個に折れてしまったのだった。50針以上の怪我をさせてしまった事で非常に申し訳無い気持ちになり、その後の試合に全然力が入らなくなってしまった。
最後は大阪遠征中のホテルでの出来事。力を出し切った試合の後、深夜熟睡中にヴァンガーズのマネージャー(人事部所属の女性)が部屋に電話を掛けてきて部屋に来てくれという。残念ながら異性としては何の興味もない相手だし、明日にしてくれと一度は断ったが、何か困っているような事も云うので仕方なく部屋に行った。部屋の前に行くとすでに部屋の前で入口のドアを開けて待っているではないか、しかも部屋の電気はついていない。「冗談だろう?」と思いつつ部屋の電気をつけようとすると「つけないで」と言う。部屋に入りつつ、レディの部屋に入るときのマナーとして「絶対にドアだけは開けておけ」と言って部屋の中の椅子に座ったが何かがおかしい。
其のうち部屋の隅で「クスクス」と言う笑い声が複数聞こえて誰かが部屋のスイッチをつけた。そうしたらなんとアイスホッケー部のメンバーの一部が5~6人もベッドの向こうに隠れて居るではないか!担がれたのだ、試されたのだ、悪戯されたのだ。
これにはモーレツに頭にきて大声で怒鳴ったような気がする。そうして部屋にあった電気スタンドを取り窓に向かって投げつけようとしたが、後ろから羽交い絞めにされてしまった。羽交い絞めをしたのはいつも練習後送ってくれるあの池田CAPだった。池田さんに羽交い絞めされてはどうしようもない。しかし、この瞬間アイスホッケー部に対する気持がどこか一気に冷めてしまったのも確かだった。腹を立てたまま翌日一人で東京に戻り、さっさとアイスホッケー部に退部届けを出した。