2014年12月6日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #84.」 VAN宣伝部・販売促進課に入る事は自動的にアイスホッケー部ヴァンガーズに入るという事だった。

1973年当時、読売ジャイアンツ・巨人にはまだ長嶋茂雄・王貞治が現役で居たし、驚異のV9最終年度に当っていた。つまり自分が都立広尾高校2年の時から毎年ずーっと巨人が優勝していたのだ。今そのV9の間巨人軍の監督を努めた川上哲治さんが生まれた熊本県人吉市でヤマセミの写真を撮っている事を思うと、奇妙な縁だと感じない訳にはいかない。

 この青山のヴァン・ヂャケットに入社した1973年、世の中のスポーツに対する人気度・話題度とヴァン・ヂャケット社内の話題スポーツには、月とスッポンの差があった。青山3丁目の本館へ入ると途端に世界が変わりアメリカンスポーツ一色の領域に入るのだった。社内報、パンフレット、カタログ、VANの御用ファッション雑誌メンズクラブの記事、いずれをとっても出てくるのはアメリカンフットボール、アイスホッケー、ラクロス、モータースポーツなどで、自分が自分で体験できるスポーツは殆ど無かった。むしろプロやトップクラスの試合を観戦に行く・・・といったジャンルのものばかりだった。学校時代サッカーやバレーボールを体育会組織でやってきた自分にとってはいささか拍子抜けする感じだった。
ヴァン・ヂャケットには社内クラブとして、これだけのスポーツクラブが存在した。ヴァン・ヂャケット以前にも以後にも、このような会社は世界に存在しないだろう。

 それが入社して1週間も経たない或る日、若林ヘッドが「シンジョー!これっ!」とだけ言って、ドサッととてつもなく大きなダッフルバッグをデスクの横に放ってよこした。ポカーンとした顔でヘッドの方を見ると「今日からお前はアイスホッケーをやるんだよ」

 丁度私と入れ替わりに宣伝部販促課を退職した中村勝治さんという方が居て、その方が使っていたアイスホッケー用具が全部自分に回ってきたわけだ。中村勝治さんはその頃のヴァン・ヂャケットの会社案内の一ページに出ている。勿論アイスホッケーの格好をして写っている。自分で見ても自分に似ていると思うのだから、ヴァン・ヂャケットの先輩達が笑ってしまうほど似ていると言うのは良く判るような気がする。この中村勝治さんは人気商店街中野ブロードウエイの商店街に実家がレコード店を経営していて、それを継ぐために退社したようなのだ。
左が先輩・中村勝治さん、右は宇野さん(京都でメンズショップ経営)。誰もが左は筆者だろうと言うが1972年の会社案内に私が写っているわけがない・・・と思ったら、実はこれは1974年用の会社案内で間違いなく左は筆者であるそうだ。人事部に居た五十嵐(旧姓千葉)さんから鋭いご指摘を受けてしまった。

  一度、お店まで挨拶に伺ったことがある。そのときにお店で買ったレコードが荒井由美の最初のLP「ひこうき雲」だった。鼻に抜けるヒェーッ!っと云うような声で歌う「荒井由美」というシンガーソングライターが曲もろくに知らないのに気になったのは、彼女が広尾高校時代筆者と同期のマドンナが進学した多摩美出身だという事だった。ひこうき雲というアルバム・タイトルと同じ曲は、どこか60年代後半に散々流行ったプロコルハルムの「青い影」の旋律を思い出させたが、19歳の女子大生が作ったにしてはシンプルで良い曲だとは思った。しかしその後も曲は好きな曲が多いが実際に歌うのはハイファイセットの山本潤子のほうがはるかに上手いと思うし心に響くと思う。

荒井由美の最初のLPレコード。まだ我が家に存在する。

 またまた話がそれてしまったが、中村勝治さんが使用していたアイスホッケー防具1セットを頂いて、その週からアイスホッケー・ヴァンガーズの練習に入ったのだった。場所は品川スケートリンク。今はもう無いが品川プリンスホテルのメインタワーが建っている辺りにアイススケート場があったのだ。品川スケートセンターという名前が正式名だったと思うが、当時フィギュアスケートの渡部絵美がホームリンクにしていた。或る時ヴァンガーズの練習時間・夜11時になっても渡部絵美が練習を切り上げず、15分が過ぎてもいつまでもリンクに居たので我々が全員リンクに入りパックを乱打する練習を始めた。そうしたら、英語で何か文句を言っていたのを覚えている。その後、当時彼女のパトロンだったのか、日本アイスホッケーリーグ国土計画のオーナー堤義明からクレームが入ったという話を聞いた、しかし本当かどうかは良く知らない。
 このウインタースポーツ界の超有名人堤義明氏とは、個人的にも色々とこの先長野オリンピックに至るまで色々な所で不思議なご縁があった。
今はもう無い品川スケートセンター。日本リーグを散々開催した場所。

 品川スケートリンクはヴァン・ヂャケットで借り切って社内にあったアイスホッケーチーム4チームで紅白戦をやったことがある。ヴァンガーズA、ヴァンガーズB、ラングラーズ、ヴァンヒューゼン・バイオーズ。この社内対抗の時に石津社長がお茶目な提案をした。「全員のお尻に風船をつけて鬼ごっこをしろ!割られたら負け!」 社長命令だったが、あまりの事に若林ヘッドが進言して中止した・・・というエピソードがある。

 いずれにせよ、スケートリンクは東京でも限られた場所にしかなかった。品川スケートリンク、池袋スケートリンク、高田馬場シチズンスケートリンク程度だった。東伏見のスケートリンクは1973年当時まだ出来ていなかった。北区王子の十条製紙スケートリンク(現在はすでに廃止)もまだ無かった。
 なおかつアイスホッケーの練習をするには全面貸切にしなければならないので、物理的に練習時間は深夜~翌日になってしまう。遅い時間の練習開始と翌日になっての帰宅なので、車での移動が必須になってしまう。まだ車の運転免許も持ち合わせずどうやって練習に参加するか考えていたが、八王子野猿街道に住んでいた同じ販売促進課の池田忠CAPに毎回必ず送って貰う事でこの問題は解決したのだが、VANに在籍していた間は常にこの池田さんのお世話になっていた。いわばヴァン・ヂャケットにおける大恩人のひとりだ。


 実は当時も今も車に関してはあまり詳しくないが、この池田さんの日産スカイラインGTはそれなりに車好きの人間には名の通った車だったらしい。自分が免許を持っていない時分には車には更に興味も無いのだろう。しかし自分的には車の免許を持ってからも、基本的に車に対する興味は一般の同世代とは随分違っていたような気がする。
  一番欲しかったしカッコ良いと思ったのはピックアップバンだった。後ろの荷台にDATSUNとかMAZDAと浮き文字でデカく書いてあるのが欲しかった。今でも荷物を沢山積めて燃費の良い車が自分にとっての理想的な車だ。ボディの色や形や最高速度など全然気にならなかった。乗って車内に座ってしまえばそんなもの判らないし、無駄が嫌いでケチな人間としては余程燃費の方が気になった。
池田さんが乗っていたスカイライン、正確には少し違うかもしれない。

 BMW・ベンツ・ワーゲンなどのドイツ車やサーブ、ボルボなどヨーロッパ車に一時興味を持ち何台か友人の車に乗せてもらったが、結局は壊れない、雪山でも何処へでも行ける意味で4WDのスバルに20年以上乗り続けている。無駄な税金や高い修理代を払いたくないという気持ちの方がカッコ良い人気車に乗る欲望よりはるかに強いのだろう。そういう意味からすると筆者の車に対する考え方は少し変わっているかもしれない。

 またまた脱線してしまった。

 2週間に3回ほどの練習日は、日頃のストレスを発散する為には格好のガス抜きタイムでもあったのだろうが、新入社員でなおかつアイスホッケー未経験者にとっては、おっかなびっくりの連日だった。
 あの宣伝部宣伝課に配属になった体育会スキー部出身の内坂庸夫君も自動的にアイスホッケー部に入る事になった。彼は競技スキー上がりで、もうベテランだからスケートも最初からスイスイ出来たようだ。こちらは過去において2度しか氷の上に出た事がなかった。実際スケート靴を履いて氷のリンクに出ると、イメージ的には人間が初めて宇宙空間に出たような・・・、つまり未知の世界に出たような気分になった。
高田の馬場のシチズン・リンクでの写真。筆者は右、左・大野コーチ、中央・若林ヘッド

 しかし、アイスホッケーの防具をつけて、長いスティック(木製の長い棒)を持って氷に出ると、何かが随分違った。ただ、スケート靴を履いて氷上・リンクに出た時と違って、安定感を感じ妙に安心感が有るのだ。同時に転んでも痛くない、怪我をしないという保険のようなものを感じ、最初から結構思い切って滑れたような気がする。そうして怖いもの無しになった気になる。

 その瞬間こう感じたのをはっきりと覚えている。「人間、ヘルメットを被って長い棒を持つとどう猛になる!そうか、大学の全共闘の連中がスポーツ音痴なのに暴れられたのもこれが理由だったんだ!」