2014年12月27日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #88.」 最初の大仕事はVANMINIの七五三キャンペーンだった。 その3.

 此処でヴァン ヂャケットの意匠室というものの存在をご紹介。もともと宣伝部には宣伝課・販売促進課という2つのセクションが在った。これは筆者が入社した時点での話だ。だから入社時の配属先は宣伝部・販売促進課に見習い採用となっている。そうしてその時点で宣伝部に意匠室というデザイナー達のルームが在り、当時のVANのイメージは殆どがこの部屋から生まれ出たと言って良い。正確には確認していないが我が上司軽部キャップもこの意匠室に一時籍を置いていたという。デザイン的な素養とセンスを持った人間がプランニングとディレクティングを行えばもう鬼に金棒だ。そういう意味からすると世の中に出て、最初の上司が軽部キャップだった事がどれほど自分にとって幸運な事だったのか、影響を受けたのか今になってみて大変良く判る。1978年にヴァン ヂャケット倒産後3つの企業に籍を置いたが、軽部キャップほどの幅の広い実務力のある人間にはついに遭えなかった。

 この意匠室に同期で入社した2名がいた。村田君と吉村君の2名、二人とも東京芸大卒でそれなりバリバリのアーティストだったが、彼らの普段の私服を見ている限りではVANのデザイン理念、トラッド・アイビーの歴史・根本理念をどれほど自分のものにしていたかは定かではない。当時の美大生なりアートを志している者達はキューバ革命のチェ・ゲバラだの、反戦フォーク・グループ達が好んで着て居た米軍放出品の戦闘服の古着などを好んで着て居たので、アイビー・トラッドなど価格の高いスタイルは好まなかった傾向がある。あのジョン・レノンでさえ米軍放出品を着て反戦ステージに立ったことがあるほどの時代だった。
1972830日にジョン・レノンがニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行った知的障害児の為のチャリティーコンサート「One To ONE Concert」で着用していたアーミーシャツ 

ただ村田君は筆者と非常にウマが合った。それは英国マージービート、つまりリバプールサウンドと言われたビートルズを中心としたバンド達の曲を熟知していて、ヒットしていない隠れた名曲に関しても良く知っていた。それがまた、好きな曲がほとんど同じだったりするものだから、良く彼の席の横に行って話し込んだものだ。その都度リバプールサウンドなど少しも判らない先輩たちに「おい、シンジョー!学校じゃないんだぞ!」と言われて追い払われてしまった。しかし、30分もすると元の位置に座っている筆者を見て、そのうち何も言わなくなった。
The Beatlesと同郷Liverpool出身のGerry & The Pacemakers デビュー曲はビートルズ作詞作曲のHow do you do it だった。
   How do you do it ビートルズオリジナル(レコード発売せず)

※  How do you do it  ジェリー&ザ・ペースメーカーズ、デビュー曲
    https://www.youtube.com/watch?v=AQD-m2AQoXc     (Youtube)

 この意匠室のメンバーへの仕事の依頼は有る様でない様で、一応室長の渡辺薫さんにお願いすると「〇〇にやらせるから~」との一言で担当者が決まるのだが、大体においてブランドごとに担当者が決まっていたようだ。VANMINI、VANBOYSの担当は石田さんという年中ジーパンとワークブーツの大工みたいななりの人物だった。オジサンと言うより、お兄さんと言う感じで、デザイナー系としては異質のスタイルと言って良いだろう。もっともいわゆる美術系のデザイナーと言うより
、ノベルティ作りの職人と言った感じのほうが合っていたかもしれない。
 
アメリカの匂いがに強かったワークブーツ。今でも根強い人気。 Google画像


 VANMINI VANBOYSといった簡単明瞭で単純な売り場販売促進中心のキャンペーンであれば、気の効いた親も子供も、そうして販売員、得意先の売り場担当者が喜ぶ物を作って提供すればそれで済んだが、VANブランドやKentブランドはそう簡単にはいかなかった。VANやKentとも成れば売る側と買う側の年齢層がオーバーラップして来るし、なまじヴァン ヂャケットの社員よりはるかにトラッド・アイビーの世界にはまり込んで、商品知識あるいはウンチクに関して「歩くファッション辞典」のような人物も居た。特に名古屋以西、関西にはトラッド・アイビーがもう生きがいに近いような人物が現れ始めていたのもこの頃だ。

 つまり、Kentの顔と言われた我が同期の横田哲男君のような人間が、何人も出始めていたのが当時の関西の環境だったと言って良い。これは現在でもVANファンが名古屋以西に多い事でも良く判る。VANの昔のプレミアム、ノベルティをコレクションしている人も名古屋以西に多いようだ。
未だにコレクターが多いVANのノベルティ類のほんの一部。

 したがって、VANブランドやKentブランドのプレミアム・ノベルティの制作ともなると意匠室もそれなりの知恵を絞らねばならないし、雑誌やTVCMなどメディアでの告知を考えると不特定多数のVANファン、Kentファンがよだれを流すほどの魅力を作り上げねば成らない宿命を抱えていた。
VANも後期の傑作 アメリカっぽい味で人気。生産数が非常に少ない。

  やはりそういう中で、何をどのようなデザインで作って世に送り出すかの決定権を持っていたのが、宣伝部の下村課長と意匠室の渡辺薫さんだった。基本的にはプレミアム・ノベルティの制作予算は宣伝課ではなく販売促進課の予算枠だったがこの辺りは「阿吽の呼吸」で販促・宣伝の協調体制が上手く行っていたのだろうと思う。

 しかし、入社直後2~3日したある朝出勤してみたら、販促の部屋の中が滅茶苦茶になっていた事があった。天井から下がっているシーリング(明かり)は割れており、あちこちに破壊されたようなモノが散乱していた。詳細は怖くて新入社員としては訊ける状況には無かったが、前夜宣伝課と販促課の間でひと悶着あった事はすぐに課のスタッフの話で判った。酒を飲んで暴れたのか、まじめに大喧嘩したのかは定かではない。今もって秘密のベールに包まれた事件のひとつだ。

 話が道をそれたが、VANMINI VANBOYSに関しては、ワリに小生意気な新入社員の筆者も意見を言える部分があって、先輩達も何処かの経営者のように「やってみなはれ!」的に自由にさせてくれたようだ。逆に言えばそれほど注目されていなかったのだろうとも思える。
 ウエスタン七五三と云う事なので、当初はウエスタンが大好きな如何にもアメリカっぽいノベルティ、プレミアムの意見が意匠室から出てきたが、高島屋の石原一子部長や石津スミ子さんのアドバイスだから・・・と自分の意見を頑張って通して24色入りのクレパスや3本入りの鉛筆などを作ってもらった。
画材メーカーに特注で造って貰ったVANMINI特製クレパス24色入り。

ノベルティとして3本入りの木の地肌を生かした鉛筆セット。

 心のどこかで、小さい時の運動会の上位入賞者への賞品が浮かんでいたのかもしれない。結果からいうと大成功で、事前調査に行った成城VANKiKiの石津スミ子さんも大変褒めてくれたし、勿論日本橋高島屋の石原さんにも再び「ムンギューッ」とハグされてしまった。アドバイスを直ぐにきちんと反映した事を褒めてくれたのだった。お客様からは当然「もっともっと!」のリクエストだった。