今日のブログは夜になってしまった。
昨日の虎ノ門ヒルズに引き続き、写真展関連のイベントに参加した。今日のはトークショーだった。場所はミッドタウン東京にあるフジフィルム・スクエアの二階。
クリエーターの友に誘われ参加したのだが、中身は残念な内容で会場でもコックリしている方多数。我が友も7割方の時間意識が無かったのを横で確認している。筆者も5~6分意識が遠のいたのを自覚している。
要は写真展で入場者に配布している「写楽祭」の小冊子を読めば済む内容なのだ。わざわざ使い慣れていないマイクで割れた声で解説するほどの内容ではない。
第一、解説者がマイクを使いなれていないのが恥ずかしい。フジフィルムの関係者がマイクを少し離すように注意すれば済む話なのだが、この手のイベントに慣れた手練れが居ないのだろう。掛け合いの相手と話がかぶる場面も多く非常に聴き辛かった。
広告代理店で30年以上生のイベントを運営してきた身としては、無料のイベントとはいえ、もっときちんとしてほしかった、残念。
人間生理学的にスライドショーは9分が限界、割れた音声での解説を聴かされるのは5分が限界なのだ。これを過ぎると睡魔が襲ってくる。聴衆というのはそういうモノなのだ。
もう一つ、参加している聴衆はいつもフジフィルムスクエアでの写真展に来られていて、自分でも写真を撮る人達だろうと思う。中には筆者の様に自費出版している人も多かろうと思う。
そういう人たちが1950年代~1970年代の著名写真家を並び立てるだけのトークショーで満足すると思ったのだろうか?まだデジタルが無く銀塩フィルムでしかありえなかった時代の写真家の作品と、デジタルカメラ全盛になった今の著名写真家さんとの違いは何なのか?
被写体の選び方、アングルのとり方、表現のユニークさ、プロの写真家さんそれぞれの個人背景がこうだからこういう表現方法なのだろう?・・・的な話が聴けるものとばかり思ったが、残念だった。自分で写真も撮らないのに「写真評論家」という肩書で活動している人の限界なのかもしれない。
筆者は自然界の被写体を主に撮影し、毎日ブログで発表し、自費出版の写真集もDTPで少数ながら20冊を超えた。中には2か月間で150冊以上売って頂いた(=たった1店舗で)ヤマセミの本もある。
ブログ以外にもFacebookなどで修業のつもりで1日100カット以上撮影する中からいくつかを行動日記的に投稿している。
自分で写真を撮りもしない人にプロの写真を評論できるのか?自分で相撲を取りもしないのに相撲解説が出来るのか?自分で映画を作りもしないで映画評論が出来るのか?
はたまた、自分で楽器の一つも演奏できないのに「今日の演奏は良かった」だの、「ミスタッチが多くて貧相だった」だの偉そうに言って良いのだろうか?
そういうことを筆者は絶対に出来ない。
人の作品を観たら自分だけの感性で良いか悪いか、好きか嫌いか‥心の中で思っていれば良いだけの話で、自分に出来ない事を受け手だけの立場で外に向かって「評価する、評論する権威者」に成ってはいけないと思う。感動して褒める場合は別の話。
人の撮った写真を観て、何かを感じる人、感じなかった人全員が評論家だと思う。
少なくとも今日会場に来られた方で、自分で写真撮影している方は消化不良・当て外れのトークショーたったような気がする。
フジフィルムさんも、壇上の評論家さんも、アサヒカメラや日本カメラが廃刊になったことを質問者と一緒に憂えるのではなく、写真集をもっと買ってください!と訴えるのではなく、写真を撮る人の道具の80%以上が今やスマホに成ってしまっていることを憂え、写真界の今後を危惧し、何とかしようよ!
デジタル一眼、銀塩カメラ、とは違うスマホ撮影の「写真」が世の中の常識になっていった時、1950年代~’70年代の名作が「駄作」に見えかねない事を憂え、評論家なら何か問題提起をすべきじゃないだろうか?
写真月刊誌が消えていくのはITの発達・普及で当たり前の事。いかにも昭和時代の写真愛好者らしい質問者が嘆いて発言するのを聞いて「そうなんですよねー」じゃなく、デジタル・パソコンの時代になったんだから、写真月刊誌は採算が合わないので消えていくんです、仕方がない事なので愛好者の方でそれに合わせて行かないといけませんね?・・くらい言うべきだと思ったが如何だろう?
この項しばらく続く・・。