此のヤマセミWEBブログ、週末の2日間は団塊世代の愚痴こぼしシリーズで、長いこと投稿させていただいてきた。時には平日の野鳥の時よりアクセスが数倍あったりもして、筆者的には「えっ?」とか「マジっすか?」という日もあった。
特に先週「団塊世代は歳を重ねて自分の非を認めず謝れなくなる高齢者を憂える。Boomers worry about older people who are unable to apologize and admit their own faults as they age.」の日は、普段の10倍のアクセスがあって腰を抜かした。「判る、同じ経験あります」という投稿もあって安心したりもした。
http://yamasemiweb.blogspot.com/2023/09/boomers-worry-about-older-people-who.html
一生で初めての本格的写真展を、尊敬している写真家さんのプロデュースで今年の7月に実施できたことは、このブログで幾度もその経緯をご紹介してきたとおりだ。
http://yamasemiweb.blogspot.com/2023/07/photo-exhibition-produced-by-hideaki.html
筆者の消極的な予想を超えて、思いのほか数多く来てくださった来場者。終了後しばらくして来場者数に漏れが判り、最終的には1,000人弱が来場くださったことが判明。9日間で1日平均約100名来場というのはこの手の写真展としてはけっこうな数値らしい。
プロデューサー写真家さんの目論見は大成功だった訳だ。
案内状デザインの品質(本物のグラフィックデザイナーさん制作)、大きさ、スペース的に二部屋あった予定の会場を急遽半分の1室にまとめたことなど、写真家さんの経験値からくる写真展開催の「勘」が冴え渡った事が素晴らしい結果へつながったとみている。素人には全くできない事だ。
只々、その恩恵にあずかった筆者だが、その分感謝を込めて先日関係者をご招待し、調布で打ち上げの会を主宰させていただいた。ここから先は極めて「私事」になるがご容赦願いたい。
で、この打ち上げというのがまた世にも不思議なメンバーつながりだった。筆者が招待するのでメンバーはもちろん筆者独断で選ばせていただいた。
しかし、参加者は初顔同志も居て、お互いの相関関係が判らないので、口頭で最初に説明しようと思ったものの、シミュレーションしてみると説明する筆者自身が混乱してしまうありさま。
そこでパワポで相関図を作成して当日お持ちし全員に配布した。そうでもない限り下手をすれば参加者各人孤立したような感じになりそうだったので・・。
結果は大成功だった。
メンバーは7名で、そのうち筆者を含めて4名が北九州小倉(旧小倉市)育ち・・・というのが今回の肝。更にほぼ全員が美術系クリエーター(主賓の写真家ご夫妻も)、同時に教育系でもあるので会話が外れることもなく、あっという間の2時間半だった。
いろいろな学校の同窓生同志、先輩後輩、密接に関わりあっているメンバー同士の交流は単なる知り合い、同僚や仕事関係仲間の飲み会や会食と違い、新しい何かが生まれる「時空間」だったと思う。
良く居る「俺が俺が!」と何でもかんでも黙っていられず、声高に話の中心に成りたがるおしゃべり人間が一人も居なくて、品の良い打ち上げ・感謝会になったと思う。
尊敬する写真家さんは、写真展が終わった翌日からもうクルマで信州の山や北海道へ遠征し、次のアクションに移っている、年齢を感じさせないタフな方だ。体育会系を自認する筆者なのに、今回普通のペースに戻るまで3週間は掛かってしまった。要はそれだけ蓄積疲労が大きかったという事だろう、人生で初めての事だった。
人間つくづく健康が第一、というのもこの写真家さんから無言で教わった大事なことだ。
更には今月後半からこの展示会がある、ぜひ行って写真家さんの素晴らしさに接してほしい。特にご自分で写真撮影される方は・・。
今回の打ち上げ、話題は当然アート・美術展・写真展・写真~で進んだのだが、なんと1968年10.21(月)国際反戦デーの新宿駅騒乱罪事件当日の話になり、メンバーのうち4名があの時あの場に居たという事実が判明!驚きの盛り上がりだった。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030082_00000 NHKアーカイブ
4名のうち2名はカメラを持って機動隊と過激派の入り混じる雑踏を走り回り、騒乱の中でシャッターを切っていたという。ひょっとすると切ったシャッターにお互いが写っている可能性があるというのだから凄いことだ。
残りの2名は東口雑踏見物人の中に一人。もう一人は徹夜装飾・ディスプレイ替えの徹夜バイトで一晩中西口小田急デパートの館内に居た一人、実はそれが筆者だった。
当時阿佐ヶ谷美術学園に在籍していた筆者と仲間8人「商工美術」というディスプレイ会社のバイトでその日の夕方、デパート閉店時の18時から小田急デパート館内に居たのだ。
翌火曜日はデパート定休日。のんびりとした作業の中、同僚2名が騒乱が始まって騒ぎが大きくなった午前0時頃「ちょっと見てくる・・。」と言って出たたまま2日後学校に現れるまで行方不明になった。騒乱罪で警察に捕まってトラックで運ばれてしまったという。
まさか一つの写真展の打ち上げで、50年以上、つまり半世紀以上前のある一瞬、そこに集う4名が半径300mの時空間に居たというのは、単なる奇遇というレベルを超えて奇跡に近いのではないだろうか?
こうして、写真展打ち上げの宴を機に新しい交流、新しい友人知人が生まれ活動の輪が広がったのだが、その一方でこの写真展では信頼していた永年の友との離別が生まれてしまった。
これからは少し重い話になる。あくまで私事なのだが、一時はこのブログを終了しようかと思うほどの岐路に差し掛かった気もしたので、あえて吐露してみたい。
このブログでも既報のとおり写真展が始まって2日目の夕刻、いきなり悪寒と倦怠感でダウン!さあ大変!写真展運営に穴が開く・・。忙しい写真家さん一人に終日現場をお願いするなんてとんでもないこと・・。
さぁ、どうしようと絶望の床で唸っている時、最初に今まで一番近い存在で信頼していた(~と思い込んでいた)長年の友に助けを求めた。しかしけんもほろろ、仕事の約束があるとも期限・納期の迫った作業があるという話も無いようだったが、気分的に面倒くさかったのだろう、平日は全く無理・・色よい返答を貰えなかった。
せめて来客が多い日曜日の2~3時間でもお願いできないか・・と懇願しても即答ではなく渋々の受け答えだった。この一瞬のショックがすべての終わりの始まりだった。
一方電話した二人目(病人を抱えて、一方で孫多数の世話など多忙人間、しかも遠方都心を抜けて埼玉在住)は、「それは大変!何でも言ってよ!」とすべて公私に渡り詰まった予定をすべてキャンセル・調整してくれた。結局筆者が復帰する4日後まで遠い埼玉から毎朝通い、すべての代役を買って出てくれたのだ。地獄で仏・・とはまさにこのことだった。この時の「安心感・感謝の心」は言葉では表せない。
どんな宗教でもこういった具体的な救済は無理だろう。
その人物こそ、小学生時代を同じ九州・小倉で至近距離に居ながらお互い知らないまま過ごし、わが妹の同級生であった事などを含めてすべての繋がりが60歳を超えてFacebookで繋がって初めて判明するなど、奇遇な糸で結ばれた相手だったのだ。
なおかつ示し合わせた訳でもないのに、偶然2社の広告代理店で同じセクション、同じフロアで同僚でもあった不思議なご縁なのだ。その昔NHK(私の秘密)で高橋圭三アナが「事実は小説よりも奇なりと申しまして・・。」と言っていたのの現実例なのだ。
だから、打ち上げ感謝ランチ会にはこの人物の関係者を無理言って特別招待させていただいた訳だ。決して恩返しというようなレベルではないが・・。
一方で、その電話で快く代役を受けてもらった瞬間、筆者自身人を見る眼の無さという大反省、今の今まで大きく信頼していたはずの人間の冷たさを瞬時に感じ、脳の中で人間評価、人生観、が大きく激変してしまったのだ。クレディビリティ(=信頼性)がなくなった瞬間のショックはそれは見事なものでアッという間だった。残念!
普段盛んに言っていた「体には気を付けてくださいよぉ?心配してんだから・・。」の嘘、虚しさ。行動の伴わない、言うだけ人間を見抜けなかった自分を恥じた一瞬でもあった。
また、ある祝い事のプチ豪華な食事会に招待した際、招待主の筆者に黙って関係ない友を連れて来るような非礼をされても黙って許した。このあたり「お前は甘いんだよ!」と言われても仕方ないとは思うが・・。要は筆者が「お人好し」ってことだろう。いつの間にか、なんと人を見る眼の無い高齢者になってしまっていたのだろう?
記憶の中でこれに似たショックは1963年Beatlesのプリーズプリーズミーを初めて聴いて脳をハンマーで叩かれた様な気分になったあの瞬間くらいなものだろうか。
ここからは一般論だが、団塊世代に残された日数はもうそう多くない。
寿命が尽き、この世から居なくなる瞬間、人間はその前後、色々な事を頼れる信頼できる友を身近に持っていたいものだ。
昔は人の死を「家・家族」が中心で処理し終えた。友人知人などの連絡先は手紙や住所録・名刺などアナログで残っていた。
しかし、現在はPC、スマホ、各アプリにデジタルデータで友人知人が山ほど存在する。筆者のようにやたら色々なジャンルに知り合いが多い場合、家人・親族はそれを知らない。
下手すればパスワードも知らない家人たちはパソコンも開けられない。
3.11東関東大震災の時、失った友二名の家も双方まさにそれだった。残された親族の困惑は目に余るものがあった。
Facebookに1,000名以上FB友達をガンガン積み上げた人などは、いざという時どうするのだろう?自分が居なくなった時にそれを放っておくのは、繋がっている相手に失礼だし無責任すぎないか?
筆者はそう思う。いくらドライなSNSとはいえ、筆者はFB友の数を常時100名以下にコントロールしてきた。逢った事が無い知らない人とはよほどの人物でないと繋がらない。
ある意味それでもまだ多い気がしている。
同じ代理店に数年ダブって勤務した団塊世代の友もそうだった。MLB狂いで単独USAツアーに幾度も出かけ、パステルで全米各地の球場雰囲気をたくさん描き残したアーティスト。
筆者には持ち合わせていないその技と熱意を尊敬し、彼がMLBツアーに出発する時にコンデジを手渡し、いろいろ要望をして撮らせた「観光客が絶対に知らないUSA」のカットを写真集にまで作ってプレゼントしてあげたのだが・・。
それが不治の病が原因で黙って消え去り、家人から皆に何の報告・連絡も無く、友を心配・混乱に落とし込んだまま現在に至っている。無責任極まりない。
噂では、誰だか彼の旧友が実情を知っているが、情報公開・サポートしないという話もあるようだ。本人や家人からの依頼やその他理由はあったにしても、これって不義理の極み、人の道に反していないだろうか?筆者はそうしたくないから出来る限り、信頼していた友を大切にしてきたつもりだ。
筆者のようにスマホよりパソコンのほうを重用する人種は、パソコンにすべて住所録や友人関係が判るデータを入れてある。いざという時の連絡先、頼る先も詳しく残してある。
でもパソコンのデータは持ち主が居なくなった後どうするかなど、家人には判るわけもない。PC多用する人間は、このあたりの事後処理まで考えて、いざという時に備えねばいけないのではないだろうか?今や自分の終活にPCデジタル・SNS仕舞い・処理を考えねばいけない世の中になったのだ。
繰り返すが、今まで長いことこれらを含み頼みにしていたつもりの人間が、いざという時全く信頼できないと判った際のショックは今回相当大きかった。これは暫く尾を引いた。
それ以降、自分の脳の中での行動の優先順位、人間関係の優先順位が大きく変わったのは自明の理だった。自分自身のいざという時の指示書、ほか全てを仕切り直しをしなければと思ったのも、ある意味今回の写真展の大きな成果だったと言える。