報道写真家の笹本恒子さんが亡くなった。先日の森英恵さんなどと女性がまだ仕事の世界にそう沢山進出していない時期から先頭になって世の中を引っ張ってこられた方。107歳は立派。
今日はコロナの話はお休みして、亡くなった笹本恒子さんのお話。写真撮影の愛好家としては少し大先輩を偲んでみたい。
今年の夏は森英恵さん、オリビア・ニュートン=ジョンさんと筆者が直接握手なりハグした女性が亡くなって大変寂しい。
そうしてここへ来て、笹本さんの訃報、107歳だから大往生。何も言えないが一時代を頑張った写真家さんが逝くというのは悲しいモノだ。
笹本さんには直接お会いした事はない。しかし、我が父の17歳の時の写真がひょっとすると笹本さんのシャッターから生まれたものかもしれないという事で親近感がある。
笹本さんは1940年頃から日独伊三国同盟関連の報道写真を中心に撮影されたことで当初有名になられたと記事があった。しかし放送写真家としていきなり世に出て名を上げるという事は男性カメラマンが群雄割拠している中で非常に難しかったのではないだろうか?
同時に、それ以前の日独伊防共協定(日独伊三国同盟の前身)時代からそういった関係の行事なり催事を追いかけて撮影されていたのではないか?というかすかなる推察が生まれる。勿論推察であって間違っている可能性の方が高いかもしれない。
ここで我が父、新庄一郎が登場だ。新庄?イチロー?今生きていたら野球ファン羨望の名前ではないか?
冗談はさておき、我が父は1920年(大正9年)生まれ。祖母(父の母親)新庄よしこ(日本幼稚園史・著者)が勤めていた関係で、東京女講師(後のお茶の水女子大)附属幼稚園、附属小学校~成蹊中学・高校を経て京都大学理学部に進み、その後江田島の海軍兵学校の教官を勤めたからあの「坂の上の雲」に出て来る名参謀・秋山真之海軍中将の後輩にあたる。我が父は海軍少尉で終戦となった。
この父が成蹊高校時代、日独伊防共協定締結記念・少年陸上競技大会に出場し、その際の写真が残っているのだ。
ひょっとすると、笹本さん、日独伊三国同盟関連の催事・行事を撮影されたと記述が多いので、この旧国立競技場(現在の2代前)での写真も笹本さんが撮られたのではないだろうかという淡い可能性を感じたので、今日は特別このブログでご紹介する次第。
しかし、写真というものはつくづく色々な奇跡を引き出してくれるものだと思う。