紆余曲折あって入学前の1968年秋から11ヶ月間全共闘によって封鎖されていた横浜国立大学も最終的には9月29日の横浜公園体育館(フライヤージム)での、大学執行部と各学部自治会統一代表団共催の全学集会で確認書が合意され、紛争が終結する。
右が封鎖当初の横浜国大清水ヶ丘キャンパス正門、左が封鎖解除後の正門(横浜国大・友松会資料)
横国美術科の学生に全共闘の過激メンバーは居なかったと思うが、新左翼全共闘と対峙していた旧左翼民青(=共産党系の日本民主青年団の略)に所属するメンバーは居たようで、大学がどのような形で封鎖を解除しようとしているかの情報だけは入ってきていた。
新左翼だろうが、旧左翼だろうが、政治思想には何の知識も興味も無い筆者は、右翼、ノンポリと言われようが日和見主義と言われようが、同時に入学できたクラスメートと共にひたすら学生の本文である大学での正式授業開始を願った。
政治的思想に全く興味がないのは今の今までずーっと同じだ。
学生大会を開いて1年前に成立してしまった「全学封鎖」の学生自治会決議を終了させ、新たに封鎖解除を決議すべく開催される学生大会会場の横浜公園体育館(=木造でフライヤージムと呼ばれた)に自ら手を上げて参加した。
理由は、早くまともな大学の授業を受けたいからに他ならない。
翌日に学生大会を開くという情報が過激派全共闘に流れると、集団で武力を持って阻止に来るというので、前日の夜から徹夜でラグビー部、サッカー部、野球部、柔道部など体育会系は殆ど駆り出されていたような気がする。この頃携帯端末があったら、どれだけ便利だったろう。
季節的には9月末なのであまり寒くも無く、暑くも無かったがイベント前夜で800名近くの若き大学生男子がボロボロの木造体育館に閉じこもる姿は、一種異様な感じだった。
美術科メンバーの女子達には何が起こるか予想も付かず危ないので、体育館附近には来ないよう指示し、男子の有志だけ数名が参加した。
横浜フライヤージムといわれた横浜公園体育館は現在跡地に横浜DeNAベイスターズの本拠地になっている横浜スタジアムが建っている。木造+トタン板張りで見た感じ大きな物置って感じ?の横浜公園体育館。
在りし日の横浜フライヤージム。右は横浜市庁舎。(写真提供:横浜市史資料室)
で、学生大会が開催され始めたのだが、当日の朝になると案の定、全共闘中核派の白ヘルメット部隊が多数角材を持って集結しているのが、木造の体育館の外壁の隙間から見て取れた。
全容は判らないが相当数に上っていた。しかし当日来たものの、過激派の妨害突入を防ぐために、扉を閉ざしてしまった横浜公園体育館に入れなくなった一般の横浜国大生たちも、その倍ほど終結していた。
更にはその角材武装の全共闘の後ろに、紺色の制服の機動隊がびっしりと整列していたので、何故か非常に心強かったのを覚えている。横国大入学試験の際、トイレの窓から目の前の青いヘルメットを観て以降、テレビで散々見てきた機動隊だったが、こういう形で再び自分の人生に関わってくれていると思うと、何かとても不思議だった。
午前10時過ぎに、会場の中には入れないが委任状と言う形で参加した一般学生の数を入れて封鎖解除の議決・採決作業が進む中、いよいよ過激派の実力による入り口突破作戦が始まった。これが1時間ほど続くすざまじい戦いの始まりだった。
全共闘は隊列を組んで正面の扉を力で押してきた。もちろん中に居るこちらも同じく隊列を組んで、外に向かって圧力をかけるのだが、とにかくこういうことは今の今まで一度もやったことが無い!
横に並んで腕を組んで何かをするのは、大嫌いなフォークダンスか、小学校の運動会の二人三脚しか経験が無いから上手くいくわけも無い。
「大体こんな事させられるなんて、言われて無いぞ!」と、さっさと戦列を離れる者が続出。最後までがんばっているのは体育会系と民青のメンバーが主流だったと思う。
危険だと言うので何処からか配られた黄色いヘルメットを全員被らされた。生まれて初めて被ったヘルメットだったが、どうも自動的に学生運動の民青の一員にされたような気がして、すぐに脱いでしまった。
その代わり体育館の備品室の隅に10個ばかり転がっていた「総務課」と大きく書かれた白いヘルメットを被った。きっと横浜市の備品だろう。
当時の学生運動家の平均的イメージ Google画像
意図的にか、外部で電源が切られたためか、照明が消えて元々暗かった館内がほぼ真っ暗になった。今考えてみると、これは外から中を覗いた際に中の様子が見えにくくなるような戦術的なものだったのか?
入り口攻防戦は激戦で、一番最高潮の時は最前列あたりの列に居たものが圧力でつぶされ、胃の中のものをピシャーッと噴水のように空中高くに戻しあげているのをハッキリと観た!そういう者は大抵気を失っているので、ドンドン横へ引きずり出していった。
一進一退で攻防が進んだ頃、木造の外壁をメリメリと音を立てながら剥がす様子が2箇所で見えた。「来るぞ、来るぞ!破られるぞー!」と言う声がしたので、無意識でとっさに穴の開いた壁へ行き、反射的に防御体勢をとった。
横に居た誰かが傍にあった赤い消火器を逆さにして、30cm四方位の穴が開いた部分目掛けて消火剤を一気に発射させた。ちょうど中を覗いていた2~3名の顔に命中したらしく「ギャーッ」と言う大声と角材が転がる音が聞こえた。と、同時に遠巻きにしていた一般の学生や野次馬だろうか「オーッ!」と言う物凄い歓声が上がった。
意外にも普段はおとなしいクラスメートの岡崎徹夫君などが、ガンガン戦いまくって大変頼もしかった。人は見かけによらない、いざという時の驚くべき活躍を目の当たりにして、こちらも相当興奮したのを覚えている。
横浜公園体育館・フライヤージム事件の外部のイメージ・コラージュ
近くにいた誰だか知らない者に、「館内の消火器を探して全部持って来い!」と大声で怒鳴って、自分は備品倉庫らしい棚に掛かっていたカーテン生地を引き裂き、2本をより合わせてロープのようにした。
そうして恐る恐る穴から入ってくる五寸釘を打った角材の頭にこれを引っ掛け、3人で思いっきり中に引っ張った。そうすると、いとも簡単にこの角材が中に取り込まれてきた。
7~8本はゲットしたが、数回繰り返すと敵も一本の角材に2~3名を配して突撃してきた。しかしこちらもマンパワーを増やし、離すまいと壁際まで来た白ヘルには容赦なく消火器の泡をくれてやった。
そうこうしている内に、急に外がやかましくなり、体育館への攻撃がまったく止んでしまった。同時にあちこちから拡声器の声と大人数が動いているような足音と大勢のどよめきが聞こえた。機動隊が過激派を排除し始めたらしかった。
要は機動隊が法的に動く大義名分が成ったのだろう。これ以上は危険と判断したのか、大学が全共闘過激派の鎮圧を要請したのか未だに不明だが、体育館内も館の外もあっという間に静かになった。
戦闘が終わって2時間以上暗闇の中で待たされた感じだったが、実際は3~40分くらいだったろう。中に居るメンバーは口々に「どうなったんだ?外では何が起きているんだ?」と不安がった。
今のように携帯電話で外との連絡も一切出来なかった時代だ、無理も無かろう。しばらくして、正面の扉がギギーッと開いてまぶしい程の明るい光が入ってきた。
館内にいた教授陣を先頭に皆が外に出たのは昼前だったか、午後だったか良く覚えていない。外は曇っていた、小雨だったかもしれない。
しかし館内に入れなかった横浜国大生たちが拍手で取り囲む中、細い人垣の通路を凱旋するのはとても気持ちよかった。中には外に出た途端感極まって泣き出す者も結構いて、緊張感と徹夜から開放された瞬間をしみじみ感じたのを記憶している。
救急車で病院へ運ばれた者も結構沢山居たようだった。人垣の後ろのほうに横国美術科の女子が固まって居て、何とケーキの差し入れを幾つも持ってきてくれていた。
これにはその場に思わずへたり込みそうになった。差し入れを持って遠巻きに待ってくれていた我が美術科の女子達、もう誰を嫁にしても良いと思った・・・・・その時だけは。
箱入りのケーキ、とても嬉しかった!
外の皆に中で起こった事を話している時に、やたら首筋が痛いので手をやったら、何処かで引っかいたのだろう結構な血が出ていた。全然気がつかなかったのだが、両腕と両足にも血のにじむ擦り傷などがあちこちに出来ていて慌てて消毒など応急処置をした。
翌日になってみたら2箇所ほど青アザが出来ていた。夢中で何かに没頭している時には、まったく気がつかないものだ。
当然のごとく、マスコミが押し寄せて色々訊いてきたが、一言も口を開かなかった。中でも神奈川新聞の記者に出会ったときには、意識的にその綺麗に磨かれた革靴の上を、履いていた泥だらけのキャラバンシューズで目一杯踏みつけてやった。
美術科の皆と横浜駅西口ダイヤモンド地下街の喫茶店カリオカまで行く電車の中で、やたら車内の視線を感じ「何だ?何かおかしいか?」と思ったら、窓に映った筆者は「総務課」と書かれたヘルメットを被ったままだった。