2014年9月28日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #71.」 1972年春休み、英国短期留学ホームステイ始末記 その3.

音楽に関してはギルバート・オサリバンに限らず、当然BEATLESの母国だけに、現地へ行く前からいろいろビートルズやリバプールサウンド関連のモノを物色するつもりで居たから、まずはレコードの英国オリジナル盤、あるいは日本では手に入らないBeatles関連盤などを買い求めた。ロンドンにプロのサッカー試合を観に行った際は、この頃スタートしていたCAMDEN・LOCK・MARKETの中古レコード市へ行って探しまくった。その22年後、1994年リレハンメル・オリンピックの際に、再度このロンドン・カムデン・ロックに行ったが、ものすごく繁盛して巨大化していて物騒な危ない場所になっていた。’72年の10倍以上の数の中古レコードや古着のお店で賑わってはいた。 
現在のCAMDEN LOCK MARKET Googleフリー画像など

 此処でビートルズのレコードの話に入る前に、毎週末に行っていたロンドンの話をしよう。週末は英国国鉄のロンドン往復チケットが半額、つまり片道代で往復できるというものすごいWeekendサービスが在ったので、週末は数回ロンドン日帰りをしたのだ。基本的に1960年代までは英国の鉄道はエリアごとにいろんな会社に分かれていた。渡英当時は1969年に統合された英国国鉄を名乗っていたが、それも1982年までの短期間でその後ブロックごとに民営化された。この辺りは5年後1987年に民営化した日本もお手本にしたようだ。
Bournemouth Stationとロンドン行き列車。 1972年撮影

ボーンマスからロンドンへは週末50%offの切符が便利だった。約1時間半の列車旅だった。

ボーンマスとロンドンを結ぶ鉄道はサザンプトン経由でロンドン・ウォータールー駅に到着する。この駅に着く直前にピンク・フロイドのLPジャケットで有名なバターシー火力発電所が見えるが、1972年当時はもちろん煙を出しながら稼動していた。ビートルズの映画「HELP」にも停電したときにちょっと出てきた。偶然それを撮影していた画像が出てきた。40年間の流れを感ずる。
左が1972年稼働中のバターシー発電所、右が2011年訪問時の発電所(すでに休止中)

 ビートルズの映画と言えば「ヤアヤアヤア!ビートルズがやってくる!」の中で列車に乗って公演先に行く際に荷物室に入り込むシーンがあったのだが、この英国訪問時に列車内の同じような場所に入り込んで記念撮影した。
映画の真似をして貨物車両の檻の中で記念撮影。BEATLESはこの檻の中で「I should have known better=恋する二人」を歌った。 1972年撮影

1972年頃のロンドンは週末ごとにプロサッカーの試合があって、ロンドンのチェルシーFCやトッテナム・ホットスパーズ(通称スパーズ)が強かった。折りしも前年シーズン、再試合の後レアル・マドリードを破って欧州チャンピオンになったチェルシーの公式応援歌「Blue is the color」がBBCの上位ヒット曲に成って間もない頃だったが、翌シーズンのこの年は5位辺りを上下していた。英国サッカーチームの応援歌は結構ヒット・パレードの上位に顔を出すことが多い。
http://www.youtube.com/watch?v=Q1XUHAv_VwY   Youtubeより

リバプールFCの応援歌として超有名な「You’ll never walk alone」は、リバプール出身のグループ、ビートルズの兄弟分、Gerry & the Pacemakersの1963年の大ヒットを受けて応援歌になったもので、なぜか世界中のサッカークラブでもこの曲を応援歌にしている。なんと日本のJリーグでもFC東京がこれを応援テーマ曲にしている。
https://www.youtube.com/watch?v=awositUJYLM Youtubeより
1963~4年頃のGerry & the PacemakersTVクリップ。 

http://www.youtube.com/watch?v=HcBRHYuOr-A    Youtubeより
最近になって、Gerry本人がスタジアムで歌った模様。

いつもは誘導してもらっていたJTBの岡野添乗員や小池と一緒にロンドンまで出て、チェルシーのホームスタジアムまで試合を観に行った。地元ロンドンのトットナム・ホットスパーとの対戦で大混雑だったが、何とか立見(当時は普通席は立見が当たり前)のチケットを購入。しかし、遠くて写真など撮れない。そこで日本から有名なチェルシーの試合を見に来たと説明したら、またたく間に数人の男たちに最前列へ体を持って行かれ、白とブルーのツートンカラーのマフラーを首に巻かれ「一杯、チェルシーの写真を撮れ!」と言ってくれた。スタジアムにはもちろんチェルシー応援の観客しか居なかったと思う。


少し上から撮ろうとカメラを万歳の位置で構えたら、でかい労働者の親父が肩車するから其処から撮れと言う。あっという間に肩車され、2~3カット撮らせてもらった、それがこの画像だ。後ろの人々が「そいつは何だ?」とでも訊いたのだろうか、そのでかい労働者が「わざわざ日本からチェルシーの応援に来た。」とでも答えたのだろう。その後は周りの人々からものすごい歓待を受けてしまった。この時、言葉が通じないほうが良い場合もあることを知った。
1972年のチェルシーVsウエストハムの試合観戦

同じスタジアム10年後の改築状況、更にその後全方向大屋根に改築された。

別の週にはウエストハム・ユナイテッドのホームスタジアムに観に行った。理由はイングランド代表のキャプテン、ボビー・ムーアと1966年ワールドカップ決勝でハットトリックを達成したジェフリー・ハーストの最後のプレーを観たかったからだ。ジェフ・ハーストは憧れの選手だったし、誕生日が同じ日だったので思い入れが深かった。このときは奮発して高い席のチケットを買った。
1972年ウエストハムVSノッティング・フォレスト試合観戦 1972年撮影

試合前にはスタメンのラインナップ表を売っていた。きめが細かい。 1972年撮影

このときはスタンドの良い席を買い求めた。 1972年撮影

英国に入ってすぐプーマ(西ドイツ製)のサッカーシューズを購入した。日本で買うととても高かったので・・・。今の日本の価値観で行くと7千円弱だった。これを購入して、毎日ボールを蹴って練習は欠かさなかった。世界で一番普及しているスポーツのサッカーだから、当然ボーンマスの語学学校にもチームが出来ていた。メンバーには南米系のニカラグア、ブラジル、コロンビア、アルゼンチン、ヨーロッパではドイツ、フランス、イタリアから勉強に来ていた学生達のサッカー好きが入っていた。
なんとサッカー・シューズ購入の領収証が残っていた。当時の1ポンドは1060円。

週末の練習に入れてもらって一度練習したら、あっという間にフォワードをやれと言われ、次の週末の対ボーンマス駐屯陸軍設備チームの試合に出ることになってしまった。試合は街中の公園で行われた。もちろんジル・アリソンはじめホームステイ先など多くのファミリーが応援に来てくれた。さすがに陸軍チームは統制が取れていたが攻守が一本調子だった。その点南米出身の我が軍メンバーはキープ力が凄く、遊んでいるような感じでドリブルを続けるのだが、逆にボール離れが悪く、なかなかゴール前に効果的なクロスを上げない。街中でのサッカー遊びの域を出ないのだろう。それでも横浜国大サッカー部の試合のつもりで走りまくって幸運にも一人で3点を入れた。珍しい東洋人のハットトリックだし、最終的に1点差で勝ったのでもう大騒ぎだった。陸軍基地の付属施設でティーパーティが行われた。
ボーンマスでの草サッカーとはいえ、本物の芝生の上で戦えるマッチは最高の気分だった。

横浜のYC&ACの時と同じ、試合後はティーパーティだった。


このように毎日、学校での語学の授業よりはるかに有意義な校外生活を送ったのが、現在までのその後の人生に大いに役立ったのだった。