世の中メディア報道を含めて、起こった事や他人の行動への非難・批判は憲法のもと自由(SNSの卑怯な中傷・叩きは除く)だという事に成っている。
たとえ絵を描けない人が展覧会の絵を批判・非難しても、楽器を何も弾けなくても演奏家のステージを批判したり非難したり、通ぶって上手い下手を言うのも勝手だろう。その極致が文春砲だと思っている。
いつの間にかそういう事が普通の世の中になってしまったのは、教育者たちの教え方に問題があったからだろうと筆者は思っている。他人を批評したり非難するだけの資格・スキルが自分に備わっているかどうかよく考えて・・などという「己を棚に上げて他人を批判してはいけない・・。」などという教育をしていないのだ。
筆者など団塊世代は、やたら無責任に人の行いやプレーをなじったり非難したりすれば「じゃあ、君には出来るのか?君ならうまくやれるんだろうな?さあ、やってごらん!」と言われて育ったものだ。
子供が大相撲の贔屓力士が負けて無邪気に「ダサいなー!」とガッカリしながら言うのと、同じことを相撲など自分で取ったこともない一般の大人が解説者ぶって言うのではその意味に雲泥の差がある。
野球選手がエラーをしたり空振り三振した時のヤジも同じだ。「じゃー、お前が同じ状況下でエラーせずにできるのか?お前ならヒットでも打てるのか?」と訊かれれば「それとこれとは違うだろう?」と逃げるに決まっている。心の中で思うのは勝手だが、口に出して言うなよと言いたい。
最近の部活コーチの苛めだとか虐待だとかを、さも相当酷い事の様に理不尽に攻め立てる多くのメディアや教育委員会の記事が出るたびに「一体君たちはスポーツをどこまで知っているんだ?」と言いたくなる。数多くのアスリートやアスリート上がり(決して全日本クラスのトップとは言わない)の方々には同じ気持ちの方が多いのではないだろうかと思う次第だ。今日はそのあたりの不満を吐露してみたい。
ちなみにこのブログでは過去幾度も筆者のスポーツ遍歴を書いているが、決して自慢をしているわけではなく、何故スポーツの話になるといきり立ってこういうブログを書くのかの背景として述べておきたい。
筆者がスポーツに目覚めたのは中学校時代、全校のスポーツ大会で走り高跳びに出て155㎝身長の筆者が145㎝を飛んだ時だ。大会前日に生まれて初めて校庭の砂場で竹竿のバーを飛んだのだから自分自身いかに驚いたかお判りだろう?
それ以降、高校でバレーボール部、単身で陸上大会の走り高跳び・幅跳びに出場。冬はスキー(アルペン)。大学でサッカー部(神奈川県知事杯優勝→1971年和歌山国体・神奈川県代表権獲得)社会人になってアイスホッケー(東京都社会人リーグ1部Vanguards)、ウインドサーフィン(Wave & Slalom)スノーボード、クロスカントリースキー。
もちろんジョギングや遠泳など競技種目ではないスポーツも並行して行ったが、基本的には勝ち負けのはっきりとした種目が多かった。
話は戻って・・・。
ゆとり教育に限らず、最近の学校では生徒間の差別につながるからとあからさまに優劣を付けないよう、運動会で徒競走や勝ち負けのある種目をさせないという事を聞いた。しかし、これって良い事だろうか?正しい事だろうか?
人間の個人差で優劣が付くことがそんなに悪い事だろうか?この根本部分で最近の世の中・教育者やメディアは考え違いをしていないだろうか?人間努力をして人より優れる部分が育っていく事がなぜいけないのだ?
もし本当にそう思うのだったらオリンピックで金メダルを獲ったアスリートを褒めるなよ、一緒になって「元気をもらった!」などと言わないでほしい。
いずれ社会人になって、商売や研究・製造部門でトップを目指すのは必定ではないのか?あの「二番じゃ何故ダメなんでしょうか?」と担当者をいじめていた蓮舫だって、今激戦選挙区で一番目指して選挙の真っ最中ではないか?
NHKの社員だって、メディア・マスコミ関係の就職戦線を戦って勝ったからこそ入社できたんじゃないの?「競争・競技」は勝つために努力するんでしょ?
サッカーや野球、柔道などで、やれ県大会で優勝するためにとか全国大会に行けるように頑張る‥などというのは過激な虐待や苛めに繋がるので大きな大会や競争を目指さないクラブ活動が良いんだ・・などという信じられない事が始まっているという。NHKで数日前紹介していたが筆者は目を疑ったし由々しきことだと思う。
実技場面では子供たちにそういう勝利を目指さないスポーツのやり方をさせておいて、一方でテレビやスマホではオリンピックの観戦者として自国選手を応援し、優勝者や世界選手権の覇者を国旗を揚げてメダルを挙げて表彰するべ面に感動する事実との差、乖離をどう説明するのだ?
地区大会も目指さないクラブ活動を子供に強いておいて、クラブの子供たちが他チームと戦って勝ちたいと言ったらそのチームのコーチは一体どうするのだろう?「我がチームはそういう事はしないので、出て行ってくれ!」とでも言うのだろうか?
あるいは、そう言った仲良しこよし的に勝利や強さを目指さないスポーツクラブでのプレイに慣れてしまった子供が、上の学校へ進んだ際よそから来た勝負バリバリのプレーをする同学年の選手に目の前でみるみる差をつけられた時の挫折感を考えたことがあるだろうか?
スポーツ経験者なら多かれ少なかれ、どこかの段階でそういう経験をするものだ。そうやって切磋琢磨して子供の才能というものは伸びていくのではないだろうか?
Youtube でメッシやネイマールの技を見てあこがれた子供たちが、上を目指して戦わないのだ!などと言われて「ハイ判りました!」などと言うとでも思っているのだろうか?
そんなことでは第二の三浦カズ、中田英寿、最近の久保建英や堂安律などは出てこない。
スポーツの最高峰、オリンピックを考えてほしい。優れたアスリートなら誰もが目指すオリンピック。メディアも多大な期待をかけて選手に余計なプレッシャーをかけるオリンピックだ。
そのオリンピックの種目を見てほしい。ボクシング、レスリング、砲丸投げ、ハンマー投げ、重量挙げ、近代五種競技、やり投げ、テコンドウ、空手、柔道、アーチェリー、ライフル、ピストル、スキー・バイアスロン・・これって元々は戦って相手を殺す、倒す競技だろ?
中には武器を使う競技すらある。スポーツというものはそもそも命がけの戦いの場なのだ。体力の限りを使って勝ち負けがあるものなのだ。勝ち負けの無いものは「遊び」。
Eスポーツなどというバカみたいなゲームジャンルだって勝ち負けがあるだろうに・・。
だから1960年代のこの手のスポーツに当時の東側の国からは殆ど現役の軍人が出ている。今もそういう競技が残っている。日本でも種目によっては自衛隊の隊員が出ているだろう?
相手、もしくは相手チームと戦って倒して上へ進むのがまずいなどというスポーツ音痴たち。自分ではスポーツを何もしない(出来ない)で、スポーツの現場を選手として経験した事もない輩が、やれあれは虐待だ、それは苛めだ、やり過ぎだ!と騒ぐ、またそれを針小棒大に報じるメディアに筆者は我慢がならないのだ。
最近、バレーボールの練習現場で選手にバレーのボールをぶつけて逮捕されたコーチがいる。怪我をさせたという事で逮捕されたという。スポーツにケガなど当たり前だ、メディアや警察は実際ボールがぶつけられて怪我をしたのか、練習中の擦り傷や怪我をコーチにぶつけられたといっていないか検証し、証拠固めできたから逮捕したのか?
こんな事繰り返したら、スポーツの監督やコーチなど皆ならなくなってしまうだろう?あるいはクラブに入る際、コーチや監督には従います、どういう辛い特訓があっても訴えないという念書を書かないと、メンバーとして入れてやらないなどという副反応が出るのではないだろうか?
今あの1964年の東京オリンピックで日本チームを優勝させた大松博文監督がいたら当然逮捕だろう。彼はソ連の高い打点からのスパイクに慣れさせるために女子選手に特訓としてボールをやたら叩きつけていた。顔にボールが迫っても目をつぶらないような訓練だった。
映像でも残っているし、1964年東京オリンピック直前都立広尾高校のバレーボール部員だった筆者は日本チームの直前合宿(我が高校の体育館が会場だった)でボール拾いをしてこの目でしっかりと見ている。
スポーツで強くなるには、スポーツを知らない、やらない人には全く判らない最低限の選手としての覚悟やコーチ、先輩からの特訓があって当たり前なのだ。それがあってもクラブ活動でプレイをしたいのだから、練習がキツイのは合意の上での事なのだ。
それがボールを酷くぶつけられたと警察に訴え出るようなバカ者はスポーツをするそもそもの心構えにおいて失格者・落伍者なのだ。周りの仲間が止めなかったことはもっとショックだ。
そんなことで被害者面をして行動されたら、コーチ監督ほかそれ以外すべてのスポーツアスリートがまるで加害者みたいになってしまうではないか?
警察に訴えた選手の行為は、ある意味広い視野で言えばスポーツ界全体への加害者かもしれないのだ。メディアはそのあたりよく考えて報道すべきではないだろうか?
芸能界の歌手・タレントと同じでスポーツの世界においても上位に入りメディアに出られる者の陰には、その500倍の落後者・退出者が居るのだ。
歌手やタレントで有名になれず落伍したものが、歌謡大賞、レコード大賞、紅白歌合戦の審査員、所属プロダクションを訴えたりするか?
優劣がはっきり出るスポーツに勝ち負けは在って当たり前の世界なのだ。それがあるからこそメディアは持ち上げ報道し、読者や視聴者に期待感を持たせ、おのれのメディア数値を伸ばして金儲けしているではないか?