例えば、ウインドサーフィンを始めて数年が経ち、少しでも風が吹けば海へ行って乗っていた頃の話。正月元旦葉山の森戸神社へ初詣に行き、当然行って風が吹いていれば初乗りという事になる。1時間も乗れば冷たい風で手はカジカミ、素足だから足の指の感覚もなくなってしまう。森戸神社裏の岩場にあるネコの額のような砂地に戻ってきて岩の海底の波打ち際でまだ暖かい海水に手足をつけて暖めていると、その姿を石垣の上から見た初詣客たちが「気でも狂っているのか?あのウインドサーフィンの人達は?」と何度も不思議がられた経験をしている。
実際この時期海に入ってウインドサーフィンに乗ってみると、何とお正月の海の水は温かいのだろうと思うのだ。
初夏のバーベキュー客たちで一杯の森戸神社裏の岩場。我々は此処から出入りしていた。夏が終わると誰一人来なくなる季節によって表情が全然変る場所だ。正面に富士山、江ノ島が見える。たとえ勤め先が変ろうと、25年間いつも週末は風さえあればこの場所に通ってウインドサーフィンでカッ飛んだ。
そういう事だから、湘南の海でも年に数度「けあらし」(=気嵐)と呼ばれる現象が起こる時がある。筆者は25年間のウインドサーフィン経歴中2度だけ経験がある。本来この気嵐とは北海道で急に大気温度が下がった際に海水温との温度差で海面上に霧が出来る現象を言うのだが、葉山沖でもほんの3時間程この現象が起きた事がある。
気嵐で発生した霧の海をかっ飛ばせるのは、こうしたキックジャンプを楽しめるくらいのレベルに達してからでないと非常に危ない。1990年頃葉山森戸神社裏で筆者。
まるで膝から下が霧に隠れ、水面を走っているのだが雲の上を進んでいる様な気分になったので良く覚えている。但し、魚網や流れてくる障害物がまるで見えないので慎重に進まないと大怪我をしてしまう。現に養殖ワカメのロープにスケグ(=フィン)を引っ掛けフィンボックスごと駄目にしてしまった仲間が居た程だった。
それは随分後の話で、まだこの時はウインドサーフィンそのものを視たばかりの状態で、乗っている人達の真っ黒なウエットスーツに驚くばかりだった。海から上がってくる皆は唇が紫色をしていたが、浜辺の焚き火に輪になって当たって暖を取っているのが見えた。
そこで、其処に近寄ってリーダーと思しき人に色々ウインドサーフィンの事を聴いてみることにした。広告代理店用語で真面目に言えば「ヒヤリング」ってやつだ。
そのヒヤリングした相手は真壁則克さんと言って、現在逗子海岸を仕切っている明るい真壁克昌氏のお兄さんだった。非常に丁寧にウインドサーフィンという物がどんなものなのかを説明してくれた。ウインドサーフィンのグループを「フリート」つまり艦隊・船団というような事から始まって、逗子フリートはそもそも伊勢勉さんという創生期のパイオニアが逗子に開設した事など歴史や人脈まで詳しく教わったのだった。
この真壁兄弟は非常に逗子海岸を愛し大切にしているお二人で、地元でも有名なブラザー。初期の頃の第一人者の一人河原和代さん(=実は筆者にとって最初のウインドサーフィンの実技の先生)など当時の日本の先駆者が沢山居たフリートだ。
逗子ウインドサーフィン・フリート創始者・伊勢勉氏はその時点では浜名湖で「てのまめ」というウインドサーフィンスクールを開設して普及活動の真っ最中だという事だった。
この先輩とは1981年春に日立マリブをベースに実施された全日本選手権大会で初めてお逢いした。その後も事あるごとに懇意にして頂いたウインドサーフィン界における恩人の一人だ。
1980年春分の日、逗子海岸でのウインドサーフィンとの出遭いは相当なインパクトを筆者に与えてくれた。仕事としては早速甲州街道笹塚にあったウインドサーフィンジャパンと初台にあった日本ウインドサーフィン協会へ何度も通うことになった。
初台の日本ウインドサーフィン協会には北郷さんという事務局長と小林さん、それに秋枝さんという女性の事務職がいて、年中忙しそうだった。北郷敏明さんは数年前のウインドサーフィン全日本チャンピオンらしかったが、まだごくごく初期でさほどプレーヤー、競技選手は居なかった頃だろうとは思う。
秋枝さんというすらっと背の高い女性は何と自宅が三鷹で、筆者とはバス停で1つしか違わなかった、ご近所さんだった。
1981年の10月に沖縄名護市の海で行うことが決まっていたウインドサーフィン世界選手権大会本番まで、後1年半しかないという状況が1980年の4月の状況だった。スケジュールから行けば、’80年の10月に第7回全日本ウインドサーフィン選手権大会を翌年世界大会を予定している沖縄県・名護市で世界選手権プレ大会として開催し、本番の1981年には全日本選手権大会を春先に日立マリブで開催する事になっていた。
最初にこのウインドサーフィンの件で出張したのは、遠く離れた鹿児島県の指宿だった。プレワールド大会と銘打ったこの大会は指宿ハイビスカスカップというような名前だったと記憶している。風の無い沖合いに沢山のウインドサーフィンのセイルが立ち並んでいていつになっても大会が開始されない雰囲気だった。
1980年春の鹿児島指宿海岸での大会Tシャツ。なんとまだ袖を通さずタグが付いたまま残っていた。色落ちしそうで一度も着なかったものと思われる。
風が無いので殆どのセイルが立ったままで、スローシャッターで撮影してもブレない程の状態だったのだが、その中で1艇だけ何故かスルスルスルと進むセイルが在って、「オーッ!あれだけ早いけれど・・・」と思ったら風の無いのに業を煮やした選手が手で海の水をかいて進んだらしかった。「プワォー!」とフォーンが鳴って、後でその選手は失格に成ったと聞いた。なんでも、あまりの無風で「こんな状態でレースをやること自体おかしい!」との抗議行動だったらしい。その選手は日本でもトップクラスの石渡祥元選手と言って、その後自分も入る湘南葉山フリートのリーダー格だった。 現在も葉山森戸海岸入口に在るウインドサーフィン・ショップ「YT&M」の経営者であり、皆から「ヨッチャン!」と慕われている店長さんだ。その後の筆者のウインドサーフィン人生に大きく影響を与え、先生として色々教わった方だ。
Google Mapで視た葉山YT&M 手前は旧134号線、この道を向かって右へ50mほど行くと葉山森戸神社入口の赤い鳥居が建っている。更にその先100m右に葉山森戸海岸デニーズがある。
しかし、まだこの段階では筆者はウインドサーフィンには乗れていない。