2014年7月13日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #51.」 実録高校・学校生活 その7.文化祭は最高潮。

此処からの話は、多少既報のビートルズ・コピーバンドの話に重複する部分もあるがお許し願いたい。
 私の高校時代の学校生活と言えば、このバンド結成⇒文化祭ステージ演奏、バレーボール部の部活動が全てと言っても良いくらいなのだ。受験勉強は一度浪人してから専念するものだと勝手に決めていた。

 ただがむしゃらに良い大学へ現役合格して進もうと、競争しながら勉強ばかりしていた同期が、地団太踏んで悔しがるほどの幅広い経験を出来たという点で、50年経った今になっても非常に満足している。

 この文化祭で何故か我々は体育館のステージで、出し物の最後を飾るという重責を担う事に成ってしまった。
聴いたことは無かったが1年先輩の3年生に、大変上手なベンチャーズの曲専門のインストルメンタル・バンドが居た。結構セミプロ級らしく、噂ではあちこちのパーティに出ていたらしい。
これに比べたら、我々は冗談から本気になってしまったようなバンドだから、人前での演奏は一度の実績も無かった。この頃広尾高校には全学年を通して2~3クラスに1組は音楽バンドが存在した。

1965年といえば、いわゆる空前絶後のエレキブームの真っただ中だから、当然だったかもしれない。フォークのバンドだったり、エレキのバンドだったり、ジャズのバンドだったりした。まだ和製ポップスというジャンルは存在しなかった。

あの美空ひばりがイメージを一新した「真っ赤な太陽」ですら1967年の発表だもの・・。

しかし、やっぱり圧倒的にビートルズの影響力は強く、男子高校生4人が集まれば、必ずビートルズの映画の有名な場面の真似をしたものだ。それほど、この時代のビートルズが高校生などに与えた影響はすざまじいものが在った。

                広尾高校の別のクラスのアルバムになったモノを拝借。

文化祭の直前ある日の放課後、コの字にレイアウトされた広尾高校の校舎の特徴を生かして、出場バンドの一斉練習を行う事に成った。1年生にはまだバンドが無かったので2階が教室の2年生、3年生で順番に校庭に向かって各教室の窓を開け放って演奏をした。

噂を聞き付けて放課後居残った全校の生徒たちが、各自木の重たい椅子を教室から持ち出して、校庭に座ってこれを聴いたのだ。詳しくは記憶にないが各バンド2曲づつを演奏したと思う。

校庭の生徒たちは演奏クラスが変わるごとに、少しづつ椅子の向きを変えて聴き入った。実は我々は人に生で聴いてもらうのはこの時が初めてだったので、珍しく緊張した。
しかし思いのほかうまくいって、沢山の拍手を貰えたので、それから数日の間はもう自分自身ビートルズそのものに成りきっていた。

ところが、文化祭の当日だか翌日だか近所の町内会の世話人が「うるさい!」と学校にねじ込んで来たらしい。したがって翌年はもう出来なかった。

A組JAZZバンドの放課後練習 我々も同様に連日練習した。

バンドは出来たが、ステージに出るには曲目紹介をする司会者が必要だった。懐かしの「ロッテ歌のアルバム」で言えば、「一週間の御無沙汰でした~」で有名な司会の玉置宏みたいなものだ。
これを誰かに頼まなければいけない。女性じゃなきゃ駄目、美人じゃなきゃ駄目!と言う勝手なメンバーの全員一致の条件で、同じクラスにいる全校1番のマドンナに白羽の矢が立った。
が、本人に訊いたら既に上級生セミプロ級バンドの司会に既に決まっているというではないか。

そこは同じクラスメートを差し置いて上級生のバンドかよ?と説得し、我々の司会もお願いする事にした。
実は文化祭とはいえ、多くの人前でスポットライトを浴びて、演奏する曲目をしっかりと間違いなく紹介するのは度胸が要る事なのだ。まずは上がってしまう。声が上ずる、曲名は忘れる・・それが初めての経験ともなると、たいがいは散々な事に成る。
しかし、彼女は何年も前からやっているかのように手際よくこなしてくれた。

 
左が大トリ(最後)の演奏をした我々のバンドの時の司会者(クラスメート)、右が我々の前に演奏した1学年先輩たちの演奏時の司会者(〃)。
人気者の彼女に衣装早替わりで頑張ってもらったが大好評だった。ちなみに左の画像で後姿は筆者。

こうして着々と本番への準備が進み、いよいよ文化祭2日目の我々のステージが始まるのだった。この辺りは芦原すなお原作の映画「青春デンデケデケデケ」とほぼ同じだろう。今を時めく浅野忠信なども出ている結構良い映画だ。ただ我々の選曲には、まちがっても原作に出てくるような三田明の「美しい十代」は無かったが・・・。

映画・青春デンデケデケデケ予告編
青春デンデケデケデケ」原作者・芦原すなおロッキングホースメンの文化祭出演シーン

我々のステージ、曲目は、ビートルズの「This boy」を出だしのバンド紹介のBGMとして、「All my loving、 And I love her」デーブ・クラーク・ファイブの「Because」、再びビートルズの「Tichket to ride, A Hard day's night」そうして最後は「Twist &Shout」を演奏した。

 

上は演奏直後、体育館楽屋裏での唯一の記念撮影。左端で筆者がドラムスティックでバイオリンのようにポーズを取っているのは、ベンチャーズのノーキー・エドワーズのジャケットの真似をしているもの。卒業アルバムより で、下は曲目紹介のシーン、右端が筆者。後ろのギターアンプ・スピーカーはすべて自作。真空管アンプ(7189AーPP)NFB掛けて32W+米軍放出JBLのD130。

 

このジャケットの右端のリードギター、ノーキー・エドワーズのポーズの真似が流行っていた。芦原すなおが最近再結成して遊んでいるロッキング・ホースメンのYOUTUBE動画にも同じようなポーズを取っている場面が出てくる。

演奏自体は非常に上手くいって、会場から手拍子や床を踏み鳴らす音がステージまで聴こえて来た。ステージのライトで会場内はあまり良く見えなかったが、ほぼ満員で後ろの方まで人で一杯だった。後でクラスメートその他の人達に訊いたら、皆口々に最後のツイスト・アンド・シャウトの時は体育館内が異様な雰囲気で盛り上り切ってしまい、ほぼ全員興奮状態だったと云う事だった。
 こりゃ本物のビートルズを聴けば興奮して卒倒・失神する女子も居るはずだと思った。しかし残念ながら今回はそういう女子生徒は一人も出なかったようだ。

一方で、高校の文化祭と言えば、普段の大学入試への準備中心の授業から外れ、美術・音楽その他文科系クラブ活動の発表チャンスとして、秋の本番に向けて春先からウキウキするような楽しい「特別な事柄」だった。

勿論クラブ活動をしていない、発表する事もない、ただお客として文化祭を楽しむ生徒も半分以上いる。しかし、その何もしない彼等、彼女等も文化祭のフィナーレ、後夜祭でキャンプファイヤーを囲んで輪になって踊るフォークダンスだけはとても大事なイベントだった。

この文化祭のフォークダンスの相手に誰を誘うか、誘われるか、文化祭本番の3か月も前から心ときめかし、想像キノコで頭の中が一杯に成るのが当時の高校生達の「お約束事」だった。


広尾高校15期卒業アルバムより

  このフォークダンスは2種類あって、次々と手を握って踊る相手が替わって行くものと、一曲を通して同じ相手と手を握り続けながら踊るタイプが在った。もちろん皆、相手が替わる曲などは全く眼中にない、最後に同じ相手と踊れるダンス2曲だけが狙いなのだ。高校生活のすべてを掛けると言った奴がいたほどだから、その重要性は想像できよう。

越地吹雪じゃないが「ラストダンスは私と」って訳だ。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で主人公マイケル・J・フォックスの若き時代の父親が、母親を誘って行く卒業ダンスパーティ、あるいは映画アメリカン・グラフィティの中に出てくる卒業パーティ(=プロム)の様なものだ。

しかし60年代の都立高校では、アメリカと違ってこのフォークダンスが関の山だった。奥沢中学校から男子校の慶応高校に進まないで良かったと心から思ったのも、まさにこういう所だったろうか。

アメリカの高校生の卒業ダンスパーティは色々な映画に出てくる。左からバック・トゥ・ザ・フューチャー、グリース、アメリカン・グラフィティ。 映画パンフレットより

上に比べて、同じ高校生でも日本はこれなのだった。日米格差はここに始まれり。

これからがこの話の佳境だ。当然男子は普段から気に入った同級生の女子を、少し色気を出している奴は下級生の女子を狙って、3か月も前からモーションを掛けるのが普通だった。

この最後のフォークダンスに誘う為に声を掛けると云う事は、おのずと相手に対して自分が気に入っている事を告白するに等しい。もちろん相手が受けたら私もOKよ!という証とされていた。これがきっかけで、実際結婚にまでこぎつけたせっかちなカップルが居るのだから早まったモノだ。

この意思表示の方法は、信用できる気心の知れた友人に「言づけ」を頼むか、紙に仔細を書いて何らかの方法で相手に渡すのが普通だった。まず面と向かって誘えるような度胸の有る奴はなかなか居なかった。

 唯一例外的に女子が男子に逆モーションを掛ける方法として、下駄箱攻撃と言うのが在った。しかし時としてこれは大失敗に終わる事が有る。下駄箱の靴の中に入っていた小さな紙片に気が付かず、そのまま履いて家に帰って、翌日姉にその手紙を発見され、一家団欒の時に家族全員の前で大きな声で読まれてしまい大騒ぎになった奴もいる。

携帯電話やメールやラインが無かった昔は、下駄箱も一つの情報メディアだったのだ。

 しかし、男子も女子も学年中で、あるいはクラブのメンバーの間では、誰が誰に注目しているか、噂や密告でほぼ公然になっているのが普通だった。実は逆にそういった本人もまんざらではない情報漏れが、事前の地ならしに成っていたようだ。したがって本番直前に、校舎の影からぬーっと現れて「文化祭のダンス是非一緒にお願い!」と声を掛けて相手を気絶させるような事は全然・・・いや、あまり無かった。

一人だけ、下級生の女子に急に申し込んで泣かしてしまった奴を知っている。双方の名誉の為に名は伏せるが、このドジな奴は文化祭が終わった後、卒業するまで、休み時間における重要な話題の一つになった。

筆者の場合は文化祭のバンドの練習で手いっぱいだから、事前に手持ちの候補リストの中から本命を決めたり、第一希望の相手や滑り止め相手にモーションを掛けている時間は全くと言って良い程無かった。大体においてフォークダンス自体照れくさくて大嫌いだった。

このフォークダンス嫌いはもう生まれつきで病気に近く、奥沢中学校の時もフォークダンスは殆どさぼった。大学の教育学部の教職単位取得の為の教生授業に行った先の附属中学校でも、教え子の女子中学生とのフォークダンスを逃げまくってブーイングの嵐だった。

フォークダンスに始まって、その後もディスコとか踊りは大嫌いで行かなかった。

広尾高校の文化祭のフォークダンスも、キャンプファイヤーを囲んでのダンスの輪を横目に、バンド演奏をしていた。と云う事でフォークダンスはやらずに済み、キャンプファイヤーのシルエットに浮かぶ同級生・下級生を観ながら、バンド演奏大成功の余韻に浸っていたのだった。

この文化祭・後夜祭とも言われたキャンプファイヤーの最中、学校の塀を乗り越えて外部の人間、他校の高校生が侵入してくるという情報が入った。

体格の大きなスポーツクラブ系の男子で体育館の裏や東側の道路際の塀辺りを巡回した。夜8時頃になって体育館の裏に走って行く数人の黒い影を観て、こちらもギターをメンバーに預けて「すわ鎌倉!」とばかりに駆け付けた。

校舎の一番隅から「ドテ、クシャ、ボコ!」と言った音が聴こえて来たが、低い塀をよじ登って外へ逃げて行く3名の黒い影を見ただけで、今一歩間に合わなかった。どうやら、都内の男子高の生徒らしく、中学校時代同級生だった広尾高校の誰かが手引きをしたのではないかと、噂が絶えなかった。

先生たちはこの話を一切知らない。事件を知られて次の年から文化祭やフォークダンスが中止になったらエライ事なので、現場にいたメンバー全員で箝口令を敷いたのだった。しかし50年経ったから、もう時効だろう?
文化祭も最高潮でキャンプファイアーの向こうにフォークダンスをする生徒が見える。

 そんなトラブルが在ったものの、文化祭大成功の達成感で放心状態の中、最後の曲になった。その時だった、何と!クラスメートのある女子が私の前まで歩いて来て首をかしげながらこう言ったのだった「一緒に踊ってくれない?」。

一瞬、動物的本能で腰が浮きかけたが、周りのメンバー達の「ヒューヒュー」と冷やかす声に「ハッ!」と我に返り、ギターを肩から下げたまま思わず「ゴメン!」と言ってしまった。
今でもつくづく申し訳ないと思っている。40年後の同期会でこの相手に出遭った時、すっかりもう忘れているだろうと思ったら、しっかり覚えていてネチネチ言われてしまい、ちょっとうろたえた。