高校生にもなると明快に男女の発育の差が表れてくる。男子でも特に背の高さ等は、親子ほど違う程個人差が生まれる。女性においては背の高さと共に更に体型の変化、その女性らしい膨らみ方において極端な個人差が出てくる。しかし3年生の頃にも成れば、ほぼ全員が制服で無く私服を着てそのまま渋谷の雑踏に消えると、高校生とはとても思えない程にまで成長する。高校3年生の女子は卒業間際にもなると、お堅い都立高校でも化粧品メーカーから出張で化粧の仕方をレクチャーする時間があった。
一方の男子は、もう完全に大人の男性になっている者も居れば、まだ中学生じゃないの?と言われてしまう程幼い顔付体型の者も居る。半分とは言わないが、背丈が一番大きな者の肩にも届かないような背の低い者が結構いたのだが、50年経って同期会やクラス会に出席して記念撮影すると、皆ほぼ同じ高さになっているのは一体どうしてだろうか?広尾高校の7不思議。
こういった経年変化を知る由もない当時の高校生には、高校生にしか判らない独特の世界が存在する。まずは上級生・下級生の確実な身分の違い。運動系のクラブ活動をやっている者にとっては、当然当たり前の事だが、文科系のクラブに所属している者にもこの上下関係は割にきちんとしていた。渋谷近隣の私立高校のように渋谷駅周辺でいきなり「先輩!失礼しまーす!」のような大合唱はしないまでも、クラブ伝統のしきたりは高校生活のあちこちに存在した。広尾高校のバレーボール部には、それほど厳格なしきたりやルールは存在しなかったので、部活動を途中で辞めようとか、嫌いな先輩を皆で校舎の裏に連れて行って殴るなどと事は一切なかった。
軟式テニス部などはコートがたった1面しかない為、男女が一緒に行動していて、他のスポーツ部からは羨ましがられていた。何故か新入生が最初に入りたがるクラブがこのテニス部で、4月の初め頃は狭い校庭一杯に大きな円を描くほど部員が居て、一斉に声を掛けて素振りをするものだから大変だった。しかし、クラブに入ってラケットを買ってテニスシューズを揃えただけで満足して辞めてしまったり、一応クラブに所属したという実績を得ただけで満足して辞めて行ったり、週3日も夜遅いのはとんでもないと厳格な親に言われて泣く泣く辞めて行く者などで、5月にも成ればテニス部の素振りの輪は20名ほどにまで減ってしまうのが常だった。
広尾高校15期テニス部、左の男子2名女子1名が同じF組クラスメート。左から2人目の篠原君は校内マラソンで圧倒的に早かった。後にIHI勤務、一番左の蓑田君は福岡で開業医。
1学年下の16期テニス部。この代はメンバーが多かった。後列右から2人目が奥沢中学校でも後輩小池君。社会人になった後も仲が良く一緒に英国ツアーに行ったが数年前亡くなってしまった。その向かって左隣はコイン・スタンプのフクオ社長。2年前国際航空宇宙展の時、航空機切手を借りて散々お世話になった。
バレーボール部の我々は校庭で回転レシーブをしながら、毎日減って行くテニス部の下級生の女子を観ながら「あの娘はまだいるな?あの娘はもう辞めたな」と練習中部員同士で話をしていた。こんな調子だから広尾高校バレーボール部は強くなる訳が無かった。一方でバレーボール部はテニスと異なって男女違うコートで練習を行っていた為、男女間の交流は全くと言って良い程無かった。テニス部は帰る際も高校正門前で点呼こそ取らないものの、まとまって大集団で渋谷方面に帰って行ったようだった。バレーボール部にはもちろんそういった学園的習慣はこれっぽっちも無かった。
我がバレーボール部の1965年二年生の時の他校での試合後写真。筆者が撮影したので本人は写っていない。
我々15期卒業時の記念写真
クラブ活動以外の普通の学校生活と環境などを少し紹介しよう。都立広尾高校は今と違って木造モルタル瓦屋根の2階建て校舎だった。体育館は大きいのが在ったがプールは無かった。隣は渋谷区立広尾中学校、斜め前に同じく区立広尾小学校が存在していて一見、小中高の一貫教育のように見えるが全く違う。以前にも紹介したが、隣の広尾中学校の更に隣には国学院大学が在って現在東京消防庁勤務の我が息子・鉄兵は其処へ進学・卒業した。その他女子大・高校が集中している文教地区だった。実践女子短大・高校、東京女学館短大・高校、聖心女子大学、その他、青山学院大学など。バレーボール部の練習前のランニングコースはこれら女子高をほぼ全て回るルートで構成されていた。
広尾高校を取り巻く女学校の配置図
1968年の広尾高校西側上空からの画像。左は広尾中学校、右下隅に広尾小学校が見える。 高校卒業アルバムより
2008年に六本木ヒルズの上から撮った広尾高校。如何に周りが変化したか判る。
2年生の時にちょうど東京女学館の正門前で足が攣ってしまい転び膝を擦り剥いて皆から遅れて路肩で休んでいた事が有る。もちろん真面目な話で決して意図的なものではない。そうしたら女学館の女子高生と女の先生が出てきて「血が出ていて大変だからどうぞ医務室へ・・」と医務室に連れて行かれた。もちろん恥ずかしい事なので「大丈夫です!」と言って一度は断ったが、心の中では興味津々で半ば歓んで連れて行かれた。女子高の医務室ってどんなだろう?女子高にも男子用のトイレが在るのだろうか?そのトイレは誰が掃除するのだろうか?など楽しい想像キノコで頭の中が一杯になったのを覚えている。結局消毒してもらい、その後の練習に邪魔になるので包帯は遠慮しガーゼを当てて絆創膏でバッテン印にしてもらった。きまりだというので住所と名前と学校名だけ用紙に記入してお礼を言って学校を後にした。帰る時に一度振り返ったら女子高生がガラス戸に鈴なりになってこちらを視ていた。
この話には後日談が在る。その年の秋東京女学館の文化祭への招待状が来たのだ!3名様に限り同伴頂けます・・・とある。誰に声を掛けようかと思ったが、同じクラスの2名を誘って文化祭に出かけた。当然平日ではなく日曜日だったような気がする。写真が残っていないので非常に残念だが、いつも渋谷駅で見かけていた白いセーラー服が人気で有名な東京女学館の女生徒と近づけると歓び勇んでアイビー・トラッドスタイルで決めて出かけようと思っていたのだが・・・。招待状を良く見たら「学生服着用でお出でください」の一行で色気も何にもない単なる普通の高校生の男女の出逢いの場にしかならなかった。したがってその後の人生において記念すべき出逢いも無ければ、心ときめく展開は残念ながらこれっぽっちも無かった。
さほど印象的な思い出も残っていないので、ハプニングも無くお利口さんの行動で、東京女学館の文化祭招待を終了したのだが、母校、広尾高校の現実に戻ると教室が校庭の離れた棟の1階から1年から3年の各クラスが入るメイン校舎の2階に引っ越す事に成った。此処で今まで経験した事の無い面白い事態が起こっていた。
2階の教室から校庭に出る時や、1階に在る生物の特別教室に移動する休み時間、2階から1階への階段を降りた所に1年生の女生徒がずらっと並んでこちらを視ているのだった。要は1年生のクセに生意気に上級生の男子生徒の品定めをしている訳だ。なんというマセた娘達なのだろうと思った。と同時に都立高校でも戸山や新宿の様な進学バリバリの学校に行かなくて良かったと思った。誰とは言わないが、このアクションが縁で下級生の女子と付き合い始めたクラスの男子が居たのは間違いない。
制服の東京女学館に比べ、比較的自由な校風の都立広尾高校の女子はジャケットを脱いで揃いのアイビー系紺色セーターを着たり、揃いのコインローファーを履いて、いわゆる雑誌IVYシスターのモデルの様な出で立ちのグループも出始めていた。これらの中からは後に飲料水メーカーのコマーシャルに出るような娘も出てくる。
我が都立広尾高校1学年下(16期)のファッショナブルな女生徒達 画像は1期後輩より拝借