私が都立広尾高校2年生の時、婦人画報社が出した「Take IVY」という本が有る。1965年つまり昭和40年9月20日発行、東京オリンピック翌年の事だ。この本が日本の男子学生中心の若者に与えた生活文化・風俗の影響は非常に大きなものが在る。これはその当時大きく刺激を受けた当の本人やファッションに興味があったその友人たちの間で誰も疑わないので間違っていないと思う。
オリジナル版、復刻版共に持っている。
その当時まだ生まれていなかったいまどきの文化風俗のコメンテーターには全く批評も理解もできない事だろう。前年の1964年が国家的なイベントと高速道路・東海道新幹線開業など交通インフラの大改革により日本と云う国が大きく変貌を遂げ、マスコミ・メディアが大盛り上がりした年であったのに対して、翌年の1965年は日本人個人のレベルでの文化風俗が大きく変化した年だと言って良い。
この頃の高校生、大学生は普段外出時、殆ど学生服、通称学ラン(=江戸時代オランダ人が来ていた洋服を隠語でランダと呼び、その学生服なので学生用ランダ⇒学ランと短略)を着ていた。何処へ行くにも学生服が当たり前だった。この傾向は1960年代末期まではごくごく普通の事だった様に思う。1972年春、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで世の大学生男子の就職先希望企業ナンバー1に躍り出た青山のヴァンヂャケット、つまりアイビーファッション・メーカーのVANへ会社訪問に行った際、同じ大学から参加した5名の内、自分(Kentのコットンスーツを着て行った)以外は全員この学生服を着ていた事でも良く判る。更にはヴァンジャケット入社後の社内報に掲載された新入社員紹介写真も男子の半分以上は学生服を着て写っている。
広尾高校時代の自分達も学生服での生活だった。
当時最先端のファッション企業へ入るにも履歴書の写真は学生服を着て写った時代なのだ。1965年と云えばさらに遡る事7年以上前の事だから世の中の常識は容易に想像できよう?もっと判りやすい材料もある。1963年舟木一夫が大ヒットさせた「高校三年生」は勿論学生服を着て唄った。その後の数曲も柳の下の何とかで学園ソングだった為ステージ衣装は学生服だった。まだこの当時「団塊の世代」という言葉もマーケティングも存在していないが、戦後のベビーブームで一番人口の多い我々高校生を狙ったとしたら大したマーケティング作戦だが、事実は全くの偶然だろう。 余談だが、つい3年前亡くなったクラスメートが中学時代四谷見附に住んでいて、銭湯で歌を唄っていた舟木一夫に何度も出逢っていたという話を聞いたことがある、本当に良い声だったらしい。
舟木一夫に限らず、この頃スタートした加山雄三の映画「若大将シリーズ」でも京南大学の学生という設定の加山雄三は随分学生服姿でスクリーンに登場している。スクリーンでは何度も視ているが資料画像は殆ど無いのは何故だろう?
映画の中での1シーン、Google画像
その割には相手役の星由里子がオードリー・ヘプバーンのようにあまりにファッショナブルであったのには違和感を覚えたものだが・・・。(自分の大学時代あんなにファッショナブルな女性はいなかった)
映画の中での1シーン、Google画像
学生服と云えば、ちょうど1965年頃、勿論音楽の中心は全盛期のビートルズを中心とした英国リバープールサウンド(海外ではマージービーツと呼んだ)ばかりだったのに、なぜかPPM(=ピーター、ポール、& マリー)やブラザース・フォーなどフォークソングも全盛で、反戦運動のマドンナ的存在だったジョーン・バエズが来日した時学生服を着たというのも話題にもなった。
またまた余談だが、1965年の初冬12月、雑誌平凡パンチのクリスマス読者プレゼントの苗場スキー場夜行日帰りツアーに応募したら当選し、池袋の西武デパートから悪友と苗場スキー場へ行った事があった。まだ黄色い片屋根の苗場スキーロッジしかない時代の話だ。夜ロッジで加山雄三のエレキのライブ演奏が在った。多分バックは加瀬邦彦とワイルドワンズの前身だろうと思う。翌日は午後の出発までフリー滑走だったので筍山のテッペンまで行ってみたが、途中でその翌年封切られた「アルプスの若大将」の撮影をしていた。コースの途中でぽつんと一人でスキーを雪に刺してストックをクロスさせ椅子代わりにして日焼けをしていた加山雄三が印象的だった。
苗場スキー場でのロケを観て加山雄三の生演奏を聴いた人は余り居ないのでは?
今考えれば彼が「加山雄三のゆうゆう散歩」という平日の朝の帯番組をやっている姿との落差が50年という半世紀の時代の長さを感じさせる。
いつの間にか余談だらけのブログになりつつあるが、学生服がまだ全盛の1960年代前半に話を戻そう。当時国鉄の列車で地方に行くと沿線の看板に学生服のメーカーの看板があちこちに在った。それほど需要が多かったという証拠だろう。まだ百貨店にヤング・ファッション売り場と云うモノ自体無かった頃かも知れない。
で、1965年に発行されたこのTake IVYという写真本は偉い勢いで高校生男子のそれもカッコ良く有りたいと願うファッション志向の強いグループの間でバイブルのように広まった。休み時間、昼休みにはこの1冊の本を囲んで輪が出来た。スポンジや海綿が水を吸い込むかのごとく男子高校生の頭の中に各ページの米国東部アイビーリーグ大学8校の校内・近隣の街中のファッションスタイルが刷り込まれていった。中でもダートマス大学のボート部のメンバーが深グリーンのフーデッド・ニットパーカーのフードをかぶってバスケットシューズをだらしなく履いている姿が人気で話題となっていた。まだその頃日本にはフーデッドパーカーも、胸に自分の学校名を書いたスポーツクラブ・ユニフォームも慶應や早稲田以外にはそう多くなかったので、非常にカッコよく見えたのだろう。
グリーンのフーデッドパーカー・スタイルのカッコよさが高校2年生の自分たちに衝撃を与えた。 Take Ivyより
1985年頃、オンワードが日本で販売していてその後ブランドごと買い取ったJ・Pressのカタログ本の制作プロジェクトで米国東部へ取材出張し、エール大学やハーバード大学へ行きロケをしたが、此処があのTake IVYのキャンパスかと1965年を想い出し感無量だったのを覚えている。
1985年ボストン~ニューヘブンなどアイビーリーグ大学を撮影した。Take IVYから20年。
このTake IVYと同時に婦人画報社から出ていた雑誌「メンズクラブ」(=1963年に男の服飾から改名)も男子高校生たちのバイブルの仲間入りをした。1975年に自分が執筆・投稿した際の号が¥450円だったので、1965年頃の販売価格は多分2~300円程度ではなかったろうか?ほぼ同時期創刊された平凡出版(=現マガジンハウス)の週刊平凡パンチが¥50円だったから結構高い雑誌だったと思われる。