2019年12月22日日曜日

自然環境保護・動物保護とペット愛護・虐待の違い。The difference between natural animal protection and pet overprotection.

 最近、関西でハトへの餌やりを規制する条例が施行されたというが、餌やりの常連たちがちっとも守らないというニュースが流れていた。
 その昔、神奈川の鶴見川にゴマフアザラシだかヒゲアザラシだかが出没し、大騒ぎになった事が有った。元々は東京と神奈川の境を流れる多摩川河口付近に出たので「通称・タマちゃん」で有名になった迷い海獣だ。

 しかし、見守るだけで満足しないやじ馬が、そのうち残飯を投げて餌付けしようとしたのか、エサ取りのサポートをしようとしたのか不明だが、応援するものと阻止しようとするものが入り乱れてメディア・マスコミの恰好のネタになった。

 一般的に餌付けすれば、エサを貰う事を頼り、その後餌やり人が死んだり居なくなった場合に貰っていた動物が餓死するから・・。と言う説もあるが、これは一概にそうだとは言えないし実際そういう実例も知っている。

 動物は野生のモノでも家畜でも少しくらいの餌やりで慣らされても、野生の採餌本能が退化する事はないという実例は3.11東日本大震災の際の原発汚染地域の家畜やペットの野生化を見れば判る。
 一方で、我が家の隣の大学構内を徘徊する多量の野良猫に、毎日パンくずを振る舞う餌やり婆さんが居て、これを注意しない大学関係者(守衛など)のお陰で一時は野良猫がはびこって大変だった。このおかげでウグイスやアオジ、カシラダカなどのやぶ系の小鳥が校内から激減してしまった。
 しかしこの婆さん亡くなって餌やりが終わった途端、校内のあちらこちらに猫のシャレコウベが沢山見られるようになった。大学に面した我が家の物置にも直径5㎝ほどの子猫と思われる頭蓋骨が4個並んでいた事が有った。しかし減ってしまった野鳥は戻ってこない。 

 育雛中の鳥の巣からヒナが落下しても、触ったり、保護理由で自宅に持ち帰らないのが野鳥界、自然動物界ではお約束なのだが、一般の人々は「まー可愛い!私が保護しないで誰がするのよ?」のノリで傍に置こうとしてしまう。このように自然界で一番自分勝手で、独善的な生き物が人間なのだ。

 都会で生活し慣れた人類は、その本来の生き物としての野性をほとんど失ってしまっている。ヤマセミの観察を10年以上続けている筆者は、ヤマセミほか野鳥たちの自然界における生きる厳しさを幾度も現場で目撃している。その中で生まれた我ながらの常識は、此のところ一般的な人間社会に存在する「常識・当たり前」と相当違ってきていることに気が付き、憂いている。

 結論から言おう。自然界の動物と家のペットは似たような形で、似たような生活をしているかもしれないが、全然違う生き物なのだ。自然界の生き物は器からペットフードを食べたりしない。雨が降ってもレインコートなど嫌がって逃げ回り、身に付けない。寒いからと毛皮を着ている体に上から可愛い防寒着など着たくない。

 自然界の動物は室温23℃の部屋から瞬時にマイナスの屋外に出ることなど、有り得ないのだ。1日の温度差だってせいぜい15℃程度のゆるやかな温度変化の範囲の中で生きているのに、暖房の利いた23℃度の部屋からー4℃の屋外へ突然散歩に連れ出されたり、真夏クーラーの利いた18℃の部屋の中から、いきなり32℃の湿度の高い屋外へ連れ出されるなど自然界では、まずありえないのだ。

 正直これらはペット側にしてみれば余計なお世話で、ある意味虐待なのだ。何処に雨の日レインコートを喜んで着るワンコがいる?どこに器から人間でいえば防災食の乾パンのような味気ないペットフードを嬉しそうに食べる犬がいる?そう仕向けている人間がいるからだろうと思うのだ。 

 皆これはほとんどペット業界の戦略。売り上げ促進のための間違った嘘情報を流し商品を買わせるための仕掛けなのだ。

 「2週間で体重が10㎏も痩せました>」などとエキストラがキャーキャー言う、最近TVコマーシャルに多いインチキ・サプリの類と何ら変わらない。隅の方に小さく「当社比較データ」です・・・だの、「個人別のデータで効果は個人差があります・・・」などと言う言い訳を免罪符に・・・。

 これら人間がペットを人間と間違えて可愛がり、「雨だから濡れて寒いでちょ?これを着なちゃいね?」などと、無理やりキティちゃんデザインか何かのレインコートを着せられそうになって、嫌がり逃げ回るペット犬を幾度見た事か?

 この野生動物とペットの違い、人間と口をきけない動物(ペットを含む)の生態、生き方の違いを小学校の時からの義務教育で教えるべきだろう?最近そういう話をトンと聞いたことが無い。我が家では子供には小さい時から実例や画像を見せて教育した。

 火と電気と刃物という子供にとって一番身近な「危険アイテム」の教育と同時に行った。しかし最近の親は、親自体が子供(幼稚)で無知だし「家庭の躾けや教育をできなくなった人類」最初の世代だから致し方ないかもしれないが・・・。


 一方でヤマセミを視ていて更に思う事は子供へのしつけ・教育の厳しさだ。

 ヤマセミの生活する自然界は子供(=幼鳥)にとって命を失う危険だらけだ。基本的な危機回避スキルはDNAに含まれ、親から直接自分の脳に無意識に擦り込まれているとは思うが、それ以外の危機回避に関しては遺伝とは直接関係のない生誕後に「経験値」として覚える獲得形質なのだろう。

 これを覚えさせる為に、親鳥は必死に成ってスパルタ方式で子供を躾ける。時にはいう事を聞かない我が子(幼鳥)を上空で体当たりして水中に落としたり、水中から這い上がって飛び上がろうとする我が子に、上空から頭を押し付けるしぐさをする。一瞬の判断ミスで「死」に直結する自然界の厳しい教育がここに在る。

木の上で見張っていた親鳥が、無防備にチョロチョロする我が子めがけて急降下!

後から我が子に覆いかぶさるヤマセミの親鳥。

子供は水中に叩き落とされる。

飛びながら体当たりして我が子を水中に落とした別のヤマセミ。

この後再び這い上がった幼鳥を叩き落とす親鳥。

岩で休む我が子に近づき・・・。

急に迫って脅かすヤマセミ母親、幼鳥は後ろにのけぞって水中へ!

必至で落ちた川から上がる我が子に第2弾を見舞おうと急旋回する親鳥。

 上のスパルタ教育の様は、猛禽類やカラスに攻撃された際に、水中にもぐって反対方向へ瞬時に逃げる「危機回避訓練」の様子の一部なのだ。もちろん体罰にも見えるし、虐待にも見えよう。しかしこれをやらないと天敵に殺されてしまうのだ。現代の人類はこういった自然界の親が子を躾ける「ごく自然の営み」体罰をすべて虐待として、法で罰する仕組みを作ろうとしている。果たしてこれは「良い事なのか?」
 筆者は大いに疑問を感ずる。
これをもし「虐待」などという軟弱な人間の最近の常識で言えば、世の中のヤマセミの親鳥は全員犯罪者で懲役刑だろう。

 最近の法律改正で親が子供に手を挙げれば、その理由いかんを問わず「虐待」と見なす、というとんでもない状況に成っている。大体これを決めた人間は全員子育てした事が有るのか?子供がどういうもので、どういう危ない事をする生き物なのか知っているのか?
 子供を育てたこともない輩に、子供を育てる際の苦労や困難が判ってたまるか?男性が女性の出産に伴う苦痛や精神的ストレスを判らないのと一緒だろう?

 ましてや、手を上げたり、叱ったりすることの理由・原因も千差万別なのに、すべて同じに扱い、無条件に同じ罰則をあてがうなど、人間のやることではないと思うが如何だろう?「愛の鞭」と言う言葉が絶滅し、いつの間にか「愛の無知」になってしまっているような気がしてならない。

 尻を叩く罰則はまだ英国の私立校に立派に存在し、その存在理由もはっきりとしている。これをどう思うのだ?昔流行った「映画小さな恋のメロディ」を、あの尻打ち刑は「虐待」だから、イケない事としてもう上映させないというのか?
 この調子で行けば、そのうち「密告合戦」が始まるだろう。当事者でもない第三者が「どこそこで親が子供を虐待しているようです・・・。」
 そのうち密室で楽しんでいるだろう、嫌らしいSMプレイ(詳細はよく知らないが海外の映画に出てくる)の類も「虐待だ!」と罰する時代が来るのだろうか?それともそれを嫌らしいと言っただけで「差別だ、ヘイトだ!」と騒ぐのだろうか?