2019年12月10日火曜日

団塊世代は60年経った北九州・小倉で数々の偶然に遭遇。The baby boomer encounterd many incidentally happenings in Kokura of Kitakyushu , 60 years later.

 今年4度目の人吉行、年初めのNHK「ニッポンの里山」収録追加分に関する人吉行が2回在った。記憶の上では年明け早々の事は忘れてしまっているため、6月の繁殖期と今回が実質2回のヤマセミ生態観察の旅となるような気がしている。

 昨年、仲の良かった小倉の付属小学校時代のクラスメートを亡くし、2か月後は東京の高校時代のバレーボール部で一緒に戦った同期を亡くし、懐かしさもあって人吉への行程の途中、小倉に一泊することにした。多分これが最後の小倉泊りになるだろう。

 この小倉市(現北九州市)は1955年8月から1960年10月まで住んだ所。小学校1年生の夏休み早くも東京から転校し、更に2年後の1957年4月に二度目の転校をしている。まるでサーカスの子供のような幼少期だった。
 したがって、環境の変化には非常に強い性格となった。あの恐竜たちが絶滅した大隕石の衝突時に生きていたとしても耐えられたのではないかと思うほど…は冗談。

 話が変な方向へ進みそうなので舵を戻して、要は1955年からのほぼ6年間が筆者の小倉時代なのだが現在の小倉に当時の面影を追うと、夕方、くっきりとその全容を見せる東側の足立山と、日の沈む方向に大きくそびえる夕焼けの中の皿倉山のシルエット。人工物では紫川の対岸にある南蛮式の小倉城、それに港湾方向に存在する重工業の工場群だろうか?

 魚町銀天街をはじめ、大きなバス通りなどは既に完全に60年前の面影を失い、西鉄の路面電車も消え去り、この60年間に数回来ていなければ完全に別の場所と思うだろう。浦島太郎状態間違いないという事だ。

 今回泊った際に、色々な偶然が生じたのでその一部をご紹介。コンパクトデジカメを一個持って手ぶらで街中を歩き、気になる被写体を撮影しまくった。

 写真では説明しようのない変化として、小倉駅付近で朝、トーストを食べようと思ってホテルから出ると、なんと!モーニングサービスで普通のトーストを食べられるところが1軒しかなくなっていた。しかも月曜日はお休み!
 スタバやタリーズは元々トーストが無いから仕方ないが、焼く手間が面倒くさいのだろうか?
 その他のお店もクロワッサンだったり、訳の分からないスコーンの出来損ないみたいなのばかりで、周りをうろついている若者たちがみな宇宙人に見えたのは私だけだろうか?

 60年前とは、衣食住が全然違う!当たり前なのだがそういう意味では60年前我が家に白黒テレビが入って大騒ぎして以来、世の変化、便利化による一億総白痴化がどんどん進み、インターネットやパソコンゲーム、スマホの普及でそれは今やピークに達しようとしている。

 この先自動運転車やAIのお陰でどんどん人間が退化(脳と肉体フィジカル共に)し、100年も経てばチンパンジーと肩を並べるまでに一般人は退化するだろう。100年待たずとも電気さえ止まれば、即江戸時代に戻ることは明白?

 そういった妄想が頭をよぎった小倉の黄昏時だった。



これぞダイアモンド皿倉山、リーガロイヤルのホテル上層階から。しかしガラスが汚くて撮るのに非常に苦労した。海際なので無理もないとは思うが・・・。

ダイアモンド皿倉山の最後の一瞬!

皿倉山の頂上アンテナ群。

まだ明るさが残る皿倉山、60年前の小学校時代と変わらない。

昭和35年に再建なった南蛮造りの小倉城。イルミネーションが気恥ずかしそうに見えた。

右の小倉城が左の市役所の建物に映っていた。

市内を流れる紫川にちなんで紫色のイルミネーションなのだろう。

魚町の入り口看板と月!数少ない昭和の情緒を残す。

この左の銀行の前から「大谷口=現・大谷池」行の西鉄バスで小学校に通った。

此の黄昏街歩きの前に撮影した足立山山塊。小学校時代「山」と言う漢字は此の足立山の形から出来たと教えられ、まじめに信じていた時期があった。

 昔から伝統の味、一個100円の湖月堂栗饅頭を食べる団塊世代と、今流行りのタピオカドリンク\230を吸う若者の時代格差を強く感じた今回の小倉だった。